自分の力はそんなものではない
整体とは状態をあらわす言葉です。
つまり、その人は整体か否か。
わたしは整体である。わたしは整体ではない。
ぼくは整体を目指している。ぼくは整体になりたい。
そういった状態をあらわす言葉です。
ですので、今日整体に行く。整体を受けてきた。
という言葉は本来は間違った使い方です。
まぁそれでも町じゅうには整体屋さんがたくさんできて、たくさんの人が整体を受けに来てくださる。その理由は痛みを解消したいだの、やせてキレイになりたいだの、健康になりたいだの、その他にも様々だとは思います。
整体とは状態をあらわす言葉です。
整体という状態になるようにお手伝いをするのが整体の仕事だと思うし、本来の整体の役目であると考えます。
整体とはひとを幸せにするものだと、ぼくは思っていますし、整体になったり、整体でなかったり。その時々の選択で変わってしまったりもする。
なったりならなかったり。遠かったり近かったり。手にしたりなくしたり。あっちいったりこっちいったり。そういった不確定なものもある意味人間らしくておもしろい。
それくらいはかなくもろいものだと思うし、それくらい目指す価値のあるものだと思います。
整体というものは大脳の支配から離れたものです。なんとなく、そういった感覚をたいせつにするものです。人間の持つ潜在意識、より動物的な野性的な部分をきたえるものです。
整体を目指すということは人間の持つ潜在意識を最大限に活かそうというものなのです。
そう考えると、ただ痛みをなんとかしたい・・・ということだけで整体に通うのはたいへんもったいない。
これだけたくさんの整体屋さんがあるのに、通って下さる人々のニーズがそれだけではもったいない気がします。
自分の力はそんなものではない。
ぼく自身もそういった部分から整体にのめりこんでいきました。
身体のことを考えていくと、きちんとしている人、まじめに考えている人ほど神経や大脳の存在にたどりつきます。
それは生理学的に考えてみてもその通りなのです。
わかりやすい例を挙げてみますと、サバンナにシマウマがいます。このシマウマを自分自身だと仮説してみてください。
このシマウマは、照りつける太陽の中、むしゃむしゃと美味しい草を食べていました。草はいい感じで成育していて、青々とし、長さも柔らかさも絶妙です!周りには他のシマウマもいて、群れをなしています。この群れには友人のシマウマもいます。いい場所だね、そういった目配せをしつつ、ようやく出会えた幸せにひたっています。
むしゃむしゃと食べ、一息つこうと顔を上げたそのときです。周りのシマウマはある一定の距離を置き、その手前にはライオンの群れがしげみに隠れながらこちらのほうに近づいてきます。あきらかに自分の方に向けて、何頭かのメスライオンがにじり寄ってきます。そのむこうには立派な鬣のオスライオンの姿も見えます。
これからこのシマウマ(あなた自身)はどうなってしまうのでしょうか?
こんなときに筋肉が柔軟なままであることはできませんし、ありえません。
単純なことです。
身体が危険にさらされているときに身体が硬直するのは当然のことなのです。そんな筋肉をいかにほぐそうと思っても大脳や神経の生理反応とやりあうだけ。
もしかすると、身体の中ではライオンにおそわれそうになっているシマウマ状態なのかもしれません。
この状態であるにも関わらず、考えなしに硬いところをほぐそうとすると神経系の混乱がはじまります。
もちろん思考もたったひとつのこと(生命を永らえさせる)だけに集中します。柔軟な思考など持てるはずがないのです。ましてや笑顔なんて作れるはずがないのです。
整体とは正常に緊張し、正常に弛緩できる状態でもあります。
緊張するべきときに緊張できること
弛緩するべきときに弛緩できること。
正統に悩み、正統に苦しむことができる。
これもまた整体という状態です。
とはいえ日々、余計なことで悩み、大したことがないことで苦しんだりする。
まだまだ整体には遠いようです。
本日もお読みいただき、ありがとうございます。