#118 市場に出るとモラルは低下する
価値とは誰が決めるものでしょうか。
多くの場合、それは市場の原理が正常に働き決まります。多くの人が価値があると思えば、それは高価になりますし、多くの人が価値がないと思えば、それは価値は下がります。
しかし、全てのものが市場の原理で判断して良いのでしょうか?
例えば、あなたの価値はあなたが自身が決めるもので、市場に決められるものではないと思います。
前者と後者では何が違うのでしょう。
一つの定義として、「前者はもので、後者はものではない」としましょう。
ものは、市場の原理によって価値が決められても問題はありませんが、人の価値は誰かに査定されるべきではないように思えます。多面的な情報で構成された個々人は、一様に簡素に評価などできるわけないからです。
しかし、現実はどうでしょうか?
先日、北海道で観光船が沈没し多くの人の命が失われました。
その際、観光船を経営する社長は「一人、1億を上限として補償できるので問題ありません」とコメントされていました。
観光船に乗船していた人たちは、それからの人生を生きる権利を失いました。それに対して、一人1億円の賠償は適正なのでしょうか。
もっとも、この1億円は故人が受け取ることはできないので、故人にとって金額の多寡になんの価値もありません。
経営者側からすれば、謝罪の方法は、口頭、文章以外に、損害賠償というかたちでしか具現化できないので仕方ありません。
しかし、人であっても市場の取引の対象になる場合、少なからず自分以外の評価によって金額をつけられてしまいます。
もっと言えば、市場という広域な表現ではなく、お金という狭い干渉領域にさらされると、もの以外も他者評価に価値が決まります。
もの以外とは、労働そのものや、それに付随する技術、または、人の臓器や命そのものを指します。
例えば、生命保険では「月々**円の掛け金を払えば、死亡時に○○円受け取ることができます」などと具体的な数値になって、命の価格が提示されます。
支払可能額によって受け取れる額が多くなります。
つまり、命の価値が支払額によって高くなるわけです。
しかし厳密には、命の価値が高くなるというよりも、支払額に比例して受給額が多くなるだけなので、価値は変わっていないように思えます。
製薬会社では、日々、新薬の開発のためにネズミの命が利用されます。誰もが、人の命は尊いと否定することはありません。
では、人と動物ではどちらの命が重いのでしょうか。
相当な難問です。
ボン大学のフォーク博士らは、129人の一般人を集め、人々がネズミの命を救う意志がどのくらいあるかを調査しました。
研究施設で不要なネズミを殺すことになりました。
二つの選択肢があります。
選択肢1 10ユーロもらう
選択肢2 その10ユーロをもらわずに寄付すればネズミは継続飼育され、天寿を全うする。
参加者にはネズミが健康であり、平均寿命約2年であることを説明し、ネズミの生態や殺処分の方法などの映像をみせられる。
その結果46%の人が現金をもらうことを選びました。
つまり、これらの人たちにはネズミの命は10ユーロ以下の価値でしかないということです。
さらに、フォーク博士らは、この選択肢に「市場原理」を導入しました。
参加者は便宜上、「売り手」と「買い手」に分かれてもらい、ネズミの命を救うか、各10ユーロずつもらうかという仮想的な「取引」を行う状況を作りました。
すると75%の確率でトレードが成立しました。
先ほどの選択肢状況よりも多くのネズミの命が奪われました。
つまり「市場原理はモラルを低下させる」のです。
この結果を、博士らは「取引現場では複数の人がいるため、それだけで罪悪感が分割される。また、周囲のネズミを犠牲にしているのを見れば、モラルはさらに低下しやすくなる」と分析しました。
そこから「マーケットが存在するという事実自体が、ネズミを犠牲にするという選択があり得るという社会シグナルとなっている」と述べている。
ようは、お金の取引によって命ですら枯葉程度の重みにされてしまうのです。
責任の分担は、痛みの分担でありますが、それ以外に、そのものを直視せずに間接的に視ることが許され、真実から目を背けさせてしまうのでしょう。
「横断歩道、みんなで渡ればこわくない」
この心理は、ときに倫理を無視してしまうということを肝に銘じておきたいものです。
おわり
最後まで読んでいただきありがとうございます。
参考文献「脳はなにげに不公平 池谷裕二著」
Hama-Houseさん画像を使用させていただきました。