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幸田露伴の小説「運命5・方孝嬬」

運命5

 方孝嬬はどのような人か、孝孺の字(あざな)は希直(きちょく)、或いは希古(きこ)と云い、寧海(ねいかい)の人である。父の克勤(こくきん)は済寧の知府であった。政治を行うに当っては徳を基本とし、心を込めて民のために勤める。田野を開き、学校を起こし、自身よく働き、無駄を省き、人に対して親切誠実であった。かつて盛夏の時期に済寧の守将が民を督促して城を築かせたが、克勤は「民は今、田の耕耘の時期で暇が無い、どうしてまたモッコ作業が出来よう」と云い、中書省に願って作業をやめさせることが出来た。これ以前はよく旱(ひでり)があったが、作業が無くなると甘雨が大いに降った。済寧の民は歌って云う、

孰(たれ)か我が役(えき)を罷(や)めしめしぞ、
使君(しくん・知事)の 力なり。
孰か我が黍(しょ)を活(い)かしめしぞ、
使君の 雨なり。
使君や 去りたまう勿(なか)れ、
我が民の 父なり 母なり。

 克勤が民の信頼を得て治めること三年、戸数は倍増し一郡は豊かに満ちて、男も女も怡々愛々(いいあいあい)として生を楽しんだと云う。克勤は愚庵を名乗る。宋濂に「故愚庵先生方公の墓銘文」がある。滔々(とうとう)数千語、具(つぶさ)にその人となりを表わし尽くす。中に記す、「晩年は益々謙虚になられ、昼に行ったことを夜には天に報告した。愚庵はただ単なる良吏では無い」と。宋濂また云う、「先生は昔からよく云われる聖人のような人である」と。これは宋濂の御世辞の言葉では無いだろう。孝孺はこの愚庵先生の第二子として生まれた。天分厚く、家庭の躾(しつけ)も厳しかったのだろう。幼少にして精敏、両眼鋭く、日々の読書は細部に及び、文章を作れば雄邁で誠に深く、里人は孝孺を小韓子(しょうかんし)と云ったとされる。その聡明なことがわかる。

 当時、宋濂は一代の大儒として太祖の優遇を受けて、文章と徳業において天下の尊敬するところであった。周囲の学者は皆宋濂を太史公と呼んで姓氏では呼ばなかった。宋濂の字は景濂(けいれん)と云い、その先祖が金華の潜渓(せんけい)の人なので潜渓と号した。太祖は朝廷で宋濂を褒めて、「宋濂は朕に仕えること十九年、未だ一言の偽り無し、一人をも謗ること無く、終始変わらない。ただの君子では無い、賢者と云うべきであろう」と云う。太祖は宋濂をこのように見ていた。宋濂の人品が想像できる。孝孺は洪武九年に宋濂に遇って弟子になった。その時宋濂は六十八、孝孺を弟子にして大いにこれを喜ぶ。宋濂の「方君(方孝孺)の天台に還(かえ)るを送る」の詩の序に自ら記して云う、「晩年に天台の方君を得た。その性格は凝重(ぎょうちょう・重々しく)物に動じない。頴鋭(えいえい・優れて)で理に明るく、折に触れて文を作る。山から水が流れるような、騒がしい百鳥の中に独(ひと)り鳳凰を見るようである。これを喜ばないでどうしよう」と。凝重と頴鋭の二句に、老先生の眼中の好学生を写し出して神妙である。独り鳳凰を見ると云うに至っては高評価も極まると云える。詩十四章、その二に云う、

念(おも)う 子(し)が 初めて来たりし時、
才思 繭糸(けんし)の若(ごと)し。
之を抽(ひ)いて 已(すで)に緒(いとぐち)を見る、
染めて就(な)せ 五色(ごしき)の衣(い)。

その九に云う、

須(すべか)らく知るべし 九仭(きゅうじん)の山も、
功 或は 一簣(いっき)に少(か)くるを。
学は 尊ぶ 日に随って新(あらた)なるを、
慎んで 中道に廃する勿れ。

