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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・弁才天女②」

 闍那崛多(じゃなくった)の訳本で天女の姿形を云う条文に、「一脚にして立つ」とある。一脚にして立つのであれば、天女も水田の白鷺のような、又は跋伽林(ばっかりん)の外道の苦行の体勢のような笑うべき姿であるが、これは訳文が甚だ拙いのである。義浄の訳文には「翹於一足(ぎょうおいっそく)」とある。翹(ぎょう)は起であり挙である。一足(片足)を挙げるのは安座も端座もしないで、また直立も佇立もしないで、今まさに動こうとする体勢であり、動きつつあるのである。清流が生き生きとして停止しないような状態なのである。およそこの天女の徳を称えて詞では、聡明勇進と云い、勇猛常行大精進と云い、戦陣に於いて常に勝つと云い、諸竜神夜叉衆を率いて能く諸悪を調伏すると云い、或いは三戟を執り、頭の髻(たぶさ)を円めて、常に左右に日月の旗を持つと云い、常に八臂を以って自ら荘厳して、それぞれに、弓・箭・刀矟・斧・長杵・鐘輪ならびに羂索を持つと云い、皆その勇猛邁進の意気と颯爽敏活な様相を云わない者は無い。であれば、山谷草莽の地に在って勇気霊才の活動的で積極的な天女が一足を挙げられた姿は、三分の野趣を含んで天真爛漫、いよいよ人を思慕させるものがある。
 このような弁才天女は、憍陳如が偈頌(げいん)の中で説いたように、その端厳な顔立ちの清浄な容姿は蓮華のようで、目は長く広い青蓮葉のようなその美しさは云うに云えないだけなく、その内に秘めた強さを現す時は人を圧倒するものがある。偈頌の中に「好い姿も醜い姿もすべて具有し、眼は能く見る者を恐れさせる」とある。眼光が閃き飛んで電光は人を射すくめるようだと云うのである。これは無論そうであろう、このような強い方でなければどうして山野に優遊することができようか。しかもその強勇が人を恐れさすのも理由がある、弁才天女はもと閻魔大王の姉君で在られるからである。憍陳如は頌で云う、「現為閻羅之長姉」と。どんなに優雅に在られても、閻魔大王の姉君だとあっては、一睨みされて恐れ入らない者がどこにあろうか。
 閻魔は閻魔羅闍である。略して閻魔とも云う。世の多くの人は「十王経」の説くところによって閻魔を知る。しかしながら十王経は、支那のものも我が国のものも偽撰であり取るに足りない。「西遊記」の孫悟空や児童本の「朝比奈」などで閻魔を愚弄するところなどの、その卑しい出鱈目さ加減は噴飯ものと云える。「倶舎論」十一や「薬師経」「長阿含経」などでは、冥界において閻魔が人の善悪を裁判し、報いを受け取らせることを説く。そのため諸訳は閻魔の語を訳して、縛の意味・遮止の意味・諍息平等の意味であるとする。この冥界の王に妹が在って兄が男の罪人を治め妹が女の罪人を治めることで双王とも云う。と云うことが「玄応音義」その他に出ているが、閻魔の姉が弁才天女であることは他の経論などには見受けない。鉄のような冥王と玉のような天女が姉弟であるとは、余りに因縁も関係も無さそうに想われて仕方がない。しかしここに面白く考えられることがある。閻魔即ちヤマの妹や姉の呼称はインドの言葉で云うとヤミとなる。例えば釈迦即ちゴータマの女性名がゴータミとなるようなことである。ヤミはヤムナ河が神格化した女神であって、閻魔を助けて女の罪人を治める双王の一人であることは云う迄もない。ヤムナ河は「大智度論」二十八に仏語として載せられている恆伽・鹽牟那・薩羅由・阿脂羅婆提・摩醯の五河の中の鹽牟那が即ちそれである。塩牟那を今は本牟尼と書くが誤りである。訳して縛と云う、閻魔の同語異字であることが知れる。今Jamuna或いはJamnaと書き玄奘三蔵の記に閻牟那と書かれているのも同じ河である。河がそのまま女神になるのはむしろ普通のことで、サラスッチー河が弁才天女になり、ガンジス河即ちゴウガ河がゴウギ即ち殑耆(ごうぎ)となるようなことで、もちろんヤミとヤムナ河の関係に疑うところはない。このヤムナ河はガンジス河にアラハバットで合流する。Allahabadはカルカッタから鉄路で五百五十マイルほど西北に位置し、アグラ、オウヅ連合州の首都であって、インドにおける旧名はプラグ又はプラヤグと云い、聖犠(聖なる生贄)のところと云うのがその名の意味で、今もインドの巡礼者が多く集まるところの一ツである。