無駄な努力って、捨てちゃダメですか?

そろそろ真剣に考えていこう!働き方に対する「変わっていこうよ」8選
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頑張らなくて良いですか?

ほぼ全面的に同意なのだけれど、最後の方に行くにつれ、どうしても気になることが。
「頑張るか頑張らないか」が精神面の評価軸になっていること。
ちょっと言い換えると
「頑張ってるけど結果が出せなかった人」と「頑張らなくても結果が出せた人」とでは、どちらをどう評価するか、という話。
どうも「頑張る」という物凄くフォーカスが甘く、それでいて精神面のみに訴えてくる単語に、皆さん弱すぎるんじゃないかな、という気がしている。「努力」とはまた違うニュアンスを感じるんですよね。
これ小学生の時からずっと思ってるんですが、どう表現したら伝わるのかがわからず。

よくある二次元の評価軸

とりあえず横軸が「結果が出た or 出なかった」縦軸が「頑張った or 頑張らなかった」として整理するとこんなイメージ。


ほとんどの方は1の人を称賛し、2の人を励まし、3の人を妬み、4の人を蔑むのではないでしょうか。
でもこれ、コストパフォーマンスの観点から見た場合、おかしいと思うんですよね。単純にコストだけで言えば、「頑張った」方がコストが掛かっているから、コストパフォーマンスだけで言えば3.がベストで2.が一番効率悪いことになり、1.と4.は等価、ということになる。
そして、こうした見方を表明した途端に、「冷淡」「結果しか見ていない」「もっと頑張っている人を見てあげて」という、これまた精神的評価に訴える話が出てくる。

そういう話をしているんじゃないんですけどねぇ。

全体最適化の観点では

頑張らなくても結果が出せる人は、言い換えれば余裕があるわけですから、さらに上の結果を目指す、他の事も出来る、という意味と捉えられませんか。そしてそれは、妬みや僻みの対象ではなく、人類全体の可能性が広がることに繋がりませんか。

恐らくそうならない根源は、個々の才能や向き不向きを考慮せず、一律で同じ成果を、それもほぼ誰でも出せそうな成果までを求め、殆どの人が出来、さらにそれを「頑張ったね」という過程も加味することで大多数を最も評価できるようにする、という、通知表で言えば5段階評価で「オール3」の人が最も褒められ、「オール4」は秀才として崇められる評価制度となっているからではないでしょうか。

しかし現実には、リンク先でのレジ係の例が良い例えであるように、求められる機能・性能・能力というのは必ずしも全方位である必要はないように思います。むしろその求められている特定の能力が高い方が、他の部分を違う視点で比べた場合にもし劣っている点があったとしても、実際には何ら問題ないのでは、と思うのです。そこを「皆そうしているから」「私たちもやってきたから」という理由で求めたり、それをも基準に入れてしまうこと、或いはその「本来求められていない事」の可否をフィルターに用いてしまうことは、非効率どころか社会、ひいては文明全体の発展を妨げることにすらなるのでは、と思うのです。

努力を否定する話ではありませんし、効率至上主義というわけでもありません。ただ、精神的評価をバイアスとして結果として評価が歪められたり、本来不要な評価軸によって不当な制限を加えられることは、決して良いことではないのではと思うのです。

つまるところダイバーシティなのでは

今後の超高齢化社会を迎えるにあたり、全員が「昔はこうだった」「皆そうしてきた」と言い始めたら…
横並びでノー残業デーやプレミアムフライデーを実施して、結局その後も同じ面子での飲み会に付き合わされる、という「成果が出ない残業に付き合う」矛盾、そんなことをするよりも、個々の能力を鑑みた小まめな個別ケアと適材適所、そして求められる能力以外の面における多様性の受容(或いは非評価化と言い換えても良いでしょう)、そうした対応こそ、これから求められるのでは、と思います。

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