その十に云う、

群経 明訓 耿(こう)たり、
白日 青天に麗(かか)る。
苟(いやしく)も徒(いたずら)に 文辞に溺れなば、
蛍爝(けいしゃく) 姸(けん)を争わんと欲するなり。

その十一に云う、

姫(き)も 孔(こう)も また何人(なんびと)ぞや、
顔面 了(つい)に異(こと)ならじ。
肯(あえ)て 盆央(ぼんおう)の中に堕(だ)せんや、
当(まさ)に 瑚璉(これん)の器(き)となるべし。

その最終章に云う、

明年 二三月
羅山 花 正(まさ)に開かん。
高きに登りて 日に眄望(べんぼう)し、
子(し)が能く 重ねて来たるを遅(ま)たむ。

その才能を称賛し、その学ぶことを勧め、その流されて文辞の人に成ることを戒め、その奮って聖賢の域に至ることを求め、後日再び会って大道を論じることを願う。宋濂の孝孺に対し善しとするところ、甚だ極まる。親切の深く徹するところ、見るべきものが有る。アア、老先生、誰が好学生を愛さない者があろう。好学生、誰が老先生を慕わない者があろう。孝孺はその翌年の丁巳(ていし)の年に経書を浦(ほ)陽(よう)の宋濂に学ぶ。学ぶこと四年、学問大いに進んで宋濂門下の名のある俊英の人々を抜き、先輩の胡翰(こかん)や蘇伯衡(そはくこう)も自ら「及ばない」と云う程になった。

 洪武十三年の秋、孝孺の帰省に際して、宋濂がこれを送る五十四韻の長詩がある。その引(いん)の中で云う、「細かに方君の学の進捗を観るに、日々に進歩し月々に発展する。僅か四年を越えただけで、その才能の花開くこと、このようである。後四年もすれば、即ち方君の至るところは計り知れない。近代でこれを云えば、欧陽脩や蘇東坡の輩(やから)はしばらく措いて論じないが、今その他の諸子と文芸の場で比較すると誰が後で誰が先かは分からないが、人は私の情が過ぎると疑うが、二十余年の後には私の言(げん)が真実であり、方君を認めることの過剰で無いことが信じられよう。しかしながら私の方君を認めるところは文だけには限らない」と。また云う、「私は方君の去ることを深く惜しみ、ために此の詩を賦す。そして方君の素質の善を揚げ、そしてまた遠大な業を勧める」と。宋濂の孝孺を愛重し奨励すること至れり尽くせりと云える。その詩や辞を書いて自在、意(おもい)を陳べて荘重、孝孺の大成を期待し、世を治め民を救う真の儒者に成ることを願う。章末に句が有って云う、

生(せい)は乃(すなわ)ち 周の容刀(たまのさや)、
生は乃ち 魯の璵璠(よきたま)。
道真(しん)なれば 器(き)乃ち貴し、
爰(なん)ぞ須(もち)いん 空言を用いるを、
孳々(じじ)として 務(つと)めて踐形(せんけい)し、
負(そむ)く勿れ 七尺の身に。
敬義 以て衣(い)と為し、
忠信 以て冠(かん)と為し、
慈仁 以て佩(はい)と為し、
廉知 以て鞶(かわおび)と為し、
特(ひと)り立って 千古を睨まば、
万象 昭(あき)らかにして昏(くら)き無からむ。
此の意(こころ) 竟(つい)に誰か知らん、
爾(なんじ) 言(ことば) 諄々たり。
徒(いたずら)に 強聒(しいてものい)うと謂(おも)う勿れ、
一々 宜しく紳(しん)に書すべし。

 孝孺が後に此の詩を人に示す時に書して云う、「先輩が後学の者に学を勉めさせようとする親切心は、ただの言葉のだけではなく、出来れば学を共に勉めたいとする」と。臨海の林佑(りんゆう)や葉見泰(ようけんたい)などが宋濂の詩に跋(ばつ)をして、宋濂の期待に酬いることを孝孺に求めた。孝孺は宋濂の期待に背かなかった。

