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幸田露伴の史伝「活死人王害風⑥」

 大定四年になる。時に重陽は年五十三、或る日重陽は甘河鎮から酒を一壺持って庵に帰ろうとする。道で一先生に遇う。「害風よ、我に酒を飲ませてはどうだ」と強要する。重陽は拒まずに之を与える。先生は酒を一飲みで飲み尽くし、重陽に壺に河水を汲ませる。そこで河水を汲んで先生に差し上げると、先生は笑って云う、「お前が飲め」と。重陽がその言葉に従って之を飲むと、水ではなく酒であった。目を上げて先生を見ると、「お前は劉海蟾(りゅうかいせん)を知っているか」と云う。重陽が「像を以前見ただけです」と云うと、先生は笑って消え去る。これより後、重陽は再び酒を絶って、ただ水だけを飲む。そこに酔客がやって来る、口中が酒臭い。重陽の「酧江月」の詞に、

正陽的祖、
又 純陽師父、
修持 深奥。
更に 真尊有り、
唯是れ 叔 海蟾、
同じく三島に居る。

の句があるのは、海蟾と知遇したことに由る。また重陽の「虞美人」の詞に、

害風 水を飲む 知りぬ多少ぞ、
此れに由(よ)り 玄妙に通ず。
白麻の衲襖(だいおう) 布の青巾、
好模 好様 真個に好精神。

の句があるのは、飲水得酒の事があったことに由る。虞美人詞の註は、詳細に当時の事を記す。重陽が酒を飲まなくなると、「不飲酒」と題する一絶があり、云う、

醒め来って飲まず 塵中の酒、
達して後 別に伝う 物外の杯。
衒(てら)う莫れ 向雲 随所に有り、
自然に 歩を挙げて 蓬莱に至る。

 酒を嗜む重陽が酒を飲まなくなる、真に達した後は世間に在る杯とは別の杯とある云う。酒はもともとその水の中に火を隠し持つ、人はこの陽火を愛して杯を把(と)る。水を飲んで酔うのは吾が体内に陽火が余り有るからである。水中に火を隠し持つ必要がないのである。

 重陽が劉海蟾に遇ったのは、以前に於いて呂洞賓に遇ったと同様のことである。重陽の教系は鍾離権を祖とし、呂洞賓を父とし、劉海蟾を叔(しゅく・叔父)とする。海蟾は遼の人である。「遼史」にその伝記は無いが、世はその詩詞を今に伝える。勿論道門の巨頭である。名は操、字は宗成、燕山の人、十六歳にして経に明るいことを以て甲科に抜擢され、遼に仕えて累進し丞相になる。道を愛し命を語るが、未だその妙を得ない。或る日、道者がやって来て遇う、姓名を訊くが答えない、ただ自ら自分は正陽子(鐘離権)だと云う。一文の金銭と鶏卵十個を求め、金銭を机上に置き、その上に高く十個の卵を重ねる。海蟾がこれを見て驚き、危ないと云うと、道者は丞相の危(あやう)さはこれよりも甚だしいと云う。海蟾は即座に悟り、世を棄てる決意をし、遂に職を辞して、狂った振りをして歌い舞いながら家を出て、衣を更え姿をやつし卑賎の中に跡をくらます。当時の一聯に云う、

