地方の高校生がベーマガで連載を持つまで
ベーマガとの出会い
以前こんなツイートをしました。
今回は記録として、このスレッドを改めて文章としてまとめてみました。
既に該当スレッドをお読みいただいている方にとっては既読となる部分も多い内容ですが、ご笑覧頂ければ幸いです。
私とベーマガ(簡単な自己紹介)
私とベーマガ/マイコンソフトとの関わりは、マイコンソフトからFM-7へのゲームの移植を一本と、ベーマガにて3年ちょっとの間に連載を一本持たせて頂いたのみでした。
ですので、五反田の電波新聞社へは、その連載原稿の提出と編集手伝いのために月に1度編集部へ寄るくらいの存在が薄いライターでしたし、ベーマガ編集部やマイコンソフトの深い話などはあまり記憶にありません。そちらについては、私より圧倒的に知名度が高い方が既にあちこちで話されていますので、そうした皆様の発信をご参照頂けると幸いです。
ベーマガ創刊当時の時代背景
それまでラジオの製作(通称『ラ製』)の付録だったベーマガこと『マイコンBASICマガジン』が単体の雑誌として発売されたのは1982年7月号。1982年6月10日。当時は300円でした。もちろん消費税なんてものはありません。
また、雑誌のご多聞に漏れずパソコン関連の広告が沢山入っていましたが、それらもコンテンツのひとつと見做された時代でした。
当時はインベーダーブーム(1979)から続く流れで、家庭用では任天堂から発売されたゲーム&ウォッチ(1980~1981)や各種LCD/FL表示のゲーム機が主流でしたが、それらは1個の個体で1種類のゲームが基本。そんな中、価格が高いとはいえ1台で色々なゲームが遊べる「マイコン」は、「電子ブロック」を超える羨望のホビーでした。
しかもプログラミングというものを覚えれば誰でもゲームを「作れる」という、想像力豊かな子供にとっては憧れしかない機械でした。価格と難しそうな内容にさえ抵抗がなければ。子供にとっては親や周りをどう巻き込むかがツボでしたね。
ただ、とはいえやはり10万円オーバーの「コンピュータ」です。
「高いオモチャ」なので子供には高値の花。まして電気屋の店頭に置いてあっても謎の文字の羅列かメーカー謹製のデモ画面が出ているだけで、興味がない人には全くピンと来ない代物だったと思います。それが当時の8bitマイコン。
8bitマイコンとBASIC言語
この、当時の8bitマイコンには、もうひとつ大きな特徴がありました。それは、その頃出ていた機種の殆どが、電源を入れればすぐにBASICというプログラミング言語を使用できたのです。しかもそのBASICというのは、数個の命令を覚えて10行も入れればちょっとした文字を動かすプログラムくらいすぐ作れた。ちょっと触って何か結果が出てくる不思議な箱。これは響きました。
そして、NHKの「マイコン入門」というテレビ講座が、ベーマガ創刊の直前となる1982年の4~9月に開始されます。当時のマイコンはTK-80やMZ40/80Kといった組み立てキットから一歩踏み出してPC8001やBASICマスターなど、完成品で最初からBASICが動く環境を各社揃えてきた、まさにBASIC最盛期というタイミング。そしてNHKのマイコン入門も、内容としてはまさに「BASIC講座」といったものでした。
当時の8bit機は中身はCPUもさることながら、グラフィックもサウンド機能も相当プアなので、今からは想像もできないほどシンプルなゲームしか作成できませんでした。それでもオール機械語で頑張れば、実はCPUに限れば大差がなかったゲームセンターに置いてある数々のゲーム…スペースインベーダーやギャラクシアンなどを「模したゲーム」を作ることは無理ではありませんでした。
※月刊I/Oのダンプリストなどは名物でした。
しかし、機械語でゲームをフルセットで作るのは敷居が高く、ホビーの難易度としてはかなり上位に属するもの。それこそ、ゲーム一本のために何ページにもわたる数字の羅列を入力する必要があったりするのです。
ところが、BASIC言語であれば、何をどう処理しているかがかなりわかりやすく、また分量的にもA4で1~2ページほどの内容で充分に遊べるゲームが一本作れたものでした。
そしてその「1~2ページ程度のBASIC言語で書かれたゲーム」が沢山、色々な機種別に向けて掲載されている雑誌が300円で買える。これはエポックメイキングでした。
ベーマガの立ち位置
300円でベーマガ買って、マイコンを置いてあるような電気屋やデパート、ショールームに行って、ガッとプログラムを入力する。動く。感動。
