新しい商品と料理の革新には関係がある?家電製品にどういうイノベーションが起こるならいいみたいなこと。
日本においては料理は伝統的なもののようだったと思われていたと思いがちだが実際はかなり違う。有名な料理店はたいていそこの人間が継いでいくから伝統的なものだと思ってしまう。ところが日本においては料理の世界ほどバラエティーに富んだ世界はない。料理ならどんな料理も日本にならある。またつねに新しい料理が出てくる。もちろん一方では洗練された料理もある。ところがまるでカオスのような何でもありな料理もある。全く個人の発想や能力を競うアスリートたちの世界のようである。なぜなのだろうか。日本は保守的だと考えられているが実はそうでもないところがたしかにある。それは特に料理の世界を見るとよくわかる。料理の世界はいつも若々しい。またそういう新奇な料理を好む人が多いのも事実である。ひょっとして外国から来る観光客たちは日本の料理を食べに来ているのかもしれない。日本の食文化を考える時にそれが工業化企業化していってもそのビジネスとしての合理性や効率性に吞み込まれることはなくて常に新しい食べ物を創りだしてくる。こういうことにはある種の普遍性があるのだろうか。日本人が受け入れた食べ物たちは世界のだれにでも受け入れられる?日本には各地にそれぞれの食文化がある。それらは互いを排除することなくたがいに影響を与え合って独自性を保ちながら進化していく。もともと人間は驚くほど雑食性なのでそういうことは当然なのかもしれない。料理というのは単に食べるということを越えて何か別の機能を持っているのだろうか。料理は自分から考えて造りだすようなものではない。その場所やどんな季節であるかによって材料は決まってしまうし料理道具の種類がいくつあるかや食器のバラエティによっても限られてしまう。作るひとの食べる人の文化的深みなどによっても限られている。そうした条件の中ではいつも何か発見を求めていてそれがうまくいったら料理は成功する。たとえ一人で自分だけのために料理を作るのでも料理はそれだけで完結した自律した行為ではない。たぶん心のどこかに意識に上ることはないにしても誰かのことも考えているのだ。そういう意味では料理はコミニュケーションを創りだしているのかもしれない。たった一人でインスタント食品を食べるにしてもそこにはある種の想像上のコミュニケーションがあるのかもしれない。焼きそばを食うにしてもそれがペヤングソース焼きそばなのか一平ちゃんなのかUFO焼きそばなのかでたぶん違うのだろう。集団的想像力が発動しているある種の行為なのだ。
日本は工業製品で世界のトップを走っていた。それが凋落してずいぶんと時が経つ。なぜ日本はこんなことになったのだろう。それは日本の料理を考えると理由がわかるかもしれない。機能的にはたいして変わらないのだけれどイメージとしてはまったく違うことがある。インスタント焼きそばを考えるとそれは機能を落としているのだけれどその代わりになぜかそこには魅力がある。おかしな感じだけどもわかることだ。
機能を離れて考えると家電製品は生活をよりよいものにする、つまり生活をデザインしているわけだ。日本の料理文化を考えたとき日本の家電製品がそれと違ったところがあるならそれは何だろう。家電製品をジャンル分けしてそれぞれについて考えたときに、例えば洗濯機や冷蔵庫を思い浮かべる時にインスタント焼きそばを思い浮かべたときに比べて何が違うのだろうか。
洗濯機はウキウキあまりしない。ないと困るがあればいいだけならばウキウキ感とはあまり連動しないよね。ウキウキ感が何か機能に追い抜かれてしまったという感じなのかな。変なことだけどウキウキ感というのは劣っている機能を補って余りある何かがあるときに発動するのかもしれない。つまりその存在が醸し出す想像させる何かが機能の先を行ってるということかもしれない。あなたはインスタント焼きそばが好きだとして(そうに決まってるでしょう)インスタント焼きそばはあなたが好きな中華料理屋のお気に入りの焼きそばより劣ってはいるが想像力の点では結構互角の勝負をしているのだ。革新的な料理人の作り出す料理はインスタント焼きそばのウキウキ感と本物のもつゴージャス感を体現しているだろうと期待されている。それはある特別な経験を提供しているのではあるけれどそれ以上によりもっと違うより開かれたコミュニケーションに参加している実感を約束しているのだろう。料理は閉じた世界ではない。カレーライスはカレーライスでラーメンはラーメンの世界にとどまっているのではなくどこかでつながっているのである。カレーライスの料理人はラーメンに感動したらそれをどうやってカレーライスにできることで応えるかを考えている。それは難しいことかもしれないが世界をほんのちょっと広げることができる。インスタント焼きそばがつくられたことで世界はたしかにひろがった。
