喜びを広げる
世の中にはいろいろな知識があります。
知識は得るだけではいけません。
実践し鍛錬していかなくてはいけません。
そうすることによって、誰かの為になって喜ばれたり、世の中の役に立つことができたりします。
人間の持つ欲求にはいくつかあり、それには階層もございますが、人間の最も強い欲求、この欲求の前では人間はとにかく無力になり、その欲求に支配されてしまうものがあります。
それは知識欲です。
知識を得たい、という欲求は何にもまして私たちの心を強く強く支配します。
命を長らえさせる為の本能的な欲求もありますが、それとは少し階層が違いますね。
どれだけ理性的な人物でも、知識欲の前では無力のようです。
私たちはそれだけ知識を得たいと考えるもののようです。
しかし知識は得るだけで頭でっかちになってもいけません。最近では体験、事学習というものも盛んに言われていますが、それもいかがなものか。
単に体験だけを積み重ねていても仕方がない。やはりそこに知識がないと、いくら超一流の絵画や楽器の演奏を聴いても、猫に小判になるのです。
私たちは知識を得て、それを体験経験し、社会に役立てようと考えます。社会に役立つような知識や技能を得たい。サブカルチャーの文化も最近では一目置かれるようになりましたが、一昔前は「そんなことより資格を取れ」とか、「それをやっててどうやって飯を食っていくの」というのが、一般的に普通にありました。今でもまだ根強く残っているような気もしますが。
とにかく私たちは社会の役に立ちたいと思うようです。そしてそれが自分の存在を価値づけるものだとも思っているようです。
しかし、このように考えてみてはいかがでしょうか?
たとえば、ご自分の家のお子さんたちに美味しいご飯を食べさせてあげるのも人助けです。
そのお子さんが将来大きくなって、他の誰かを助けてあげるようなことになれば、それはひとつの社会貢献です。
社会というのは家の外だけではなく、家の中も社会の一部です。
でもご自分の健康に氣を使うのも同じことです。
それはひとの為です。
自分自身の健康を意識して保つことは、貢献です。
なぜなら自分がいつも健康で快活だったら、周りの人は喜びます。
そして今度はその秘訣を聞きたがります。
そしたら、それを教えてあげたらみんな元氣になります。
では快活とはどういう状態でしょうか?
快活とは目が覚めたら何かしようと思うこと。
目が覚めたら庭の掃除してみようとか、本を読みたいとか思うこと。
目が覚めて、もう一度眠りたいと思っているのはそれは快活ではありません。
目が覚めて、何か食べたいなと思うのもひとつですね。
「美味しいコーヒーが飲みたい」「美味しいお水が飲みたい」それも快活だからです。
では元氣とはどういうことでしょうか?
元氣はひとに力を与えていることをいいます。
元氣の氣という字は中は米と書きます。
これは光という字が基ですので、四方八方に広がるという意味です。
でも病気って書くときはだいたい〆という漢字を使います。
これはclose 閉まっているという意味です。
元氣な人というのはいつもひとに何かをしています。
会員さまでこのような方がいらっしゃいます。
その方は医療従事者の方で、いつも患者さまのケアをしておられます。
たくさんの患者さまをケアしますから、医療従事者の方で体調に不安をお持ちの方は多いです。
しかし、患者さまが待っていますから休むわけにもいきませんし、体調を崩したままで患者さまの前に立つわけにもいきません。
整体操法を定期的に受けに来られるだけでなく、講座にも積極的に参加し、ご自分でできる手当てを学び、実践しておられます。
もうかれこれ10年近くのお付き合いとなりますが、職場で同僚の職員さんから「いつも何でそんなに元氣なのですか?」と聞かれるそうです。
そしてご自分のしているお手当てを教えて差し上げるそうです。「教えてもほとんどの人がしないか、すぐにやめてしまうようです」とおっしゃっておられました。
元氣で快活な人は周りにもいらっしゃいます。その方のようにコツコツと積み重ねたお手当てに対する知識と体験が大きな病を遠ざけ、周囲の人にも元氣を与えます。
もともと氣には天より賜ったものという意味があります。
天からの贈り物です。
だからわれわれの持っているものは賜ったものです。
ということは、いづれ返却しないといけません。
返却するにしても、天には返却できないから社会に返却するのが社会貢献です。
だからいつも元氣な自分でいたいですね。
読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。