レヴィ・ストロースの若いころの著作を集めた『構造人類学ゼロ』の序文を読んで少しびっくりした。ガザとか能登からとか共振するフレーズたちがいくつか。感想文を少し書く。

 資本主義の近代は「私たち自身かそれとも無かどちらかを選ぶ余地しかない」というのは行きすぎな感じもするがまぁそうだ。それが資本主義の強さということ。こういう世界では「遠く離れて………これまで続けてきた生活をこれからも続けていきたいという孤立することによって文明生活のもたらす災難から守られていた小さな伝統的社会集団」と、「国際社会に同等の権利を持って参加し産業社会の一員となりたいと望んでいる部族」がある。(例えばかつての日本)。両者はそれぞれ同じ一つの歴史に属してはいないし、同じ一つの取り組み方を求めてもいない。しかし早晩前者はなくなってしまうだろう。

 レヴィストロースの考えは「諸文化間には相対的通約不可能性があり、集団間のその差異を維持する必要性がある」ということであった。ある時まではそれが維持されていたが、レヴィストロースがそれを知るようになってからは難しくなった。西欧が近代化したからだ。その西欧は「人類の概念を地球上に生きる人間すべてを含むもの」に帰することで、確かにわれわれは進歩を遂げたが、つまり一つの西欧的なるものに集約できることは必然というか、それが合理的だと思われていることに疑いをはさむことは難しいことだった。

 レヴィストロースの調査したナンビクワラ族の「外交政策」では、各集団というものは、「一つの人間集団が他の集団と比較し、あるいは対立することによって、自分たちをまとまりのある集団として認識」し続ける必要性があることを重要視していた。西欧の知識人であるレヴィストロースにとっては、彼らの求めていたこの平衡が、西欧に固有になった「全的戦争」と「ユートピアでしかない全的平和」というある理想の二者択一から逃れる唯一の方法であると見えていたのである。近代化した西欧は世界大戦を始めることになった。戦争は当たり前のことだったのである。いまでもそれは変わってはいなくて武力による抑止によって平和が維持されると考えられている。
 それとは違って、たがいがたがいと違っていることを互いに維持することによって平和を維持すること。それはとても魅力的な考えに彼には映ったのだろう。これは、政治の放棄ではなく、考察の次元の変化である。しかし、私たちにとっては、そういう考えはあまりなじみのあるものではない。それどころか今はもうこういうことは遥か彼方のおはなしに過ぎないファンタジーであると思いがちだ。
 ところが、今回の能登の大きな地震災害の対応をめぐって何が起こるかを考えると、「一つの人間集団」のそれぞれのあり方、老齢化して孤立化しているとか、マイナーで特殊な産業形態に基づいている集団であるとか、そういう小さなまとまりがそれ自身として自分たちをまとまりのある集団として認識している必要性を維持したいと思っていること、そのためには「考察の次元の変化」に向っていかなくてはならないことは依然として重要であることがわかる。これはレヴィストロース的な問題なのである。この能登問題が無視されていくかどうかでこの国がどのモードに入り込んでいるかがわかるだろう。

 

 レヴィストロースの伝統的なナイーヴな人間主義批判はこういうものである、「伝統的なユマニスムはその起源からして、人間を自身の環境から孤立させ、そして命あるものから孤立させる「自己愛]に毒されている。」というものだ。彼は「種としての人類に認められているそれらの権利は、他の種の権利によって当然の制約を受ける」ということを考えていた。それは彼の確信でもあったー当時は突拍子もない考えであったが昨今では困惑を覚えるほどアクチュアルな確信であるといっていいだろう。
 これも今では「人類」のところを主要な上位にある強力な決定権を有している特別な人間集団と読み替えればこういう考えはかなり重要なことを指し示すことになるだろう。「制約を受ける」ということが、受け入れられるためには新自由主義的な感覚が変わらなければならない。「自己愛」ということ、ナルシシズム的な小さな集団が権力と強力な決定権を持っていること。それが彼らの美意識であり自身の環境からそれから歴史から孤立して外苑前の再開発や新幹線を環境の制約を無視しながら通そうとする。「人間」とそれ以外のもの。彼はいったんはそれから撤退する。そして彼は考える。