 孝孺の集は、その人が天子に憎まれたことで、当時の人々の避けるところとなり、当時においては絶滅していたが、没後六十年に至って臨界の趙洪(ちょうこう)が出版物に収録したことで、その後また次第に世に伝わるようになった。今「遜志斎集(そんしさいしゅう)」を執ってこれを読むと、「蜀王」の中に孝孺の精神面目が美しく輝いて厳存するのを感じる。その「幼儀雑箴(ようぎざっしん)」二十種を読めば、坐・立・行・寝から、言・動・飲・食などに至るまで、皆道に違(たが)わないことを願って、そして実践躬行して徳を成そうとした意(こころ)を看て取るべきである。その「雑銘」を読めば、冠・帯・衣・屨(く)から垂(ち)・鞍・轡(ひ)・車等に至る、各々一ツ一ツに湯(とう)の日新の銘に則(のっと)って、語を用いて文を作る。反省修養の意(こころ)が看て取れる。「雑誡(ざつかい)」三十八章、「学箴(がくしん)」九首、「家人箴(かじんしん)」十五首、「宗儀」九首等を読めば、孝孺が学問をするに際して空言を排し実践を尊び、体験心証して聖賢の域に至ろうとしたことが看て取れる。「明史」は称えて記す、「孝孺は文芸を軽視し、常に王道を明らかにして、太平にすることを自分の任務とする(これは鄭暁(ていぎょう)の「方先生伝」に本づく。)」と。真(まこと)にそうである。孝孺の志すところの遠大にして、願うところの真摯なことは、人をして感奮させるものがある。「雑誠」の第四章に云う、「学術が重きを無さないのは、四ツのシミが学術を害しているからである。姦言(かんげん)を飾り、近事を採り上げ、時勢を窺い、都合に走り、隙に乗じ、富貴を志とする。これを利器のシミと云う。素早く耳にし、自らを吹聴し、現実を偽り、言葉が過ぎて、聖賢でも無いのに一家を張り、果敢に大言して以て人に高ぶり、そして道理の是非を顧みない。これを求名のシミと云う。拾い集めて説を成し、上古(周以前)に合わせることに務め、先儒を非難して、「思うに我に及ばない」と云い、更に異説をとなえて学者を惑わす。これを訓詁(くんこ)のシミと云う。道徳の趣旨を知らず、手を加え飾りたて整えて、それを以て新奇と為し、歯を鉗(かん)し舌を刺して簡古と為し、世に加益するところは無い。これを文辞のシミと云う。四ツのシミが交々(こもごも)為されて聖人の学は亡ぶ、必ずコレを身につけ、コレを政教に現わし、コレを以て物事を成すべきは、唯コレ聖人の学だけである。聖道を離れて順(したが)わず、そして惟(ただ)シミに陥(おちい)る、その惑(まど)えることも甚だしい」と。孝孺のこの言(げん)を見れば、実に鄭暁が伝えた通りである。四箴(しかん)の序の中で云う、「天に合わせて人に合わせず、道に同じくして時に同じくせず」と。孝孺のこの言を見れば、既にその卓然として自立し、信ずるところあり、安んずるところあり、潜渓先生(宋濂)が云うところの、「特(ひと)り立って千古を睨み、万象を昭(て)らして昏(くら)き無し(独り立って千古を照覧し、万象を明らかにして解らないことが無い)」の境地に入ったところが看て取れる。またその「克畏(こくい)」の箴(しん)を読めば、「アア大いなる上帝、衷(まごころ)を人に降す(アア大いなる上帝、真心を人に掛ける)」と云うのから、「その方(まさ)に昏(くら)きに当ってや、恬(てん)として宜しく然(しか)るべし(その正に暗きにあたっては、平然として宜しくあるべし)」と云うのを、夜中に静かに思えば、コレ正に吾が世界ではないか。「即ち奮ってそして悲しみ、速やかに前轍(ぜんてつ)を改める(即ち奮起しそして悲しみ、速やかに失敗を改める)」と云い、「一念の微(かすか)なところにも鬼神は降監する。安易なところに安ずる勿(なか)れ、嗜(たしな)むところを嗜む勿れ(微かな思いにも鬼神は降(くだ)る、安易なところに安住する勿れ、好むところに耽溺する勿れ」と云い、「表裏交々(こもごも)修めて、本末を一致させる(表と裏を何度も何度も修めて核心を得る)」と云うようなことは、まるで神を奉じる者のように思想や感情が溢流するのを見る。父の克勤が仕事を終えて、「昼に行ったことを夜は天に報告した」ことを考え合わせると、孝孺が善良な父や品行方正な師や孔孟(こうもう)の正大純粋な教えの感化を受けて、真に心の奥底から、道を実践し徳を成す人になることを願った人であることを看るべきである。

