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あんのこと

今日は子供たちを旦那に任せて、仕事帰りに映画を観てきた。
少し前にネットの海を流れてきて目に留まった映画「あんのこと」

今日観た、聞いた、感じたことを忘れたくないから
自分に向けた感想の記録


・・・

映画を観始めて、喉の奥がぎゅ~と狭くなって、何か冷たく不穏なものがせりあがってくる思いをしたのは初めてのことだった。
母親からの虐待、その親に強制される売春、悪い大人に誘われたドラッグ、抜け出せない貧困。
これでもかってくらいに過酷な環境を生き抜いてきた「あん」
でも、それは決して他人事ではなく自分事だったかもしれない。

家の外で起きていることを自分と地続きで考えてしまう傾向がある私。

虐待を親から受ける子供。
子供に虐待をしてしまう親。
貧困・孤独から犯罪に手を染める大人。
貧困・孤独ゆえに巻き込まれる子供。

もっと複雑な事情が絡んでいて、事態はこんな一言で単純に表せられるようなことばかりじゃないと思うけど。

もしかしたら、私もいずれかの環境に身を置いていたかもしれない。
そう考えると、「あん」のことを放っておけなかった。
だって、そうでしょう?
どこで人生変わるかなんてわからない。
たまたま今生は恵まれているだけで、もしかしたら「私」は「あん」だったかもしれない。
実の親が幼い私に虐待をふるい、売春を強いるような酷い母親だったかもしれない。
「あちら側」と「こちら側」なんて境界線はとても曖昧で
どこかで交わることだってないとは言い切れない。

だからこそ、不条理な世の中で夢半ばで散ってしまった彼女のことを思うと
一人でも多く「あん」の生きた証を知っておかなければと思った。

・・・

深い闇の中をもがいて、もがいて、抜け出せず苦しんで、抜けつつある先で見えた細くも確かにそこにあった希望。
「あん」がいろいろな人とつながることができて
きっとはじめて「生きたい」と思えたであろう場面はとても
力強く、温かく、本当に一歩前に進み始めたんだなって思って
私までうれしくなった。
困ったら手を差し伸べてくれる人ができた。
今までなら買わずに、万引きしてしまうような代物(日記帳)を
初任給で買い気持ち新たに、何気ない日々のあれこれを記すことの楽しみを知れた。
実家に残してきた足の不自由な祖母の介護ができるようにと
介護施設で働くことを強く希望して、理解のある所長の下で改めて働けることになった。
施設入居者とも心を通わせやりがいを見出し、小学生の途中から不登校になり義務教育半ばで終わっていた勉強も夜間学校に通いながら学ぶ楽しさを知り、当時の同級生とは囲えなかった給食も、友達の他愛のない会話もぜーんぶ「生き直し」をして。

おもわず「よくここまで頑張ってきたね!」と自席で小さく拍手をしてしまった。
これからはどうか誰かに足を引っ張られることなく、悲しい思いもたくさんせず、自分を愛して生きてほしいとおもった。

・・・

だからこそ、「あん」が迎える最期が悲しくて、むなしくて、いたたまれない。
ひょんなことからシェルターの隣人から預かることになった男の子。
たぶん二歳くらいなのかな?

あんな小さな子供を知らない隣人に預けた母親、気ぃ狂ってんな・・と思ったけど、きっとあの出来事があったから失意の中にあった「あん」はもう一度、救われたんじゃないかな。
誰かに必要とされる喜び。
愛しさに触れる喜び。
誰かを愛す喜び。

きっと「あん」自身もこんな感情があったなんてと驚いたんじゃないかと思う。

そんな中で最後の希望も奪われて、コロナ禍にあの多田羅の事件もあり、誰かにつながることも頼ることもできなくて。
ここまでギリギリ繋ぎ止めていたものが、するすると手を抜けていく感覚は本当に怖かったと思うし観ているこっちも苦しかった。

ずっと辞めていたドラッグにふたたび手を付けて、意識が朦朧とするなか大事にしていた日記帳を燃やしたのはきっと、積み重ねてきた日々を台無しにされた、台無しにした自分や世の中に対する怒りや悲しみで。
ハヤトのことを考え作ってきた慣れない料理の中での気付きをひたすら留めたページだけはと引き千切り、それを大事そうに手に持ちながら、外ではコロナ禍の人々を奮い立たせるブルーインパルスが飛んでいて、そんな空を力なく仰いだ姿も。
そして、そのページを遺していった想いも。
どれもがやるせない。

・・・

今、思い出しても胸のあたりがずんっと重く感じる。
どこで間違えてなければ「あん」は生きられたんだろう。
そんな堂々巡りを映画を観終えてもしていた。
いくら考えても、わからない・・。
でも、この映画を通して言えることは
ほんの少し気を外に向けて、知ること・想像することだけでも
今、苦しんでいる誰かの支えにつながるかもしれないということだと思ってる。

「自己責任」なんて言葉が市民権を得ちゃって
いわゆる「普通」に生きられない人の生き方自体が
アウト!と責められる雰囲気がある世の中だけどさ
助けてと声を上げることすら難しい人を相手に
手を差し伸べるどころか、蹴りつけて
「お前の処遇なんぞ知るか。関係ねえよ。努力すれば何とかなんだろ。」なんて言える世の中なんてやっぱ、おかしいよね。

だってそんな言葉をかけられるのは、だれでもなく「私たち」だったかもしれないのだし。

知ろうとすることをやめないで。
もっとよく見よう。

自分とは関係ないからと分けて考えるのでなく
もし自分だったらと思いを馳せよう。

誰かのためにできることは、きっとあるはず。


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