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幸田露伴の「二宮尊徳⑦(下館・相馬)」

 常陸国(茨城県)下館侯は常陸国と河内国(大阪府)において二万石を所領されていたが、天明の飢饉で領内の民が衰えて、貢税が減少して上下の疲弊甚だしく、負債だけでも三万両余りもあって、一年の年貢もその利子を払うに足りないほどで、どうにも仕方のない状態であったが、郡奉行(こおりぶぎょう)の衣笠(きぬがさ)某と云う者が君命を帯びて桜町に来た。一度ならず二度ならず先生を訪れ面会し、下館藩の苦難を述べて救済の道を先生に求めた。しかし先生は辞退すること例の通り、「私は小田原侯の為に力を尽くして、猶も足りないことを恐れているのに、どうして他国の為に力を分けることが出来ようか」と答えられると、下館侯から小田原侯に願い求められて、上牧(かみまき)と衣笠の両人を用いて、礼を尽くして救済の道を先生に依頼された。先生は仕方なく下館の為に分度を定め出入りを計り大本を立て、上牧を諭して俸禄を辞退させて、それによって諸士を忠義に向かわせ、その後二か月の国用の米財を先生の手元から与え、四か月の国用を宗家の石川侯より援助させ、二か月の国用を下館町の富商を説いて出させ、一年の貢税から元金の幾らかを返却し、サテ従来の借金の内から元金の減少によって自然に生れた利益でもって、毎年元金の償却をすることに決められたことで、流石困乏甚だしかった下館も、負債償却の道が開けてヤヤ疲弊を回復することができるようになり、また領内の灰塚・下岡崎・蕨(わらび)の三ケ村に先生の弟子を派遣して勧農撫民(かんのうぶみん)の仕法を行わせられたので、その徳は三ケ村だけに限らず領内に勤倹の美風が広まった。
 ここに奥州相馬侯中村領は禄高六万石と云われ土地開けて民豊かなところであったが、元禄年間に群臣等が相談し検地して、田畑の広狭(こうきょう)を厳正に糺(ただ)して新たに三万八千石を生み出し、貢税は十七万俵にもなって倉庫は充満し一時は極めて盛んであったが、根が根付かずに栄える樹は無く、民を富ませずに長く栄える国の無い道理で、検地を行って以降は段々と領民は衰貧に陥り、天明(てんめい)の頃になると上も下も甚だしく窮乏し、しかも天明三年四年の飢饉で農民の死亡や離散が夥(おびただ)しく、田畑は荒れに荒れて収穫は三の二となりどうしようも無くなったが、文化(ぶんか)の頃になっては尚も疲弊に疲弊を重ね、負債は三十万両を超え、一年の租税は利子にも足りない上に、借財は年々増加し年収は年々に減少して行くことに君臣共に心配して、何とかして回復しようと様々に考えを巡らせた。中でも草野正辰(くさのまさたつ)と池田胤忠(いけだたねただ)の二人は忠義を励み勤倹を説いて一途に国家を再興しようと、弊害を改め奢侈を省き賞罰を明らかにして勤惰を糺すと、藩の者には却ってその深い理由が分からずに恨みを懐く者もいたが、草野は心を動かさず、「大事を成すのは尋常(じんじょう)の覚悟ではできない、私等二三人の命を捨てるのは覚悟の上である」と、池田と共に心を合わせ、徴用を少なくして民を休め、税を免じて荒れ地を開き、負債を返済する道も大略は整った。このようにして十年、その効果が次第に顕われようとする時の、天保五年と八年の飢饉によって、折角の貯蓄も失って、計画は一時に崩れて仕舞い再び上下は艱難に陥ったが、草野はこの時すでに七十を越え池田もまた五十を越えていた。「アア、我等三十年の艱難辛苦も事業半ばで潰(つい)えようとする、悲しいではないか。」と二人はしばしば歎息した。
 草野と池田の二人は、二宮先生と云う人が居て、孔子や孟子の仁の心に管子や晏子の経済の才を併せ持ち、為して成らないこと無く計って当らないことが無いと云うことを聞き、永年その徳を仰いできたが、遂に君侯に申し出て中村郡代の一條某を先生の許へ行かせて教えを乞わせた。しかし先生は思うところ有って面会を許されず、人を介して仕法の一半を示されただけであった。
 先生の大徳は今や隠れも無く、遂に幕府に聞こえ天保十三年の冬に登用されたたが、その頃先生は大久保侯の邸に居て江戸に居られたので、草野は好機であると悦び再三再四拝謁を願い、ようやく許されて面会することが出来た。草野は先ず礼儀正しく丁寧に相馬領に状況を述べて、誠心誠意之を救う道を求める。先生がつくづく草野を見られるに年は七十を越えて、名利の欲も無く心一筋に君侯を扶(たす)けて身を救おうとするだけの天晴れな善い忠臣であるので、仕方なく諄々と治国安民の大道を惜しみなく教えられた。草野はこれを聴き、一を聞いて二に広め、深く記憶し正しく理解し、水で水を受けるように先生の言葉を胸に納めて大いに悦んで帰った。