 孝孺は文芸を軽視し、孔孟の学を修めて伊尹(いいん)や周公のように政務に就こうとする。しかしながら、その文章はおのずから佳(よ)く、前人は之を評価して云う、「博朗で深く豊か、盛大で余り有り、力強くして抑えられない」と。また云う、「純粋雄邁で深い」と。孝孺の一大文豪であることは勿論世に於いて定評があり、詩は推測するところ孝孺の目指すところでは無いであろうが、しかしまた、おのずから見るべきものがある。その「王仲縉感懐(おうちゅうしんかんかい)」の詩の末句に、

壮士 千載の心、
豈(あに)憂えんや 食(し)と衣(い)とを。
由来 海に浮かばんの志(こころざし)、
是(これ) 軒冕(けんべん)の姿にあらず。
人生 道を聞くを尚ぶ、
富貴 また奚(なに)為(す)るものぞ。
賢にして有り 陋巷(ろうこう)の楽(たのしみ)。
聖にして有り 西山の飢(うえ)。
頤(おとがい)を朶(た)る 失うところ多し、
苦節 未だ非とす可からず。

 道衍は豪傑である。孝孺は君子である。道衍は云う、「苦節、貞(き)くべからず(苦節を味わってはいけない)」と。孝孺は云う、「苦節、未だ非とすべからず(苦節を非としてはいけない)」と。道衍は云う、「伯夷の度量の何ぞ隘(せま)きや(伯夷の度量の何と狭いこと)」と。孝孺は云う、「聖人にして有り西山の飢え(聖人にして西山の飢えがある)」と。孝孺またその「瀠陽(えいよう)を過(よ)ぎる」の詩の句で云う、「之に因(よ)って首陽を念(おも)う、西顧(せいこ)すれば清風生ず」と。また「乙丑(いつちゅう)中秋後二日(ちゅうしゅうごふつか)兄(けい)に寄する」詩の句に云う、「苦節、伯夷を慕う」と。人異なれば情が異なり、情が異なれば詩は異なる。道衍は僧であるのに、「觥籌(さかづきのかず)また何ぞ数(かぞ)えん」と云って快楽主義者のようであり、孝孺は俗であるのに飲酒の箴言(しんげん)で、「酒の欠点は、謹者を荒(すさ)みさせ、荘者を狂わせ、貴者を賤しくし、存者を亡びさせる」と云って、酒杯の銘には、「親睦を深めて衆を和するのも常に此処に於いてし、禍(わざわい)を造り退廃をおこすのも常に此処に於いてする。その悪に懲(こ)りて善に赴むき、その進退を慎む」と云った。道衍は仏を奉じて、しかも世俗に順う外道のようで、孝孺は儒を尊んで、しかも浄行者(じょうぎょうじゃ)のようである。アア、何とその奇妙なことよ、しかも孝孺も飲酒を理解しない訳では無い。その「上巳(じょうし)南楼に登る」の詩に云う、

昔時(せきじ) 喜んで酒を飲み、
白(さかづき)を挙げて 深きを辞せざりき。
茲(ここ)に中歳(ちゅうさい)に及んでよりこのかた、
已(すで)にまた 人の酙(く)むを畏(おそ)る。
後生(わかもの) ゆるがせにする所多きも、
豈(あに)識らんや 老いの会臨(かいりん)するを。
志士は 景光を惜しむ、
麓に登れば 已に岑(みね)を知る。
毎(つね)に聞く 前世の事、
頗(すこぶ)る見る 古人の心、
逝(ゆ)く者 まことに息(やす)まず。
将来 誰か今に嗣(つ)がむ、
泯滅(びんめつ) 寧(なん)ぞ欽(うらや)むに足らんや。
毎(つね)に憐れむ 伯牙(はくが)の陋(ろう)にして、
鐘(しょう)死して その琴(こと)を破れるを。
自ら得るあらば 苟(まこと)に伝えるに堪えむ、
何ぞ必ずしも 知音(ちいん)を求めんや。
俯して観る 水中の鯈(こざかな)、
仰いで観る 雲際(うんさい)の禽(とり)。
真楽 吾 隠さず、
欣然として 煩襟(ぼんきん)を豁(ひろ)くす。

