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現代の読書感覚を探る

備忘録のようなものを書いています。
3つお話がありますが、統一性があるようで、ないようで。
とくに気にせず書き綴っています。


図書館のはしごをしました。普段私が読んでいる書籍、師匠からおすすめの書籍を紹介していただいて、読み進めているものが多数あります。

多数あるのですが、読み終えても読み終えても積読状態が続く。それはそれで読み進めないといけませんので、とりあえず積読のですが、結構専門的なマニアックな書籍が多いですので、一般的な部分がわからなくなります。今の人たちがどういった感覚でいらっしゃるのか、どういった書籍が多くの人に読まれ、求められているのかがわからなくなります。専門家としては不必要なのかもしれませんが、お客さま相手の商売をするとなると多少は知っておいた方がいい。

とはいえ、今のトレンドを追いかけてにわかになるのもみっともない。というわけで、とりあえず本屋大賞というのを指針にいくつかの本を読んでみようと考えました。

本屋大賞とは本屋さんの店員さんが投票して、その年でおもしろい、お客さまにおすすめしたいと思った本をランキング形式で紹介されたものです。

本屋さんがおすすめしたいと思ったのですからおもしろいに違いない。そして、その本はおそらくその年に一番読まれている本に違いない。ということは多くの人の感性や感覚に近いものを表現しているものだろうと思いました。

まず初めに近所の書店に行きました。店内を散策していると本屋大賞受賞!と書かれた帯を発見しました。見ると2023年と書いてある。これは昨年のものらしい。できたら2024年のものがいい。
店内を探したら見つけました。パラパラとめくってみるとおもしろい!どんどん引き込まれて行きます。
同行してくれた娘に「この本読んだ?」って聞きましたら「読んだよ」と答える。家にはないはずなので「どこで?」と聞いたら「学校の図書館にあったよ」と。なるほど!積読するつもりもないのだったら確かに図書館の方がお財布に優しい。

今度は近所の図書館に向かいます。
図書館では平日昼間にあまり見かけない面々で、ちょうど夏休みということもあってか保育園や幼稚園くらいの子どもさんに絵本を読み聞かせている女性の方や、勉強に来ている学生さんの姿も見受けられました。

検索機でお目当ての本を検索しますが、無念。貸し出し中の文字。
そりゃ人気の本は貸し出されているのは当然のことです。だったらということで節操のない私は端末でランキングを検索し、片っ端から蔵書の検索機にかけて行きます。見事に全滅でした。

片田舎の小さな町の図書館に人気の本が余っているはずもなく、残念な気持ちになりましたが、半面、それだけたくさんの人に求められ、読まれている本だということは、当初の目的のように多くに人の価値観に共感する部分が多いのだろう。それだけは検証できました。ちなみにそのあとふたつの図書館を回りましたが、見事に全滅。検証結果がさらに強化された一日でした。


ウチの娘は美術部に入っています。絵をかくのが好きなのですね。「受験勉強だ」「定期テストが近いぞ」という時期に娘のデスクをのぞき込むと絵をかいている。モンテスキューとロックとルソーの似顔絵が貼ってあるのはどういう意味だろう?テストに似顔絵はいらないんじゃないか?と思いながら、娘にバレないように立ち去る。もちろんモンテスキューの話題に触れてもいいけど、モンテスキューの似顔絵については触れてはならない。

絵をかくことが好きだということで、小さいころからスケッチブックを持ち歩いていました。「買い物に連れていって」という時のほとんどはスケッチブックを買いに行くときでした。

多分に漏れず、今回もスケッチブックを「買いに連れて行って」と頼まれ、出かけました。行きつけのお店に到着する前に「あるかなぁ」と言いました。「どうして?」「最近売ってない」ということでした。

お店について店内を散策しますが、販売していないようです。類似の商品が陳列されていますので、コーナー的には間違いない。娘が所望するスケッチブックは、ここになければこのお店にはないのです。娘の横顔をチラッと見ると、この商品で満足する様子はない。別の系列店を探すことになりました。

結果的には5軒のお店を探しても見つかりませんでした。最終的にはちょっとだけお値段の張る、文具専門店でそれなりにお気に入りのスケッチブックを見つけ、購入しました。娘のお気に入りになってくれるといいなと思います。

いろいろとお店を回って見つからなかったのは残念でしたが、これと決めたらそれがいい。そのこだわりは誰かほかの人には理解しがたいかもしれませんが。
たとえば私の場合、カレーうどんを食べたいと思ったら、カレーライスまでは妥協できますが、カツカレーになると別物に感じます。これは私の感覚ですので、そうではないという人もいらっしゃると思います。

カレーうどんが食べたいとき、私はダシを食べたい。関西生まれ、関西育ちである私はダシの文化で育ちました。山陰地方はそばが有名です。出雲そばなんかとても有名です。コシのあるうどん屋さんは何軒か山陰にもあります。しかしダシとなると関西風がいい。カレーうどんを所望するときは同時に関西風のダシを求めています。望郷にかられているのかもしれません。そう思うと、「こっちのスケッチブックでいいじゃん」とは言えなくなります。5軒でも10軒でも回ってやろうじゃないか。


みなさんにもあるでしょうか?意図的に目を閉じる瞬間。
あくまで意図的に、です。
私は意図的に目を閉じる時間を設けています。

単に眼を閉じる、目を閉じてしまう瞬間はあります。
ひとつは眠るとき。
もしくは電車やバスで座席に座っている時に、誰かに席を譲らなくてもいいように寝たふりをするとき。
眠るという行為に対して目を閉じます。

もうひとつは何かを深く味わおうとするときです。
音楽を聴くとき、美味しいものを口に含んだとき、澄み切った場所に降り立ったときなんかも目を閉じてしまいます。五感を駆使するときに目を閉じる人は多いのかもしれません。

このふたつに共通するのが、今見ている世界から視覚を遮断し、離れることだと思います。
今見ている世界から離れるというと何だか不思議な感じがしますが、それほど難しいことでもない。ただ、意図的に目を閉じることの価値というのは計り知れません。私がこのように考えるようになったのは愛光流山本清次師の影響です。

師匠はこのように言いました。
意図的に目を閉じるというの人間だけができる行為です。その他の動物、生き物が目を閉じるときは眠るときです。眠ることなく目を閉じることができるのは人間だけに赦された行為です。ですので、私たちが胸を張って、私は人間であるということを言おうと考えたら、意図的に起きている時に目を閉じなくてはならない。意図的に目を閉じるという行為とは瞑想です。

※愛光流では瞑想を明想と表現しますので、以下は明想と表現させていただきます

意図的に目を閉じていない人、つまり明想をしていない人が人間であると言っても甚だ疑問です。起きて、活動して、ご飯を食べて、眠る。眠るときにだけ目を閉じる。ほかの動物と何ら変わりないことをしている人が、私は人間だと言っても、見ためが違うだけでやっていることは変わりない。
ということは、私たちを人間とならしめるもの、人間がほかの生物と違うという所以は意図的に目を閉じることでしかありません。私たちが人間である理由なのかもしれません。人間に生まれたからには意図的に目を閉じなくてはならない。言い過ぎかもしれませんが、ある意味で言うと責務のようなもの、宿命のようなものと捉えることだってできる。

言葉を話すから、道具を使うから、文明が発達しているから、文化があるから、経済活動をするから、ルールが守れるから・・・etc
そんなことよりも人間らしい行為がありました。人間らしい行為の為に、自分の大切な時間を割いてみるのもよいのではないでしょうか。

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