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方言の聞き書き、復刻版

新潟の冊子を手に入れました。旗野秀人さん(70)が、ガリ刷りで発行した1981年春号。時を経て2016年に蘇りました。

2020-2-4旗野さん

男木島図書館で、ドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」(1992)の上映会がありました2020/2/4。そこで冊子のことを知りました。

制作発起人という旗野秀人さんが、新潟の安田町から香川県の男木島まで来てくれました。映画を作って、上映には手弁当で駆けつけていることからトークが始まりました。「阿賀に生きる」の出演者であり、制作に伴走した人から直接聞くと、その印象はストレートに響きます。

映画監督 佐藤真
1989年からスタッフ7名で阿賀野川流域の民家で共同生活をしながら撮影し、1992 年『阿賀に生きる』を完成させる。

事実の話は、誰から聞くかが重要なのです。二次的な当事者なのか、三次的な伝達者なのか。旗野さんは圧倒的な熱量を、映画に関して言えば30年以上、持続させています。その本質は、新潟水俣病の未認定患者に寄り添うことにあります。映画監督の偉業が語られる時、デビュー作の本作抜きにはありえないというそこには新潟水俣病の5文字が起点になります。

伝え方のうまさとでもいうのでしょうか。自分が前に出ることなく、手柄をいうでもなく、映画の中のじいちゃんたちを語る。旗野さんは、制作秘話をこぼれ話のように言います。間違いなく確かにわたしは、新潟水俣病について疑問がわいて調べたくなりました。

関心をもつきっかけは、当事者の熱量に左右されます。折しも、海外の旅行会社さんを豊島事件の視察ツアーにテンドしたばかり。フィードバックの報告会にも出て、忌憚のない意見を聞くことができました。わたしは、豊島事件そのものを語ることはできないけれど、公害調停申請人や住民会議の筆頭議長のことは話せます。公害調停成立後の豊島、島の人たちのそれぞれの思いにアクセスできるのは、当事者でない人ではないかと思えるようになりました。

旗野さんのお話を聞いて、その活動を通して、豊島なら何ができるかを考えるきっかけになりました。

復刻版がでた2016年は、新潟水俣病公式確認から50年を超え、また、映画『阿賀に生きる』公開から24年。
「制作委員会の代表を引き受けた大熊先生は、コケたら大借金を背負うことになるので、ものすごい覚悟だった、と。」とわたしのFBに投稿がありました。

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