 前半は飲酒の歓楽や学業の荒廃する事を歎き、後半は一転して、真(まこと)の楽しさは自得するもので、外から与えられるものではないことを云う。伯牙を愚かであるとし、伯牙が破琴したことを憐れんで「荘子」を引用して不隠(ふいん)を挙げる。それを外から得る者は中に主たるものが無く、門(他家)から得る者は家(自家)に珍(ちん・宝)が無ない。白(さかづき)を挙げて楽しみとするが、何でそれが至楽であろう。

 孝孺の詩を道衍の詩と比べると、風格がおのずから異なっていて、清新もまた遥かに異なる。意気の俊邁なことはお互いに譲らないけれども、孝孺の詩は終始これ孝孺の詩であって、その帰着するところは常に、正々堂々の大道に合致することを願って少しも奇異奇抜な言を用いず、また常識に外れるような態度が無い。勉学の詩二十四章などは、思うに壮年の時の作であろうが、その見本である。談詩五首の一ツに云う、

世を挙って 皆宗(そう)とす 李杜(りと)の詩を、
知らず 李杜の 更に誰を宗とせるを。
能く 風雅 無窮の意を探らば、
始めて是(これ) 乾坤 絶妙の詞(し)ならん。

その二に云う、

道徳を 発揮して 乃ち文を成す、
枝葉 何ぞ曽(かつ)て 本根(ほんこん)を離れん。
末俗 工を競(きそ)う 繁縟(はんじょく)の体(たい)、
千秋の精意 誰と興(とも)に論ぜん。

 これが孝孺の詩に対する見解である。華(はな)を斥(しりぞ)け実(じつ)を尚(とうと)び、雅(が)を愛して淫(いん)を悪(にく)む。尋常一様な詩人が、自ら綺羅(きら)を喜び、自ら文彩(ぶんさい)を衒(てら)い、そしてその本旨正道を逸脱して邪道に奔(はし)るようなことは、孝孺の絶対に仕ないところである。孝孺の父の愚庵や師の宋濂の見解も大略このようであったろうが、孝孺の厳格で正しいことを好む性格からも、自然とこのように成らざるを得ないものがあって、孝孺は自分を欺かなかったのである。

 孝孺の父は洪武九年を以て没し、師の宋濂は同十三年を以て没する。洪武十五年に呉沉(ごしん)の薦めで太祖に見(まみ)える。太祖はその挙止の端麗なことを喜んで皇孫に向って云う、「この壮士が、正にその才能を老成させて、やがてお前を輔(すけ)けてくれよう」と。その後十年して、また薦められて見(まみ)える。太祖云う、「今は孝孺を用いる時では無い」と。太祖が孝孺を愛重しながら挙用しなかったのは何故か。後人でこれを考える者は多い。しかしながらこれは強いて考えることもない。太祖が孝孺を愛重されたことは、二回の召見(しょうけん)の間(かん)に於いて、たまたま敵のために訴えられた孝孺が太祖の前に送られた時、太祖がその名を覚えておられて、特に許されたことでも明らかである。孝孺の学徳が次第に高くなると、太祖の十一番目の子の蜀王の朱椿(しゅちん)は孝孺を招聘して、特別に世子の傅(ふ)に待遇して尊んだ。王が孝孺に賜った書には、「余は一日見ないと、三年も見ないような気がする」との語があり、また王の「孝孺を送る」の詩では、「士を閲(けみ)す孔(はなは)だ多し、吾は希直(きちょく)を敬す(多くの士を見たが、吾は孝孺を敬う」の句がある。またその一章に、