 レヴィストロースの物事の理解の方法は直感的なものから出てくるものではない。彼にとって出来事とは回想のなかを通してでしか意味をなさないと考える。出来事はその瞬間には本当の意味を与えない。出来事の意味はいつも、その出来事が振り返って、彼にとり比較可能に見える他の出来事との連なりにおかれることで生じるのだと考える。びっくりすることが起こってもその衝撃からすぐに直感的に反射的に引っ張られることから一度は撤退する。どういうことかというと、たとえば、レヴィストロースは1945年にショアの現実を発見した。彼はすぐにそれを受け入れることが出来ない。何がどうしてなのかわからない。その後に彼が痛ましくもショアを思考可能にすることが出来たのは、南アジアでのトラウマ的な経験をすることからだった。その経験は彼はショアに特別な意味を付与することを拒む。西欧が経験したその蛮行は残念ながら「ある民族、ある主義、ある人間集団の錯誤の結果」には還元できない。「私はそこに、むしろ終末世界へ向かう一つの進化の予兆を見る。その進化は、南アジアが一千年か二千年、われわれより早く経験したもの」にすぎないというのである。「それが来たるべき時代をどれほど象徴的に表すことになるのか、考え及ばなかった」という発言につながる。ショアを思考可能にしたのは、それを孤立した特別な問題としなかったからだ。もしそうなら、人間の起こす蛮行について、終わったことにできて、いつでもそういうことが行われる可能性については考えないことにできるということになるからである。奇妙なことだが、それは、自分たちは特別だという意識になる。

 彼は戦後のヨーロッパについてラザロという寓意を持ち出す。死を通過した痕跡をとどめたまま生き返る人物である。『悲しき熱帯』の構成は、生きのびたヨーロッパのユダヤ人の運命と西欧近代によって壊滅させられたインド人の運命との間にある無意識のアナロジーによって密かに導かれていたと考えることが出来る。このアナロジーの両者はともに「獲物」であった。一方は「強制収容所の獲物」他方は「機械文明の罠にかかった獲物」である。彼の人類学はこのような木端微塵に砕け散った「バラバラになった要素」を継ぎ接ぎすることを余儀なくされていることから始まるのだった。
 彼の考えではアメリカのインディオの大量虐殺はジェノサイドはヨーロッパのユダヤ人根絶と本質的に異ならない。彼が研究した人々の小さな共同体は、人間が「自然と生命のあらゆる表現に対して途方もない権利を自由に行使する創造物の君主にして主人」であると考えたことなどなかった。その小さな共同体の「教え」に、彼は忠実になる。

 人類学、社会学、心理学。小さな集団、社会という巨大な集団、個人という存在にまつわる過程、つまり家庭的な個人的な空間。
 社会現象は模倣やファッションといった個人の心理的過程を通じて説明し得るのか。

 レヴィストロースの見るアメリカ。「アメリカの骨組みはあくまでも外面にある。このように理解してはじめて、アメリカ社会のさまざまな領域でみられるあきらかな逆説的現象が説明できる。たとえば、農民の生活を見ると、彼らは自分の土地でできた作物よりも缶詰の方を好んで食べるのである。なぜなら、彼らが食物を生産するよりも前に、食料を整え配布するシステムが出来上がっているからである。あるいは、産業、商業に関わる人を見ると、そこでは大企業は諸個人の欲望に注意深く奉仕するというよりも、大企業こそが諸個人の欲望の形や傾向を作り出す創造者であり、社会一般の教育者としての任務を果たしているという意識の方が強い。政治をつかさどる人たちといえば、彼らは政府は世論の先を行くものだと考えている。アメリカのリベラリズム、それは一見したところいかにも大胆なように見えるが、同じような線上で理解されるべきものである。つまり、そのリベラリズムは革命的というより教育的なものであり、古い社会秩序に対抗する個人の蜂起を表現するというよりも、個人の不定形な反応を集団的な生ける理想という名のもとに制御しようとする意志の表現なのである。これがアメリカの成功であった。

 永遠のこども。すべての社会において、もっとも未開な、あるいは高度に複雑化した社会においてであれ変わらないのだが、個人はその深奥の部分に自らは気づかない傷、あるいはつねに口をあけている傷のように、自らの幼児としての感受性が抑えつけられているという思い、その思いがいつ頃の歳から始まるかは文化によって異なるものの集団の頑なな原則に早くから拘束されているがゆえに抑えつけられているという思いを秘めているものである。そう彼は言う。

 レヴィストロースの人類学は「木っ端みじんに砕け散った文化的伝統の「バラバラになった要素」を集めて繋いで再生するための原理を明らかにする。生き返った死者にもう一度人間の生を体験してもらうことが想像力によってだけではなくて実際に生きるとしたらどういうことが考えるに値するのか思想的な課題を突き付ける可能性も再生できるのかもしれない。彼がやめてしまった政治的行動が再生するための何事かが考えることの可能性は何か。優越的な力を持っている集団の勢力はあえて小さな共同体や微細な生態系には利益の観点から関心をもたない。必然的にそういう世界は広くとった交流の世界の大きな部分さえ関心の外部に設定されてしまう。つまり、コミュニケーションを撮ろうとしないのである。征服によってつくられたと考えた時のアメリカはそういう性質を強く持っている。それゆえ、アメリカではそういうことに対してその間違いを指摘する活動も他の古い伝統を持っている社会に比べて盛んである。永遠のこどもの存在がアメリカの文化にエンターテインメント産業の重要なテーマになっている。大人になることがその機能に特化したシステムみたいになって独立しているところが、アメリカの教育システムや企業の求人方法のように開かれている一方で経済的なあるいは政治的な利益を最優先する権力集団に対する批判がなおざりにされていることが同居している。そこに永遠のこどもがいるわけだ。オバマの中にもブッシュの中にもトランプの中にもそれぞれの永遠のこどもがいる感じがする。彼らは彼らに独特な特殊な支持者たちを持っているように感じられるのはそういうことがあるからなのかもしれない。