抱擁す 火宅の 三千口、
屏去す 門兵 百萬家。

と。その後、遠く秦川を経巡り、真(仙)を太華山の前で形づくり、身を終南山の下に隠し、精を養い気を煉り、再び以前の道人に遇って金丹の秘訣を受け、正にこの人が鐘離権であることを知り、それによって真を成す(仙に成る)に至る。忽ち一度に、代州の寿寧観に於いては墨液を以て鶴亀齊壽の四字の一丈余りのものを書き、併せて自らの真(仙)の象(かたち)を壁間に写し画き、また西蜀の成都の青羊宮に於いては墨液を以て清安福壽の四字を書き、また代州の蓬莱山の来儀に於いては壽山福海の四字を書き、これらを皆、同じ日の数十里も隔たり合う三か所に書いて、神変自在なことを表わして世俗を警醒し、世に神異のあることを知らせる。現わすところの霊跡は甚だ多い。黄凝陽や張紫陽は即ちその直弟子であり、紫陽の「悟真篇」は今に伝わって、道教の秘旨(秘密の教え)の恵みを永く後人に贈る。海蟾の終焉の地は知らないが、これもまた終南の地に隠れたのであろう。重陽が遇った真人はこの人であろう、海蟾を指して道門の叔父とする理由である。海蟾は後に元の武宗に取り立てられて、正大三年には明悟弘道純佑帝君となる。その著わすところの「至真歌」一篇は今に伝わり、意旨は深切、詩詞は清亮、道を学ぶ者はこれを称える。

 翌大定五年、重陽は終南の上清太平宮に行脚し、宮の壁上に書して云う、

害風 害風 旧病発す、
寿命は過ぎず 五十六。
両箇の先生 決定して来たり、
一霊の真性 捜刷を為さん。

 同じく六年、重陽年五十五、長安の欒村(らんそん)の呂洞賓の庵の壁に書して云う、

地肺の 重陽子、
呼んで為す 王害風。
来たる時 日月 長く、
去る後 西東に任す。
伴を作す 雲と水と、
隣を為す 虚と空と。
一霊 真性 在り、
衆心と与(とも)に 同じからず。

 前年に太平宮の壁上に書した詩と、この年の呂洞賓の庵室に書した詩は、全て登仙の歳時を予告するものであり、そのためそれらの詩は「全真集」中では辞世の詩と題されている。地肺とは即ち終南である。およそ自分の死期を予期するなどは常人に在っては難しいことであるが、真理をつかんだ人に於いては、この類のことは児戯(じぎ)に等しく容易であり難しくない。古今に於いてこのような例は甚だ多く、珍しいことでもなく、不思議なことでもない。明治年間に禅僧の原担山(はらたんざん)は自ら書簡を出して、旧友知人等に「坊月某日、吾将(まさ)に世を逝(さ)らんとす」と告げて、死期に臨み、速やかに逝く。担山は仏仙同揆(ぶつせんどうき・仏道も仙道も目的は同じ)を唱えた者である。当時或る禅師が評して云う、「担山は死に臨んで、なお小児を笑わせる」と。
 重陽の道すでに成り、機ついに発す。大定七年四月二十六日、自ら庵を焼く。近隣の人が争って消そうとして来ると、衣を翻して重陽の舞うのを見る。人がその訳を尋ねると答えて云う、「三年の後に別人が修築する」と。そして詩を吟じて云う、

茅庵 焼了して 事 休々、
決(かなら)ず有らん 人々の 却って修せんと要する。
便(すなわ)ち惺々(せいせい) 誠に猛烈なるを做(な)すも、
怎生(いかんぞ) 学び得ん 我が風流。

と。その日、甘河鎮に宿り衆に別れを告げて云う、「吾は東海に馬を捉えに行く」と。邱劉譚中に一駿馬有り以てこれを擒(とりこ)にすべしとは、正隆五年に醴泉に於いて異人が教えたところである。年過ぎて七年、今ここに重陽は自ら往ってこの事を確かめようとする。重陽に信ずる所があるか、邱劉譚か、九龍譚か、馬はこれ真(まこと)の馬か、人名の馬か、語は解と不解の間に在る。これより東に向かい咸陽を通る。咸陽に史処厚と云う者がいて、乾州醴泉の人である。重陽が活死人になった時から、心から之を思慕し、遂に付いて学ぶことを願い、許されて弟子となり洞陽の号を授けられた者である。以後乞食(こつじき)をして心を練り、終南と鄠杜(こと)との間を往来していた。今や重陽が遠く東へ往くに際して随行させようとしたところ、鄠杜への遠遊は老いたる母の居ることを理由に辞退する。そこで重陽は自ら一幅の画を作る、一人の三髻(さんせつ)の道者が居て、その傍に煽松が鬱蒼と茂り、白雲がこれをめぐり、仙鶴が羽を翻す状景を描き、洞陽に贈って云う、「謹んで之を秘蔵せよ、これは後日必要とする時の、証拠の符になろう」と。五月、北邙山(ほくぼうさん)の上清宮を通り過ぎて、その壁に書いて云う、

