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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話  謔解・から・あべ川餅」

謔解・から・あべ川餅

 「千早ふる神代も聞かず龍田川からくれないに水くくるとは」という在原業平の和歌は、藤原定家の「百人一首」に選ばれて以来、家々に伝来し、口ずさまれ、一般もまた之を知る。しかし言葉は昔と今では隔たりがあって、言葉を聞いても理解できない者がいて、そこで物知りと云う人にその意味を訊く。訊かれた者が教えて云う、「千早ふるという千早は、吉原の花魁(おいらん)の名だ。ふるとは振りつけることだ、冷たくあしらって追い払うことだ。神代もきかずの神代も、これまた花魁の名で、千早の妹女郎か何かだろう。客は千早に振られたので、それではと神代を求めたが神代もきかず、きかずというのは云うことをきかないことだ。龍田川はその客の名だ、相撲取りだ。千早ふる神代も聞かず龍田川とは、こういうことを云っていると知らなくちゃいけない。サテ相撲取りの龍田川は千早にも神代にも克(か)つことが出来ないので、口惜しくって堪らない。また相撲の世界でも出世が出来なくて、途中で辞めて豆腐屋になり、少しは毎日を楽に暮らせる身分になった。千早のほうは容色が衰え、身体は老いて、落ちぶれ果てて街中を徘徊して、家々を訪れて憐れみを乞い、わずかに飢えをしのいでいたが、たまたま豆腐屋を見つけてオカラを求めた。カラとは豆腐のカスのことで、殆んど銭(ぜに)にはならないものだ。龍田川が呉れてやろうと思ってフト見ると、乞食女は何とコレ千早じゃないか。グッと昔の恨みがこみあげて来て罵って云う、「たとえカラであってもお前なんかにはやらない」と云うと、千早は悲しみに堪えかねて、我が運命もこれまでと水に身を投げて死んだんだ。水は即ち豆腐屋の大きな水桶の水だ。からくれないに水くくるというのは、こういうことだ。何とも哀れ深い和歌じゃあないか。」と云うと訊いた者も感じ入って、「ナルホドよく分かりました」と喜んだが、少し経って、「それにしても、最後のとはと云うのが分かりませんが」と云うと、訊かれた者は「ムム、」と詰まったが、「とはというのは千早の本名だ。」と云って終わる。
 これは明治の頃のいわゆる噺家(はなしか・落語家)の演じたところであるが、実際は噺家が作ったものでは無くて、江戸時代の天明・寛政の頃に評判であった山東京伝の「百人一首初衣抄」に出ているもので、明らかに京伝が作ったものである。「初衣抄」は如何にも和歌の抄物のように、全篇をこのような諧謔でもって、コジツケの限りを尽くして人を笑わせる。京伝は滑稽の才が有って下品で無く、一九や鯉丈とは大いに作が異なる。「初衣抄」は当時盛んに流行した和歌の注釈を貶(けな)して揶揄(からか)っているようではあるが、京伝の温和な性格は他を貶すことを好まずに、ただ和歌の注釈本を真似て諧謔を行った結果が、自然とあのようなものになったのであろう。世相を穿って表現するにしても、「溝(どぶ)の汚いことは云ってもよいが、溝底の泥を掴み出すようなのは宜しくない」と云ったという。俊才とか偉才とか云うような人ではないが一種の才能の勝れた人で、その上に都会の人でありながら狷介(けんかい)で無く、気品が下劣で無く、そのため作品もまた愛すべきものがある。京伝に比べると式亭三馬は鋭い。三馬の作品の「浮世風呂」第三篇の未の刻(八ツ)のところで、「本居信仰」で古学を学んだと思えるこも子とけり子という婦人が高慢に饒舌を交わす文章で、けり子が、

うまじものあべ川もちはあさもよし
   きなこまぶして昼食うもよし

と詠んだのを記して、人を笑わせたようなことは、当時の古学の流行によって万葉ぶりの似せ和歌を作って誇る者が多かったのを、暗に嘲笑したようでもある。三馬と弟子の万寿亭正二の合作らしい「忠臣蔵意抄」などは、京伝が「百人一首」を題材に諧謔を為したのに対して、「仮名手本忠臣蔵」を題材にして、京伝が初衣裳の言葉に寄せて「初衣抄」としたように、蔵衣裳の言葉に寄せて「蔵意衣」と命名したのに間違いはない。世相を巧みに描いてコレを滑稽に表す、京伝が源水で三馬は流水である。一九や鯉丈や金鵞などは奔流して人を溺れさせようとする。その弊害は無理やり人を笑わせようとすることにある。少しばかり厭なところがある。

注解:
・在原業平::平安時代の貴族・歌人。三十六歌仙の一人。
・藤原定家:平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。「小倉百人一首」の撰者。
・吉原:吉原遊郭。
・花魁:遊女。
・山東京伝:江戸時代後期の浮世絵師・戯作者。
・一九:十返舎 一九。江戸時代後期の戯作者・絵師。『東海道中膝栗毛』の作者。
・鯉丈:滝亭鯉丈。江戸時代後期の戯作者。
・式亭三馬:江戸時代後期の滑稽本作家・浮世絵師。滑稽本『浮世風呂』『浮世床』などで知られる。
・未刻:未刻(ひつじのこく)とは今の午後二時ごろのこと。八ツと云う。
・本居信仰:本居宣長の古学を信じて崇拝する。
・金鵞:梅亭金鵞。幕末から明治中期の作家・編集者。


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