最初のうちは初めて触るキーボードの文字配列に戸惑ったりそもそも編集の方法もわからないので、10分も触っても4~5行しか入れられなくて何もできなくて終わるけれど、それでもFORループで足し算した結果を出すとか、LINE文で画面に沢山線を引くとかくらい出来るようになる。
慣れてくるとベーマガに載っていたゲーム一本を10分もあれば入力できるようになってくる。
ただ、店頭で一つの機種を10分占拠するのはかなり難易度が高いし嫌がられるから、ショールームの横で500円で1時間貸してくれる、みたいなサービスを始めるショップも出始めた。
ベーマガのプログラムを入れてそれを遊ぶだけならすぐ飽きるので、そのうちプログラムを改造したり、自分でオリジナルを作りたくなってくる。で、体よく親や親せきを巻き込んだりお年玉を貯めてマイコン本体を買う。この頃には10万円以下の機種も増えてきていた。
当時、経緯やどこまで実現できたかはさておき、そんな小中学生は沢山いたと思います。
ゲームとマイコンの大衆化の流れ
私もそんな中学生の一人でした。
と同時に、やっぱりその頃の「マイコン少年」のモチベーションって「ゲームやる事」なんですよ。世の中の役に立つとかビジネスが、なんて、そんなことには1bitたりとも興味ない。想像もできない。ただただゲーセンに行くと怒られるしお金かかるけど家でゲームが出来るし作れる。それがモチベーションの全てでした。
そんな背景なので、83年くらいになってくると、プログラミング派とプレイ専門派に分かれてくる。そういえば、ゲームセンターあらしのTVアニメも丁度1982年の4~9月。
その後、ゲームセンターあらしのすがやみつる先生は、あの伝説のマイコンマンガ「こんにちはマイコン」を出版されます。
恐らくこの82~83年がプログラミング派とプレイ派の分岐点だったのでしょうね。ベーマガでもゲーム紹介の記事が増えてくる頃です。
そして1983年の秋、ついにスーパーソフトマガジンという形でベーマガに付録が付き始める。最初はマッピーの表紙だったかな。その後、ゼビウス16面攻略といった特集もありました。そしてスーパーソフトマガジンだけ抜き取られる万引きまで発生し始める。これは悲しかった。
初代ファミコンが発売されたのもこの頃。もはや殆どの人にとって「ゲームは遊ぶもの」であって「作る側」の人は極少数派。遊ぶ側の期待の上昇と共に作る側もテクニックの高度化が進む。BASICじゃ全然ダメで機械語必須。おまけに、ハードウェアを知り尽くしてI/Oポート叩いてナンボの世界。
それでもやはり、「遊ぶだけの大衆」の中から「自分も作ってみたいな」と思う人は一定数出てくるわけで、初心者需要もしっかりあった。はるみのゲームライブラリー、ワンライナーでゲームを作る、みたいなライトなものも一定数の人気はあったしベーマガもBASICを掲載し続けていた。
ところで、「マイコン」の「プログラムを作って売る側」の人たちはBASICでゲームを作ってそれを収めたテープを販売するというビジネスを1980年くらいからしていたわけだけど、こちらもアーケードの移植が人気を得るようになってくる。
と同時に、最初は小学生くらいだった「遊ぶより作る方が楽しい」に目覚めた子はメキメキ腕を上げて大人顔負けのプログラミングスキルを得た子もそこそこ居たはず。初期は廣済堂の「月刊RAM」や工学社の「月刊I/O」などがそうした上級者の受け皿になっていたと思う。
ベーマガ編集部への電凸
さてそろそろベーマガの話に。経緯は覚えていないのだけど、何かの拍子で編集部に無邪気に電話したんですよ。夏休みに遊びに行っていいですか?くらいのノリで。地方の高校一年生が。図々しさここに極まる、ですね。
自作の、自慢のBASICで書いたプログラムを沢山フロッピィディスクに入れて。
今考えると、編集部も、よくそんな電話を取ってくれたり引き継いでくれたりしたなぁと思うし、編集長も快く迎え入れてくれたのがビックリ。でもそんな中高生、当時は私だけじゃなくて他に数十人くらいいたそうですよ。すごいな。
こんにちはベーマガ編集部、こんにちはマイコンソフト
初めて五反田の電波ビルへ行って、受付を済ませてエレベーターで7Fへ。そこは、フロアの手前、桜田通りに面した側の半分くらいが、昭和のいかにもな雑誌の編集部っぽい机が並んだスペース。その奥にP6やらX1やらとプリンタが沢山並んだスペース。その光景は圧巻でした。
そんな感じで7Fに着いたら、眼鏡を掛けた好青年ぽいネクタイ姿の方が。
編さんです!おおおおおおお!