丘譚に 王風 馬劉を捉え、
崑崙 頂上に 玉毬を打(だ)す。
爾還(なんじまた) 搬(うつ)して在(お)く 宝海の内、
贏(かち)得(え)ん 三千八百壽。

と。これより重陽は野宿を重ねて遠く東海に向かう。函谷関を過ぎ東に進むと一人の知人も居ない。ボロを着て鉄缶を携え、食料も無く金も無く、技無く、能無く、学識の人に自慢できるものも無い。有するのは天上の日月の光だけ、道ばたの松風だけ、眼前の山の姿と、足もとの泉の音だけ。鉄缶を敲(たた)いて乞食(こつじき)する。歌って云う、

猿や馬に騎(の)って 顚要を逞(たくま)しくす、
擒(とら)え難し捉(とら)え難し 怎生(いかに)捨てん。囉哩㖫囉哩㖫(らりりょうらりりょう)。
慧刀開いて 斉しく殺し、
君をして根源を認め得しめん也(や)。囉哩㖫囉哩㖫。
従来の性 本来の命、
形無く質無し、怎生(いかに)惺(さ)めしめん。囉哩㖫囉哩㖫。
汞中の明 鉛中の瑩(えい)、
霞光 裏面 賢聖に通ず。囉哩㖫囉哩㖫。

と。およそこのような歌を、どのくらい囉哩㖫囉哩㖫と唱ったか知らない。唱って食を乞い、食を得て唱う。人のために唱うのか、自分のために唱うのか、食のために唱うのか、教化のために唱うのか、知らない。囉哩㖫囉哩㖫、唱い来て唱い去り、風のように来て風のように去る。携えるのはただ一鉄缶。銭を受けるのも唯この一鉄缶、食を受けるのも唯この一鉄缶、歌って云う、

鉄缶携(たずさ)えらる 鉄缶携えらる、
響声 敲動(こうどう)して 愚迷を振(すく)う。
若し響声して人会得(えとく)するを要さば、
分(わか)たざらん 南北と東西とを。

鉄缶の能 鉄缶の能、
能中 兀々(こつこつ)と 騰々(とうとう)と。
杳々(ようよう) 冥々(めいめい) 風を友と作(な)し、
昏々(こんこん) 黙々 月を朋(とも)と為す。


 鉄缶の歌が幾章あるか知らない。鉄缶のために歌が有るのか、歌のために鉄缶が有るのか、鉄缶を敲(たた)き来たって、人のために音を発するか、自分のために食を化すのか、鉄缶も知らない、害風も知らないとする。

 このようにして乞食(こつじき)しながら函谷関の西から、一路はるばる東海の浜に着く。遂に衛州を過ぎる。衛州に蕭真人と云う者が居た。仙人や道士のような風采があり、世人の称えるところである。重陽はこの人と会見し、提携したいと思いそれについて語る。蕭もまた拒まない。しかしながら、語り合うこと数日、話が合わない。そこで重陽はこの人に「驀山渓」の詞を贈る。詞に云う、

真人 已に悟りて、
四海 名先ず到る。
只(ただ) 声聞く有るが為に、
却って隔了す 玄元の妙道。
一般に衰え 一般に老い、
空しく恁(かく) 一般了。
豈(あに)知らんや 玄妙を、
剛に 身心を把(と)って倣る。
月を度(はか)る 聾盲(ろうもう)の若(ごと)し、
誚(そし)る 丹砂 炉竈(ろそう)を識らざるを。
好し二物を将(もっ)て 鼎内に結んで丹を成し、
服餌し了し 長生を得て、
手を携(たずさ)えて 蓬島に帰せん。