謙(けん)にして以て みずから牧(ぼく)し、
卑(ひく)くして以て みずから持(じ)す。
雍容(ようよう) 儒雅(じゅが)、
鸞鳳(らんほう) 儀あり。

とあり、またその賜(し)詩(し)三首の一に、

文章 金石を奏(そう)し、
衿佩(きんぱい) 儀刑を観(み)る。
応(まさ)に世々 三輔(さんぽ)に遊ぶべし、
焉(いずく)んぞ能く 一経(いっけい)に困(こん)せん。

の句があって、王の優遇する状(さま)が知れ、孝孺がその恩に応(こた)えるのに道を以てしたことが分かる。王は孝孺の読書の部屋を正学と名付ける。孝孺は自らを名乗って遜志斎と云う。人が正学先生と云うのは実に蜀王の名付けに因るのである。

 太祖が崩じて皇太孫が立つと、朝廷の臣等は交々(こもごも)孝孺を薦める。そこで召されて翰林院に入る。当然のこと徳望があり、当時に頼られて重んじられ、政治から学問に至るまで常に帝の諮問(しもん)を受けて暇無く、翌二年には文学博士となる。燕王が挙兵すると日々召されて謀議に加わり、詔書や檄書は皆孝孺の手に成る。三年から四年になって、孝孺は甚だ心が煎(い)られ焦慮するが、自身は武臣では無い。皇軍はしばしば敗れて燕軍は城下に迫る。金川門の守りを失い、帝自ら内裏(だいり)を焚(や)き玉われる。孝孺は伍雲(ごうん)等に捕らえられて獄に入れられる。

 燕王は思い通りになって今や帝である。もとより孝孺の才を知っていて、また道衍の言も聞く。そこで孝孺を赦して之を用いようとして招聘するが、孝孺は従わない。そこで孝孺を獄に繋ぎ弟子の廖鏞(りょうよう)と廖銘(りょうめい)に利害を以て説得させる。二人は徳慶侯廖権(りょうけん)の子である。孝孺は怒って云う、「お前達は私に就いて何年も書を読んで、とどのつまり正義の何であるかも分からないのか」と。二人は説得できずに終わる。帝は猶も孝孺を用いようと欲し、ある日、説諭されること再三に及ぶ。しかしながら終(つい)に従わない。帝は即位の詔(みことのり)の草案を欲する。廷臣等は皆孝孺を推挙する。そこで召して獄から出させる。孝孺は葬服を着て入り、慟哭して悲しみ、声は殿中に徹(とお)る。帝は自(みずか)ら座を下りて労(ねぎら)って云う、「先生、労苦する勿れ、我は周公が成王を輔佐したように行うだけだ」と。孝孺云う、「成王が何処に居る」と。帝云う、「彼は自ら焚死(ふんし)する」と。孝孺云う、「成王が居ないのであれば何で成王の子を立てられない」と。帝云う、「国は長君に頼(よ)る」。孝孺云う、「何で成王の弟を立てられない」。帝云う、「これは朕の家の事である、先生、労苦する勿れ」と。左右の臣に筆と紙を出させて、おもむろに命じて云う。「天下に詔をする。先生でなくてはならない」と。孝孺は数字を大書し、筆を投げ捨てて大哭(だいこく)し、かつ罵りかつ歎き悲しんで云う、「死ぬだけだ。死なないでどうする。詔は断じて書かない」と。帝は激怒し大声を出して云う、「お前がどうして安らかに死ぬことが出来よう。たとえ死んでも九族(きゅうぞく)に累が及ぶことを考えないのか」と。孝孺は奮然として云う、「たとえ十族であっても私をどうできよう」と。声は甚だ烈しい。帝は元来が雄傑剛猛な性格、ここに至って大いに怒って、刀でもって孝孺の口を抉(えぐ)らせて、また獄に閉じ込める。