人生で初めて名詞もらったのがこの瞬間、編さんの名刺でした。もちろん「編さん」ではなくご本人の本名です。今考えると凄くおおらかで懐広いですよね。そして、編集部の方数名からお話を伺ったり、編さん直々に編集部を色々案内してもらいました。
さてそのプリンタが沢山並んでいる奥。そこにはさらに別室への入り口があって、そこから先がソフト開発室。いわゆる「なにわ部屋」ですね。そこはそれなりの許可がないと入れない場所。明らかに空気も違いました。…が、なぜかその日はあっさり入れてもらえました。
「なにわ部屋」を、なにやら試作のような電子工作ボードを持ったメガネの方が出入りしていて、編さんが手招き。「編集長だよ」と。うぉ! で、挨拶したら「こっちも見ていく?」とあっさり入れてくれたのでした。信じられなかったです。
これが編集長との初対面。ご丁寧に名刺も頂きました。その時の肩書は課長さん。そして編集長。うぉぉぉぉ。そして、持っていた基板は後に発売されるXO-01の試作基板でした。うぉおおおお。
ところで、その部屋の真ん中でなにやらミニコンみたいなPCに向かっている方が。えっ、まさか?
そのまさか、なにわさんでした。もう、鼻血出そうでした。めっちゃフランクでしたね。同じく名詞頂きました。軽いノリで無邪気に訪問したら編さん、編集長、なにわさんからお名刺頂くですよ。今ではちょっとあり得ないんじゃないですかね。
その日は、当時まだ開発中だったP6版の某移植作の経過報告みたいな感じで、作者の方が開発室へソフトを持ち込んでいらして、なにわさんとチェックされているタイミングでした。あー、なんかお仕事でゲーム作る現場って、こんな感じか…と震えが止まらない感じ。ひと夏の超絶社会見学。
一緒にP6の速度に関する苦労話を聞く。で、当時マシン語覚えたてで割と天狗になってた自分はすかさず「FM-7ならこうすれば…」的にマウント取りにいっちゃう。クソ生意気ですね。そして持参したFDを無邪気に開発室のFM7へ突っ込んで自作ゲーム披露。なにわさんの目の前で。
BASICとハンドアセンブルで作った、本人的にはそこそこの自信作。プログラムどうなってるか、どこを工夫したか、とかの話を延々と「俺のターン」ばりにイキる私を、あしらうでもなく真摯に耳を傾けてくださいました。あのなにわさんと編集長が。なんか凄い光景。
そして、「ハンドアセンブル大変でしょ」とか「VRAMプレーン落とせば確かに速くなるよね」とか対等に話して頂いたりアドバイスまで頂いたり。今だとリーナスさんあたりにペアプロでレビューしてもらってるくらいの感覚?