 現在の地球は、根本的に対立する敵対関係の劇場としてみなされていてわれわれは観客である。そこでは、力の不均衡が現存している集団を消滅の危機にさらされていていつでもインターネットでは検索することもできて知ることは出来る。若きレヴィストロースは、歴史に対して、人間にはその流れを方向づける力があると見なしていたと感じていた。そのころの条件というのは何だったのだろうか。彼はその理想をいずれ放棄する。その条件が維持できないこと。その後、その条件はどうなったのだろうか。そもそもその条件とはどういう感じだったのだろうか。誰かがそれを再開するところへ近づいていないだろうか。

 イスラエルを見ているとそれが湾岸戦争からのアメリカの中東支配へのめりこんでいく姿と二重写しに見えてきた。レヴィストロースの言ったことを改めて考えさせられる思いがする。
 アメリカとイスラエルの中東支配のロードマップがいずれ明確になっていく時期が来る気もする。思えばアングロサクソンの世界戦略は大陸ヨーロッパ諸国がすべて失敗してきたのに対して大成功してきた、もちろんベトナムや中東での最近の失敗はあるにせよ、ということが改めてわかる気がする。  
 先住民たちをほぼ完全に殲滅してそこに新たな国家を建国したのはアングロサクソンの移住者に限られる。アメリカ合衆国は大成功であるし世界最強の軍事力を誇る国家だ。オーストラリアはさすがに白豪主義を言いうことはなくなったが先住民たちを完全に征服した成功した国家である。カナダもニュージーランドも新たにつくられた国家である。征服によってつくられた国家であると普通には思われていないことが彼らの成功の凄さである。
 イスラエル人が中東に大きな征服国家を作ることが出来るかどうかが21世紀の世界史的な問題になるのだろうか。エジプトやサウジは実際にはアメリカの、したがって暗にイスラエルの意向の下にあるといっても間違いではなさそうだ。もともとヨーロッパ諸国は帝国主義の植民地支配によって発展してきたわけだしイスラエルの国家戦略に反対するほどの理由もないのかもしれない。一般市民はともかくとしてEUの高級官僚や金融エリートたちヨーロッパの超エリートたちは生活感覚からしてイスラエル支持だ。はっきり言えば洗練された帝国主義者たちなのかもしれない。基本的には力の信奉者たちだ。したがって彼らはみんなユマニストである。
 
 レヴィストロースのいう、出来事は回想のなかでしか意味をなさないということを考えてみるいい機会がやってきているのかもしれない。出来事はその瞬間には本当の意味を与えない。出来事の意味はいつも、その出来事が、ふりかえって、彼にとって比較可能に見える別の出来事との連なりの中におかれることで生じる。それでようやく彼はそれについて考えることが出来るようになる。「レヴィストロースが1945年にショアの現実を発見した時にすぐにはそれの意味がわからなかった。痛ましくもショアの現実を思考可能にしたのは、その後の南アジアでのトラウマ的な経験によって他ならない」とこの本の序文で編者によって述べられていることは今示唆的であると思う。

 征服するというアングロサクソンの成功体験は無視して済ますことは出来ないのかもしれない。そんなこといまどき考えてるはずはないだろうとは思うけど、しかし、恐怖感はあるのは否定できなくなってきた。
 レヴィストロースの亡命という試練にもかかわらずニューヨーク時代のテクストにある相対的な楽観主義が1950年代になると悲観主義というか幻滅に変わったこと、それをこの編者は次の仮説を立てることで理解しようとする。「それは、南アジアでの経験と1950年代秋のインドおよびパキスタンでの滞在が決定的だったという仮説である。この滞在が試金石となり、共振を引きおこすことにより、人類学的考察がそれまで避けてきたある要素を再度出現させることとなった。すなわち、ヨーロッパにおけるユダヤ人根絶である。」。共振が引き起こされているのだろうか。世界の歴史が身震いする。

 大げさなことかもしれないけれど、今回の能登半島地震の政府の対応やエリートたちの様子を見せられているとなんだかガザへの先進諸国の対応を見るようで恐ろしい予感もしてくる。コロナ以後の本当の意味が見えてきているのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?