 孝孺が宋濂に知られたのは、思うに「釈統」三篇と「後正統論」とによってであろう。四篇の文章は雄大にして荘厳、その大旨は義理の正しさに準拠して、情勢に従うことを斥け、王道を尊び覇道を卑しみ、天下を全有し天下に号令する者であっても、道に合しない者は正統な君主としてはならないとする。秦や隋や王莽(おうもう)や晋・宋・斉・梁や則天武后(そくてんぶこう)や苻堅(ぶけん)等は、皆コレ天下を有すること数百年を越えると云えども、正統とすることは出来ないとする。孝孺云う、「君として尊ぶに足るところの者が、どうして天下を有するなどと云うことがあろう」と。また云う、「天下を有して、しかも正統と云えない者は簒臣(さんしん)と賊后(ぞくこう)と夷狄(いてき)の三ツである」と。孝孺は篇末に記して云う、「私はこの文を未だかつて人に見せたことは無い。人はこの文を見れば、皆私を嘲り笑って狂人と云い、或いは陰で悪く云う、この文を見て認めてくれる者は、ただ私の師の太史公(宋濂)と金華の胡公翰(ここうかん)だけであろう」と。この正統変統の論はもちろん史のために発したものだが、「君として尊ぶに足るところの者がどうして天下を有することを云うや」と云う論があった後の、二十余年経った或る日に、簒奪の君に逢ってその天下に告げる詔を起草することを迫られる。アア、運命の巡り合わせもまた数奇であると云える。孝孺はかつて筆の銘を作って、云う、

妄(みだ)りに動けば 悔い有り、
道は 悖(もと)る可からず。
汝 才ありと謂(い)う勿れ、
後に 万世あり。

また嘗て紙の銘を作って、云う、

之を以て言を立つ、その道を載せんと欲す。
之を以て事を記す、その民を利せんと欲す。
之を以て教えを施す、その義ならんを欲す。
之を以て法を制す、その仁の成らんを欲す。

 これ等の文は、思うに若い時に作られたものである。アア、運命の巡り合わせのまた何と数奇なことか。二十余年の後に筆と紙が前に在る。筆と紙を執って詔を起草すれば永く富貴を得られよう。これに臨んで起草を拒めば直ちに刀刃(とうじん)が加えられよう。アア、正学先生はここに於いて、「成王何処に在るや」と論じ、ここに於いて筆と紙を地べたに投げ棄てて慟哭する。父に背(そむ)かず、師に背かず、天に合して人に合せず、道に同じくして時と同じくしない、凛々烈々(りんりんれつれつ)として屈せず弛(たゆ)まず、苦節の伯夷を慕おうとする。壮烈極まるではないか。

 帝は孝孺の一族を捕らえ、一人を捕らえる度に孝孺に示す。孝孺は顧みない、そこで殺す。孝孺の妻の鄭(てい)氏(し)と子供たちは首を吊って死ぬ。二女子は捕らえられて淮を過ぎる時に橋から身を投げて死ぬ。末弟の孝(こう)友(ゆう)もまた捕らえられて正に殺されようとする。孝孺がこれを見て涙を落とすと、流石は孝孺の弟である。

阿兄(あけい・兄さん) 何ぞ必ずしも 潸々(さんさん)たらむ、
義を取り 仁を成す 此の間に在り。
華表(かひょう) 柱頭 千歳の後、
旅魂(りょこん) 旧によりて 家山(かざん)に到らん。

と吟じて殺された。母族の林彦清(りんげんせい)等及び妻族の鄭原吉(ていげんきち)等九族は既に殺されて、門下生等まで方氏の族として罰せられ、死罪とされた者およそ八百七十三人、流罪とされた者は数えきれない。孝孺は終(つい)に聚宝門外(しゅうほうもんがい)で磔殺(たくさつ)された。孝孺は慨然とし絶命の詞(し)を作って刑につく。時に年四十六、詞に云う、

天 乱離を降(くだ)して、孰(た)れかその由(よし)を知らん。
奸臣 計(はかりごと)を得て、国を謀(はかる)に猶(ゆう)を用いん。
忠臣 憤(いきどお)りを発し、血涙 交々(こもごも)流れる。
此れを以て 君に殉じ、抑(そもそも)また何を求めん。
嗚呼(アア) 哀れ哉、庶(こいねがわく)ば 我を尤(とが)めざれ。