後日知ったのですが、その時たまたま見せてもらった開発中のP6の移植作も、その大学生の方の持ち込みだったそうなんですよね。今になって思えば、だからあっさりと見せてくれたのかもです。そして恐らく同じ光景がそれまでにもあの部屋で何度もあったのかもしれません。
ハンドアセンブルの手間やら延々とイキる私に、なにわさんが「〇〇〇って使ったことある?」とか、編集長が「Pコンパイラ使ってみれば?」とか。なんですかこのガチ神のマジ神アドバイス。そしてお土産に、なんとそのPコンパイラのカタログまで頂きました。もう鼻血とまらん。
バトルシティ作るぞ
東京から戻った後、さっそくPコンパイラをチェックしつつ、当時ファミコンでハマっていたバトルシティをBASICとハンドアセンブルで雛形を作って送りました。バトルシティならまだ誰も手を付けていないから採用されるんじゃないかな?と期待を込めて。X1版/MZ1500版が発売されるとはつゆ知らず。
そうしたら後日、なんとPコンパイラのサンプル(といってもちゃんと使えるフルスペック版)と、MZ1500版のバトルシティの、YMCATさんによる手書きの資料のコピーがまとめて送られてきました。嘘でしょ?そりゃもう作りますよね。これが私がFM7版バトルシティを作ることになったきっかけ。
そして、授業中はひたすらドット絵のデータ起こしとハンドアセンブル、帰宅したらすぐにプログラミング、という日々で、ベースは1ヶ月くらいで、細かい処も含めて2ヵ月ほどで、さらに画面エディタなどのツールも作って、ファミコン版の35面はもちろん、先行していたX1版の40面やMZ1500版の84面をも超える100面収録!を目標に一気に作りました。
※結局は99面にとどまりましたが、それでも最多面数は維持できました。
実はこの99面収録のせいで発売直前に色々あったのですが、無事にナムコさんからの許諾も通り、1986年の11月に店頭へ並びます。
FM-7版バトルシティの開発については、また別の機会に改めて書こうと思います。
バトルシティFM-7版発売後
恐らく他の方も、そして雑誌の特集なんかも、こうして、地方の中高生の持ち込みも多々あったのではないかと思いますし、実際そうだったという話もいくつか聞きました。又聞きを書くのも失礼なので、私が実際に体験した部分だけを書いてみましたが、やっぱり凄い時代だったな、と。
そしてそこから、ファミコンで発売されたばかりのバトルシティをFM-7版へ移植し、それを無事完成させ、電波新聞社から発売して頂き、更に「Dr.Dのちょっと背伸びのBASIC講座」という連載を書くに至りました。
そちらの経緯はこちらに書いてある通りです。
SNSがある今だからこそ
今はハードウェア・ソフトウェア共に環境が驚異的に良くなったし、プログラミングの敷居もずっと低くなり、個人が発信する場もGitHubやSNSなど沢山あります。本当に良い環境になりましたね。でも、消費する側とそれを作る側の割合は実はそんなに変わっていないのかな?と思ったりします。
もしかしたら、それで良いのかもしれません。
ただ、プログラミングというのはなにも特殊な人だけに認められた特殊技能でもなんでもありません。それこそ小学生でも気軽に始められますし、80歳を迎えて初めてアプリ開発を始められた方もいらっしゃいます。
また、社会の隅々の色々なところにデジタルの波が浸透している現在、ビジネス利用されるシステムの開発というと、それは勿論慎重に丁寧に設計・開発・運用する必要がありますし、そこに注力したからこそ社会が発展してきた面も大きいでしょう。恐らくこの40年の最大の進化だと思います。
もはやインターネットにつながったデジタル機器に触れるのは当たり前になっている昨今。生まれて最初に触ったオモチャがiPad、なんてお子様も沢山いらっしゃることかと思います。これって凄いことですよね。でもその世代によっては、取り立てて騒ぐでもなく当たり前のこと。
そんな今だからこそ、「プログラムってエンジニアの人とかがやることでしょ?」的に見たりせず、ちょっとしたきっかけで良いからお気軽に、多くの人に触れて欲しいなと思います。
ベーマガ50周年を迎えるころには
少なくとも40年前、そのプログラマー人口の裾野を広げるのに多大な影響を与えてくれた雑誌が生まれました。
今から10年後、ベーマガ50周年の頃には、プログラミングが世の中でどのように捉えられているのか、楽しみでもあります。そして、その頃にバリバリと活躍しているであろう方に、プログラミングに興味を持ったきっかけを聞いてみたいですね。
純粋に「職業のため」「稼ぐため」という答えも多いかもしれません。でも、そうしたことが言える環境が出来たのも一つの文化発展の成果ですし、否定はしません。
ただ、「〇〇〇を作ってみたかったから」という声が消えることは無いと信じています。やってみると楽しいですよ。
あまりベーマガと関係ないことばかりつらつらと書いちゃいましたが、関係者の皆様、本当にありがとうございました。コロナ過も明けますし、そろそろお会いしたいですね。私の駄文はこの辺りまでで。
いずれ、どこかでお会いしましょう。
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