世代間の違いとは何のことなのだろうか。昭和の古いテレビドラマをみた。
若い人たちは自分たちだけの表現を使う。若い人たちの言葉。人間の世界は学習のプロセスで動いている。言葉の変化でそういうことを知ることが出来るから、それが何を意味しているのか考えることが出来る。人間の学習は、お勉強するというイメージで考えていると誤解してしまう。小さな子どもは黙ってお勉強しているというのではなく、身体を使って身振り手振り声を出してコミュニケーションのやり方を覚える。
学習するというのは本来そう云うものだ。なんというのか、自然なプロセスといったものだ。言葉の変化している様子は学習のプロセスの変化を表している、というかその自然なプロセスの変化を知るきっかけになる。それは見えるもの観察できるものだ。
最近、テレビで昭和の頃の古いテレビドラマがやっていてそれを見ると登場人物の言葉遣いや会話の様子、身体の動き方がまったく違っているようなので驚いてしまうことがある。もしそれをリメイクしたらぜんぜん違うものが出来てしまうだろうと思う。
いまのテレビドラマに出ている俳優さんたちは昭和の頃の俳優さんたちに比べて驚くほど個性豊かというかひとりひとりが違っているのが当たり前というか、俳優さんたちが細かい複雑な演技をしていることに改めて驚いてしまう。社会が大きく変わって複雑になっているのということなのだろうと思う。それが実感できるということなのかもしれない。あらためて演じることの重要さに気がつく。
若い人はよく社会を変えるみたいなことを言う。若いころはたいていそう。昔であれば、それは社会的な制度を変えるということを意味していた。
しかし今の人が言っているのはそれとは微妙なところでというか、むかしのテレビドラマとはいまは違う演じるしかたをしているとういような違いがある気がする。それをどう解釈する?というのか、そんなことを「感じること」を通してでないと分からない気がする。
むかしは記述されたものをお勉強的に学習するという感じだったのだけれど、またそれは多大なコストがかかった。そうすれば社会において優位な立場に立てる。それだから勉強頑張りました。しかしそうして得られた知識もスキルもより合理的にシステムの方に移されて自動化されてしまい必要になれば大体はシステムの方からやってきてくれるようになっていくだろう、と感じている。むかしといまは感覚的に確実に違う。
どういうことかというと、昭和の頃のテレビドラマでは出てくる若い人が、高校生くらいの若者が今の高校生とはまるで別人というか全くのオトナに見えるのでびっくりしてしまう。とくに60年代のテレビドラマの高校生はまるでおじさんみたいだ。社会が単純で高校生に特有の悩みみたいなのはあっという間に超えてしまっておじさんになって社会にスムーズに適応するということのようだ。
その頃の、「社会を変える」ということは、交通機関が進歩するとかみたいなことで、機械が進歩して簡単に生産性が向上するというような感じなのだろうと古いテレビドラマを見て思う。制度を変えるというのもそんな感じのようだ。大人ということはこどもと違って社会の中で生産力の拡大に接している実感ということなのだろうか。こどもっぽさは意味が無い。集団として精密に動けることが重要ということ。集団の文化みたいなこと。
新幹線が出来て高速道路が出来て、というのは電車やバスや自動車が進歩して操作性が向上して故障が起きなくなるという感じ。
昭和の頃には「洗濯板」なるものが存在していた。なんだかわかりますか。それが電気洗濯機になり自動化さて洗濯がビックリするほど簡単になって生産性が向上するのであった。そうして日本はジャパンアズナンバーワンといわれるようにもなった。
ところが、いまの若い人が言う「社会を変える」というのは、機械とかでなくて、人間が変わってほしいな、乱暴で暴力的になったりしない人になってほしいな、というような期待が大きくなっている感じがする。むかしみたいに大人が変われ(ドントトラストオーバーサーティー)というのではなくて、誰もが変わってほしいというような期待というのかな、そういうような、「社会を変える」であるようだ。ハラスメントはダメ、そういうことしないでね、ということ。そういう圧力を動員してしかけようということらしい。
むかしのテレビドラマの若者がみんな大人のように見えるということは逆に言えば、こどものようだとすぐにハラスメントにさらされてしまうということへの自己防衛だったのかもしれない。
では、昭和と今では何が違うのか。それはたぶん社会が変わって、子供も立派な重要で強力な消費者になっていて、消費社会の中心で生産性を新たな段階へと引っ張る存在になってきたことなのかもしれない。
こどもぽっさはいいことなのだ。そうして「おじさん」は中心から外れていくということかもしれない。「おじさん」の場所に、そこに変わって、おんなとこども。これが最も重要な問題が集中する場所になったのだろうか。
社会はそうやすやすとは変わらない。一方では、経済的な成長には新たな段階が必要?社会をより合理的で時間的にもコスト的にもよいパフォーマンスが可能になるように変える?ところが、自然環境はまもられなければならない。自然ももちろんのこと「ハラスメント」にさらされてはならない。「おじさん」をやめるとは人間性に意識的であること、ヒューマンネイチャーだからもちろんネイチャーは大切。オトナであることをいったんやめてみてはどうですか、つまり、どうやら大人はこどもより大きいし力があるし潜在的に暴力的だし、それをやめることが出来ないだろうか少なくとも意識的であってほしいということ。
