ぼくたちは何かを介してしか自分自身を認識できなくなってきているのかもしれない
毎年毎年のことだけれど年が違えばいろんなことが違うもので、今年の夏は今年にしかやって来ないものだなぁと思う。むすめがもはや夏休みに入り、家にいるのかな?と思ったら部活が忙しいようで朝から昼過ぎまで帰って来ない。むすめが家にいようがいまいがぼくのやることに大きな変わりはないんだけれど、いたらいたで何か違うものだ。
おとなになると一年の意味が、ひとによって違うものなのかもしれないが大して変わらないことが多い。学生のころは一年というのは大きな時間だった。一年経つとひとつ上の学年に進級したり、先輩と呼ばれるようになった。毎年毎年外的に変化を強制させられることで否応なしに一年というものや季節というものを意識させられてきたんだけれど、おとなになって、そういったものから隔離すると、しみじみ一年というものは自ら感じに行かないと感じ取れるものでもないのだと思う。
日本では古来から時間的な変化のことをわびとかさびとかいう言い方で表現し、愛でてきたのだけれど、そう考えると年を経てずいぶんとわびしくもなり、さびしくもなったのだと思う。ときどき昔のことを思い出すことがあるけれど、それは特段に過去が美しかったわけでもなければ、残酷だったわけでもない。単に身近にあった風景として思い出す。それを人前で話すとほんとうにおじさんになってしまうので、相当勇気が要る。
自分自身にベクトルが向いているようで案外そうでもなかって愕然とする。ぼくたちは何かを介してしか自分自身を認識できなくなってきているのかもしれない。みんな認識できていないからそれがルールになっていて、当たり前のようになっているけど、みんなが決めるからルールになるというのもおかれた場所で異なるものであり、普遍的ではないものだ。まずは自分自身を普遍的にすることから考えてみようと思います。
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