 廖鏞と廖銘は孝孺の遺骸を拾って聚宝門外の山上に葬ったが、二人もまた捕らえられて殺された。同じ門人の林嘉猷(りんかゆう)は、かつて燕王父子の間に離反の謀(はかりごと)を為した者である。これもまた殺された。

 方氏一族はこのようにして殆んど絶えたが、孝孺の幼児の徳宗(とくそう)はこの時九才、寧海県の典史の魏公沢(ぎこうたく)の匿(かくま)うところとなって死なないで済んだ。後に孝孺の門人の兪公允(ゆこういん)の養うところとなって、遂に兪氏を継いで子孫は増え拡がり、万歴三十七年には二百余人になったことが、松江府(しょうこうふ)の儒学の申文(しんぶん)に見え、旧姓に復すことが許されて方氏が再び栄えることになった。廖鏞・廖銘及び門人の王稌等による遺骸収容の苦労もまた無駄ではなかった。万歴になって墓碑と祠堂が造られて、祭田や嘯風亭等も備わり、松江に求忠書院が造られるに至った。世に在る正学先生のような人が、どうして後継無く祠堂無く跡形無く、滅亡するようなことがあろうか。

 節に死んで一族を滅ぼされた事は無論悲壮である。ここに於いて正学先生の墓を過(よ)ぎる者は悼(いた)み悲しみハラハラと涙を流す。そのため祭弔慷慨の詩が甚だ多く生まれる。衛承芳(えいしょうほう)の古風な一首の中に句がある。云う、

古来 馬を叩(たた)く者、
采薇(さいび) 逸民を称す。
明の徳 詎(なん)ぞ周に遜(ゆず)らん、
乃(すなわ)ちその仁(じん)を成(な)す無からんや。

と。劉秉忠を慕う道衍は功を成して秉忠のように成ることを得、伯夷を慕う孝孺は節を成して伯夷に並べられるようになる。王思任(おうしじん)の二律の一に句があり、云う、

十族 魂(たま)の 暗き月に依る有り、
九原 愧(はじ)の 青燈に付する無し。

と、李維楨(りいてい)の五律六首の中に句があり、云う、

国破れて 心仍(なお)在り、
身危うして 舌尚存す。

また句があり、云う、

気は壮(さかん)なり 河山(かざん)の色、
神(しん)は留(とど)まる 宇宙の身。
(⑥につづく)

注解
・知府:府知事。
・中書省:皇帝の下で行政を掌った部門。
・欧陽脩:欧陽修、中国・北宋の政治家・詩人。
・蘇東坡:蘇軾、字は子瞻、東坡は号、中国北宋の政治家、文豪、書家、画家。
・湯の日新の銘:湯王は沐浴の盤に「苟日新、日日新、又日新」と刻んで自戒の言葉とした。
・孔孟の正大純粋な教:孔子と孟子の教え、即ち儒学。
・伊尹:中国・殷初の伝説的な政治家。殷の成立に大きな役割を果たした。
・周公:中国・周の政治家。姓は姫、諱は旦。周公旦。幼少の成王を補佐して武王亡き後の周の安定に貢献した。
・伯牙:中国・春秋時代の琴の名人。琴の名手であった伯牙は、良い聴き手であった鍾子期に死なれて、ガッカリして琴の絃を切った。
・傅:天子や皇太子の輔佐役。
・大哭:大声で歎き悲しむこと。
・九族:親族。
・王莽:中国・新の皇帝。前漢の元帝の皇后の王政君の甥で、成帝の母方の従弟にあたる。
・則天武后:中国・唐の高宗の皇后、後に唐に代わり武周を建てた。
・苻堅:中国・五胡十六国時代の前秦の第三代皇帝。
・簒臣:反乱を起こして政権を簒奪した臣。
・賊后:専権政治を行使する皇后。
・夷狄:周辺の異民族。
・申文:上申書。
・衛承芳:中国・明の政治家・文学者。
・王思任:中国・明の文学者。
・李維楨:中国・明の政治家・文学者。


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