 詞意十分に老婆心を以って、真人の有名だが実の無いこと、徒(いたずら)に茫然と日を送るだけなのを憐れんで、別にやるべきところの有ることを示したが、真人はこれを読んでも終に悟れず、ただ頷くだけであった。あつかましくも人の師となり、壇上で法を説き道を示して、美々しいこと宝玉のようだが、実は中身の空虚な者が居るのである。道教や仏教の徒に特にこの輩が多い。経を読むことも出来ず、戒律を守ることも出来ない。経を読み戒律を守れないのはまだ可(よし)として、内に少しの悟りも無く、内証の無い者が少なくない。思うに蕭真人もまたこのような輩として重陽の眼に映ったのであろう。
 重陽は飄然として蕭真人を捨てて去り、突然劉通微を拾う。通微、字は悦道、東莱掖城の人、代々郷里の有力者であった。独立心旺盛で常軌を逸し、思いのままに行動する。若年の時には鷹を飛ばし犬を走らせ鶏を闘わせては賭け、花酒の巷に迷い、行動に締りが無い。或る日奇病にかかり殆んど絶望的であったが、夢で仙人の境地に入り、間もなく恢復するを得た。遂に玄化の理を悟り、存心得道しようとする。たまたま重陽が囉哩㖫を唱えて掖城を通り過ぎるのに遇い、その精神颯爽とした大空に雄飛しようとするような姿を望見し、驚いて、重陽に近付き語り合う。機縁結合し、拝礼して弟子になる。そこで重陽は修身の秘旨を授けて内功を積ませる。ここにおいて奮い立ち、家を棄て、遠路を杖をついて西方の関中に入り、終南の甘水の傍らに庵を結んで独り静かに真(仙)を煉る。後に明昌の初め、金の昌宗に招かれて金丹の道を問われる。そこで答えて云う、「金丹の道は山林の道人の尚(たっと)ぶところですが、国の主である陛下の御意を留め給われるものではありません」と云い、ただ清静治国を旨とする黄老の道だけをお答えしたので、帝は大いに悦ばれ、大いに尊敬された。それが即ちこの人で、その著わしたところの「全真集」は広く世に普及する。(⑦につづく)

注解
・劉海蟾:中国・五代後梁の人。諱は操、字は宗成。号を海蟾子という。別に名は玄英、劉海などの伝もある。幽州幽都県(現在の北京市南西部)の人。後世には同市の曲抱村の玉蟾台に「劉海廟」が建立されている。成仙した後、ある道観で「亀鶴斉寿」の四字を壁に書くと、同時に数千里四方の道観で同じことが起こるなど、常に終南山と太華山間を往来しながら、各地で様々な神異を顕わしたと伝わる。
・張紫陽:張伯端。中国・北宋末の道士。字は平叔、またの名は用成、号は紫陽。後に紫陽真人と尊称され、全真道の南五祖の初代とされた。台州天台県平橋(現在の浙江省台州市天台県平橋鎮)の人。
・原担山:幕末から明治期における仏教学者で曹洞宗の僧。諱は覚仙。号は鶴巣。
・仏仙同揆:仏教も道教も目指すところは同じということ。
・蕭真人:道教の一派である太一教の開祖である蕭抱珍のこと。
・玄化の理:神仏が姿を変えてこの世に現れるという不思議な現象の筋道。
・存心得道:生まれつき既に体内に存在する元気(陰陽に二気に分かれる以前の一気)を、内丹の法によって育てて、道を得る。そして安心立命し、長寿し、仙を得る。
・機縁結合:教えを受ける者の根機(思い・素質・能力)と教えに触れる因縁が結合する。ここでは、教えを求める思いと縁(めぐり合い)が結合する。

 

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