つまり、世代間のコミュニケーションの場所をつくっていかなければならない。その場所は自然の生き物にとってもよい場所であらねばならない。自然の存在にとって、生きものだけではなくて景観を構成するあらゆるものを、「おじさん」が最重要にしてきた利便性から解放することが問題になる。たとえば、リゾート開発ということが問題になり、景観の歴史的な重要性がー外苑の並木道をどうするかとかー問題になる。自然に対する、歴史に対する、ハラスメントが問題になっていく。経済を発展させること成長させることが昭和の方法ではもうだめで「おじさん」には変わってほしい。経済を発展させる昭和のやり方は結局のところ利用可能になった巨大なエネルギーを使って利便性を向上させるに過ぎなかった。それを今までの工学の対象から外して、地球自身の自然環境の向上に使えということに大雑把にはなりそうだ。
ところが、あいかわらず戦争やっている。いまだに戦争で物事を解決する帝国主義的な「おじさん」の発想を終わらせなければダメでしょ。とはいえ、戦争と平和の問題はいまだに「おじさん」が中心で騒いで頑張っている。善と悪、友と敵、これがすべて。でも、いつまでも続けていくこともないだろう。いずれにしても、「おじさん」は退場するだろう。気候変動は本当にやって来そうだ。人類は大移動することになるだろう。これはまた別の話。
楽観的になることで始まるコミュニケーションがある。まずはじめは世代間のコミュニケーションかな。昭和の古いテレビドラマの時代は戦争反対とかデモとかストライキとかやってたな。それはいいことだったね。やり過ぎだったかもしれないけれど、ないよりましな気もする。
テクノロジーの変化は、情報テクノロジーの加速していく発展によって、社会にあっという間に広がるので大規模に社会の構造が変わっていく。それはこどもからおとなまで、個人に対して作用する。だから、そのテクノロジーに何がのって来るのかでその社会の様相が違ってくる。昭和の若者が早く大人に見えるようになったのは、個人の脆弱性への応答だったとすると、その事実は、つまり個人の脆弱性の問題は依然として存在している。むしろより深刻になっているのかもしれない。個人の脆弱性への応答がうまくできるかどうかが、相変わらずの、子供と大人の違いかもしれない。テクノロジーに対する脆弱性の問題は、「ハラスメント」の問題に、人間にも自然にも景観にも歴史にも降りかかってくる暴力性の問題になる。
ここで問題になる「おじさん」の問題は、つまり大人ということの問題は、よいおじさんであったり怖いおじさんであったり、場面場面で切り替わってしまうので、暴力性からつねに離れていられるということにならないことにある。情報テクノロジーによって、社会の流動性が個人が移動していくことを場所的にも職業的にも違うところへいくことが可能になるのでどんな人に出会うかわからない。個人が自分で自分を守らなければならないという「防衛力の問題」が起きてしまう。最近やたらと話題になる軍事費とか抑止力の問題みたいなこと。
社会の問題は個人の問題で個人が解決できなければならないというようなこと。だからいつもそういうのは、ネオリベラルにアップデートできなければならない。それはとても戦闘的な身振りの演技をしてみることになる。想像力はいつでもバトルモードに切り替わる。そしていつのまにか潜在的には暴力性が上昇していく。それはゾンビ的に現れるなにものか他者の存在である。想像力はそれを恐れている。
こわいからそれらはなだめられなくてはならない。それと一緒に遊んでバカ騒ぎやらなければ納得しない暴力性を演劇的な楽しい儀式にしよう。こどものまつりであったハロウィーンがコスプレ衣装とともに現れてくる。おかしなことだけれど、人を追い詰める暴力を潜在化内在化してしまう傾向が大いにあるネオリベラルに行き過ぎないためには、ハロウィーンみたいなことが有効なのだと若い人たちは潜在的には思っているのかもしれない。自分の暴力性をハロウィーンの祭りの中で演じてみて解消したいのだ。
違うことばでいうと、生きるスタイルが個人化していくときに、心理的な脆弱性の問題には、幻の集団的なものが伝統から切り離された祭りが不思議に機能すると思われるのだ。
たぶんこれが、世代間の違いなのかもしれない。大人に見えることがネオリベラルであることになってしまうときにどうしたらよいのか。潜在的にはこれがこたえになっているかのもしれない。バカげたものを演じることがものの感じ方想像力の傾向を変える。こういうのは変な感じ奇妙なことかもしれないが実は正しいのかもしれない。
不特定多数匿名性の無名の無言の個人が一瞬の時間の空間のなかで個人個人が自発的な儀式的な演技を演じることで一瞬の集団が自己組織的に生じる可能性に目を向けることが必要なのだろう。それを無理にでもやろうとプロのイベント屋さんに丸投げするとどういうことになるか、もうみんなが知っている。
大人はあまりに自発性に無頓着だったから得てしてときに暴力的になったのかもしれない。自発性を考慮に入れないとすべて強制になるのがデフォルト設定だ。結果が見込めないことをするのは無責任だとビジネス的には発想しがちだがはじめっからそうしたのでは強制的な祭りみたいになる。楽しくないよね。ビジネスがすべてダメなわけじゃない。大規模すぎるビジネスが駄目だということなのだろう。ここに転換点があるとは思うのだけれど、ビジネスはますますアマゾンとかグーグルとかのプラットフォーマーのように大規模化していく。これらを無数の小さなものたちの一時的に集まる自己組織化するそして常に解散することを様々に繰り返す動的平衡の形態に変わっていくことが出来ないのか。それは次の世代のテクノロジーのよい目標になれると期待するのだけれど。
子供の頃にはおなじみだったようなしかし忘れてしまっているような自発性のマジックを体験する機会を作ることがよい目標になればいいのだけれど無理かな説得力ないかな。こういうのが世代間の違いとして意識されるのはいつだろう。来てほしいな。