 草野は一度先生に会ってからは胸中に蟠(わだかま)っていた何十年来のモヤモヤが一時に晴れたような思いがして、喜び勇んで主君に見(まみ)え、「私等は、相馬中村領の再興を心掛けて力を尽くしても、知恵浅く徳足りず、事未だ成らず、無能の罪は免れず、密かに君恩に報い奉る機会の無いことを歎いて居りましたが、幸いに二宮先生に御会いしてその所説を聞きましたところ、衰運の原因、厚生利用の大道を掌(たなごころ)を指し示すように教え諭されました。それのみでなく先生は徳を具え知恵を備えた真(まこと)の有道の君子で、加えて済世(さいせい)の豪傑であります。願はくは、殿も二宮先生を師として国家中興の業を託し給え」と言上すると、相馬侯は大いに悦んで、「誠にお前の言葉の通りで有るなら得難い偉人である。速やかに国元の諸臣にこの事を伝えよ」と命じられた。草野は有り難き旨を申して君前を退き、筆を執って直ちに先生の言葉を漏れなく書き認(したた)めて、この人を用いないではと云う意(おもい)を込めて国元の池田胤直(いけだたねなお)へ送った。
 池田も書簡を草野から受けて、益々二宮先生を慕い、「国の再興もこの人によって成るだろう」と喜んだが、諸士等は皆々それぞれ自分の器量(能力)で考えるので、世に先生のような大器量の人が居ることが信じられず、却って先生の大きな心を疑い、或いは仕法を覚束ないと云い立てて、「草野は耄碌(もうろく)したので二宮を褒めすぎるのであろう」などと云い囃して誠実に対応しない。池田は言葉を尽して先生の世に出られた由来や、大久保侯に見出された因縁や桜町の実績などを語り聞かせて、諸士の疑点を晴らそうとしたが、また江戸に於いても草野が諸士に対して種々説き聞かせたが、或いは疑い或いは非難するなど国元と変らない。であればと、草野は一計を考え、勘定奉行の輩(やから)を自分の従者として同行させ、先生との会話を襖(ふすま)の外で聞かせたところ、先生の高論高説の実際的で適切なことに感動し、感服する者は次第に多くなった。しかし国元の衆議は尚も区々(まちまち)で一致しない。それを聞かれて相馬侯は池田を呼び寄せ、「お前を呼んだのは外でもない、いよいよ私は二宮を採用して復興の事を託そうと思う、お前はよろしく草野と共にこの事を成せ」と命じられた。池田は君命を帯びて草野と共に天保十三年十一月に、先生に初めてお会いして衰退を救う道を尋ねたが、それからは二人は屡々(しばしば)訪れて数々の事を尋ねたが、先生の一々明白に教えられること、正に灯りで暗闇を照らして個々の物を指し示すようである。二人はいよいよ感激して、専心再興の策を行おうと努める。ここに於いて池田は一旦国元に帰り、相馬領内の貢租と支出を寛文から弘化までの百八十年間について調べ、これを集めて相馬の分度(予算)を決めて経済の大本を立てることをお願いすると、先生は日夜丁寧親切に思慮すること数か月して、今後六十年間の長期計画を定められ、全部で三巻の書を作られて、再興の道を此れに尽して与えられると、相馬侯は之を見て大いに悦ばれて、早速池田にその実行を命じられた。それから遂に弘化二年を以て宇田郡の成田と坪田の二村に施法したのを初めとし、諸村が競って施業するのに任せ、次々と手を下して回復の実績を上げられると、年々施業する村は五十に及び、十年後の安政三年には復旧する村は十五村、荒れ地を開くこと数十町、分度以外の産穀は萬俵に及んだ。
 このように相馬は先生の仕法によって実効を挙げたが、これ一ツに草野や池田等の誠忠のさせるところ、また一ツは相馬侯自らが先生の教えを能く尊重されたことによる。相馬侯は幼名を豊丸君と云って先君の寵愛大層深く、幼少の時は膝から放さず養育されたが、草野が諫言(かんげん)を奉(たてまつ)り、「豊丸君を愛されるであれば、大奥の婦人の手に任されてはなりません、名君は大奥の婦人の手からは出ません、暗君は常に大奥の内で人となった者に多く、殿が民を愛し豊丸君を愛されるのであれば、豊丸君を艱苦(かんく)の何であるかを理解し、民を憐れまれる御心に成られるように御養育下さい。」と申すと、先君もまた愛を控え草野に養育の事を任せられた。その後草野が心を尽くし御養育したので、成長されるに従って能く下々の情に通じ、自ら艱苦に堪え、国元に在っては村々を親しく巡検し、農民の苦しみを知り、大雨が面(おもて・顔)を打つ時も、大風で袖がちぎれるばかりの時も、籠(かご)を用いること無く、民に親しく接し、詳しく勧農の道を説き、孝悌(こうてい)の教え(親に孝行・兄弟仲よく)を垂れられれば、老若男女は感動して、各自が仕事に励み徳に進み、仕法の結果は早くも挙がる。(⑧につづく)

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