天才的な音楽家は自分だけのために楽器を演奏することがある。しかしその音楽家はたぶんあらゆる存在のために演奏しているような気分なのだ。料理人も同じで目の前のお客のために料理を出しているけれどその料理はお客の向こうに存在するあらゆる生きている存在にも向けられている。
さて、家電製品にもどるともう機能は出尽くしているように見えるが革新的なイノベーションはもう無理なのか。洗濯機や冷蔵庫は時間や労力を最小化することに向っている。それは同時にウキウキ感なんて無駄なのでいらないことにもなる。こういう具合に考えていくと家電製品のようなものたちは、ひとが生活することから、その生きていること自体から無駄を省いていき行為を最小化するためのサポートの機能があればいいことだけになっていく。ある意味ではそれは効率的な労働そのものみたいになってしまう。となると生きていることそのものと労働の区別がなくなってしまう。もしそれでいいのだとしたら家電製品のイノベーションは家電製品の範囲を超えて家電製品を使う人間にまで広がって人間のイノベーションになってしまう。そうなったら意識のないハイスペックのサイボーグというかむしろゾンビになってしまいそうだ。こういう存在に対応する料理というものはあるとしたらどういうものなんだろう。インスタント焼きそばの進化形ならありそうな感じもする。そうならゾンビかサイボーグか何だか知らないけれどそれはやはりウキウキするのだろうか。ウキウキする気もするがそれはこのインスタント焼きそば進化形を食する時だけウキウキするのかもしれないなんて思う。
家電製品はウキウキする体験を提供するものであるならば果たしてどういうものになるのだろうか。洗濯することは楽しいとは言えないかもしれないが独特の癒しがあることはたしかだと思う。洗濯はエントロピーを外部に捨て去ることだが単にそれだけに終わらないことが求められている。地球のためになにかしなくちゃなんて思うこともあるだろう。おそらくそれはある種の美的な体験を求めている。完全自動ではないけれど独特な機能のある洗濯機を考えられるだろうか。むしろ労力がいくらかかかったりしてもよい。洗濯物を干す洗濯物を取り込むなんてことはいつまでもあった方がいい気がする。そうでしょう。完全な自動化で生活がデザインされるなら生活は何か大きなシステムに吞み込まれて消えてしまうだろう。このとき何が必要かというと生活に必ずついてくるおそらく摩擦のようなものが考えられる。摩擦を利用して自分で自由に走ることができる。クルマの運転の楽しさは自分で自由に好きなようにコントロールすることだ。摩擦のようなものがあると面白いのだ。そうならそこがイノベーションのあるところだ。
完全自動ということを起こりうることにいかに対処するかということで考えるとそれはある種のコミュニケーションができるということになる。完全自動の洗濯機のボタンを気まぐれに押すとなんか話してくる。会話することができればいい暇つぶしになるかもしれない。まぁそういうのではなくて、機能が制限されて使いにくさが逆に別の用途に使えるなんてことを考えるとか。まるで子供のおもちゃだな。単にただのものではなく何か違う関係性が試せるようなことがあった方がいい。まるでなんだかわかんなくなった。
日本ではイノベーションはなくなってしまったという感じもあるがどっこい料理の世界ではそうでもなさそうだ。マシンの世界ではイノベーションはこれから来るらしいがまだどういうものなんだか見当もつかない。このごろよく料理人になりたいなんてことを言う若い人がいるようだ。もちろん勝者のイメージのエンジニアになりたいという人もいる。しかしなぜか似たような感じがあるような気がしてしょうがない。エンジニアはそこにあるものから気の利いたひとさらの料理みたいなものを作って見せるひと、料理人は道具や食材を設計してエンジニアリングして革新的なものを見せてくれるひと。料理は人類始まって以来のむかしからあったエンジニアリングかもしれない。それなら人類始まって以来からある様々なものをあつめてやれることを考えていくことになるのだろう。それがイノベーションならもうそれは創造的破壊とは別な感触のあるものになるのかもしれない。料理にはどこかそんな感じがある気がしてとても面白い。