手間と好きの関係
井田幸昌展「Panta Rhei|パンタ・レイ-世界が存在する限り」
米子市美術館で開催中の井田幸昌展「Panta Rhei|パンタ・レイ-世界が存在する限り」に行きました。
本展は井田幸昌さんにとって初めてとなる国内美術館での個展です。
井田幸昌さんの存在は以前、知人からお聞きしていて「今度、世界的なアーティストが米子で個展をやりますよ。普通だったら鳥取県では個展なんかしない人。世界でこの人が個展をやると言ったら超一流の美術館でやる。それが米子で観れる機会なんて今後絶対にないです!これを逃したら二度と観れないかもしれないよ」って言われていました。
本当に楽しみにしていましたが、なかなか機会を得らえず、前売り券だけが温まっていく日々を過ごしていました。
まずは井田幸昌さんの紹介から。Wikipediaで調べてみました。
以下は井田幸昌さんのホームページです。
コンセプトは「一期一会」
Wikipediaにもありましたように井田のコンセプトは「一期一会」。
二度とこない今を切り取っています。
「一期一会」というと何だか小難しいような気もしますが、私たちは本当は今にしかいません。過去も未来も頭の中にしかない。
例えば誰かの頭の中にある過去は、別の誰かの頭の中にある過去とは、同じ過去のようであっても同じものとしては存在していません。同じ時を過ごした誰かと誰か。それでも別々の過去を頭の中に持っています。誰かが経験した過去は紛れもない過去なのだけれど、同じく時を過ごした別の誰かの経験の過去は別のものとして、別の誰かの頭の中に存在しています。
もっと言うと過去は存在自体していません。頭の中に過去はあるように思うけど、本来は過去というのものは目の前にない。あるようでいて、ないのです。
未来も同様に、頭の中に描く輝かしい未来も、不安や恐怖が取り巻く未来も、目の前には存在していません。「世界恐慌がやってくる」と怯える人もいれば「千載一遇のチャンス」と捉える人もいます。
それでも未来は存在していません。
私たちは日々日々その瞬間瞬間を積み上げて生きているのです。
大きなキャンバスに描かれた人物画
井田の作品の中で特徴的なのが人物画でした。
とにかくたくさんの人物画がありました。
見渡す限り顔、顔、顔、顔。
それも大きなキャンバスに描かれた人物の顔。
「一期一会」というものを如実に表そうと思うと、自分ではない他者との出会いを思い浮かべるのは至極当然のことかもしれません。
整体でも師匠から言われたことです。「今日拝見するお身体は二度と出会うことのないお身体です。同じ人を観ることがあったとしても、今日のお身体は今しかない」と。
それはまさに「一期一会」です。
「また次の機会に」などということはあり得ないのです。
手間と好きの関係
これだけたくさんの人物を書いてこられた井田幸昌さん。
この方はよほど人物、人間というものが好きなんだろうなぁと思います。
いや、他人を通して自分というものを見つめているから、よほど自分のことが好きなのか。
どちらにしても、目の前にある大きなキャンバスに向かい合い、「人物を描こう」と筆を取る。あれだけの大きな顔をキャンバスに映し出すまでに、どれほどの思いを積み上げていくのだろうと思うと、その息の長さに敬服する。
何度も何度も繰り返し、筆をおき、筆を取り、見つめる。その作業の先に描き出される自分に「一期一会」を照らし合わせる。
人間は奥行きもあるし、明るいところも暗いところもある。目に見えない感情がふと何かをささやく。しぐさや振る舞い、表情や顔色に、無意識のうちに現れる。希望も恐れも心配も、いろんなものが見え隠れする。
表に現れているその表情は、本当に表に表現したかったものだったのだろうか。裏に隠している色を取り出すことに対して敬意は失っていなかっただろうか。単なる好奇心は敬意をなくす。好奇心と敬意は相対する場所に在ってはならない。
たくさんの手間をかけ、観察し、読み解くからこその作品なのだろう。手間という時間と好きという感情は相関すると思っている。その人のことを考えた時間が、その人に対する好きの感情の度合いのように思うからだ。
仕事が好きな人は、仕事のことを考えている時間がそうでない人よりも多いに違いない。野球が好きな人は野球のことを考える時間が、阪神タイガースが好きな人は阪神タイガースのことを考える時間が、きっと多いはずだ。
手間と時間は厳密に言うと違うかもしれないが、私たち素人が手間をかけることができる言えば時間だろう。
好きでたまらないから、手間がかかるものなのだ。
良くも悪くも三次元の世界にいる人間のおもしろさを改めて感じました。