そしてそれが神聖な土地である理由は、インドの三聖河、即ち恒河・ヤムナ河・サラスッチー河が合流するところだからである。婆羅娑跋帝の弁才天女と閻牟那の閻魔大王はここに於いて姉弟の因縁があると云える。しかしながらガンジスとヤムナは実際に合流するが、今サラスッチーはプラグにその姿は見えない。サラスッチーはブラグの西北方四百マイル遠方のシルヒンドの砂漠中にその姿を没する。ただインドの民間信仰はサラスッチーが他の二河と共に地下で合流すると強弁し、城塞下の地下洞の岩壁から滴下する水を指して、これがサラスッチーの水であると主張する。支那の人は、或いは黄河はロプノールより伏流し大積石から再び出て河の源流となると思う。ロプノールから一千五百余里ある。或いはまた青海西南の星宿海から伏流して大積石から出て河原になると云う。星宿海から河原まで三百里ある。このような伏流説のあることからも、サラスッチー河がパンジャブ地方のシルシンド砂漠に没して、再び数百里下のアラハバットでガンジシやヤムナと合流すると云う説が、インドの妄信する者たちの間においては是認されるのであろうが、これはこれで、このような説があるとしておくだけである。またインドの三聖河の一ツとして伝えられたサラスッチー河がシルシンドで没するということは、狭い国土の我が国などではあるはずも無いことであるが、これを疑ってはいけない。シルシンドはアンバラ・ルジアナ・フェロゼポール・パチアラ・ジンド・ナブハ地方を含む地域の旧称であって、今はその地の乾地化を防ぐために縦横に溝渠を通すことで有名な地である。アラビヤ海に入るインドの大河インダスに合流するストレジ河は実にこの大溝渠に水を供給する巨流であって、ストレジ河とヤムナ河の上流の間の広野が即ちシルシンド一帯なので、ヤムナ河とサラスッチー河とが今もアラハバットで合流するかは不明だが、同じ地方のシルシンドにヤムナ河とサラスッチー河は共に存在していて、もしサラスッチー河が消滅しないで流れているのであれば、ヤムナ河とはもちろんこの地方における姉妹の河であって、閻魔大王と弁才天女はもちろん弟であり姉なのである。古(いにしえ)において三聖河の一ツと云われたほどのサラスッチー河の流れが消えたのは如何にも不思議なことであるが、我が国においてこそ不思議に思われるが、タクラマカン大砂漠のタリムレンのような長大な河でさえ、大海に達しないで終ることを思えば異とするに足りない。思うに上古においては、サラスッチー河は実にヤムナ河と共にガンジス河と合流して海に達していたのであろう。このためサラスッチー河は遠地で消滅したのだが、今なおアラハバッドに於いて三聖河が合流するとの伝説があり、そしてアラハバッド即ちプラグは聖地と看做されて、インド人の間に於いては毎年の摩伽の月に大洗礼祭がここで行われるのである。洗浴の祭儀は摩伽の月に行われるので、これを摩伽メラと云い教徒が雲集する。十二年ごとに行われる大祭をクンブメラと呼び、その盛んなことは参集者が百万に達すると云う。摩伽の月とは大毘婆娑論百三十六にあるように、インドの十二ヶ月は我が国の暦法と異なるので、十一月とも十二月とも訳すことが難しく、太陰暦の十一月十六日から十二月十五日までの一カ月を摩伽月と云うのである。洗浴はすべての宗教に取っての一要素であって、我が国のみそぎ、支那の祓禊、旧西教(ユダヤ教?)のヨルダン河に浸る、イスラム教の精厳な沐浴の儀式など、皆同様であって一々論じなくとも、サレスッチーと摩伽メラの関係や弁才天女が特に示した洗浴法があることを思うと、その偶然でないことを感じないわけにはいかない。彼の医王耆婆(いおうぎば)が洗浴を勧めた温室洗浴経の様子とはおのずから異なることが分かる。(③につづく)
 
注解
・跋伽林の外道の苦行:釈迦が未だ太子であった時に出逢った、跋伽林での外道(異教徒)たちの苦行(修行)の姿。或る者は足を挙げて何日も降ろさない、或る者は地面に伏したままと様々な形を取って修業している。
・大積石:黄河の源流近くにある積石山(アムネマチン)の辺り?。
・摩伽:インド人の間に於ける洗浴の祭儀。
・医王耆婆:釈迦の弟子の仏教医師。
 

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