#108 ロウレイの雑談
こんにちわ、ロウレイです。
最近、世間を騒がせているロシアのウクライナ侵攻ですが、わたしたち日本といえば、第二次世界大戦に参戦しアメリカに長崎・広島と核爆弾を投下され甚大な被害を受けて敗戦し、1945年8月15日にポツダム宣言に調印し終戦となりました。
戦争を体験したことのない私たち世代以降の人は、経済的に豊かで安全な社会(戦争のない社会)が当たり前と考えます。
しかし、脳解剖医の養老孟司氏が述べていましたが、戦後、日本の教科書はすべて黒く塗られ、それまで受けてきた教育を全否定され、当時教育を受けていた学生は何を信じたらよいか路頭に迷ったそうです。
そのような変革期があり今の日本が成り立っているわけですが、私たちは他国の内戦や戦争をみて、対岸の火事と考えるのではなく、当事者意識を持って他国で起きている戦争を考えたいものです。
というのも、ロシアがウクライナに侵攻してから、今日までにウクライナ市民2000人以上の死者がすでにでています。
そんな中、日本といえば世界の先進国と足並みを揃え経済制裁こそ行っていますが、日本国内では一部の人の反戦デモがあるものの、当たり前の日常が続いています。
この温度差に戦争の惨さを感じえません。
そもそも争いはなぜ起こるのでしょうか。
人類の歴史を遡ると、ある契機があります。
それは、狩猟社会から農耕社会に変化したときからだといわれます。
それまで、狩猟社会では獲物や木の実などの食料がなくなれば、それが豊富な場所を求めて人類は放浪生活を行っていたそうです。
そのため、人類同士で争うことはなかったといいます。人間ひとりでは、屈強な動物と戦うのは難しかったこともあり、人類同士で争っているほど暇ではなかったのでしょう。
その間、大陸の変動などもあり、大陸から切り離された島にいた人類はその島のなかで生き延びれるように進化したといいます。
ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」によれば、「インドネシアの島の一つで、フローレンスという比較的小さな島では、太古の人類は矮小化(小型化)した。学者の間では、ホモ・フローレシエンシスという名で知られるこの特殊な種は、身長が最大で1メートル、体重がせいぜい25キログラムだった」という。
それはさておき、人が争う理由は、大まかに二つあると考える。
ひとつは、富を奪うためで、もう一つは恐怖による回避だ。
人が狩猟生活から農耕生活にシフトしたことで、食べれるときに食べられるだけ食べるから、食べたいときに計画的に食べるに変わった。
そのため、食料を追い求めて長い距離を移動する必要はなくなったが、ひとつの土地に縛られることになった。
雑穀や稲などは長い時間手間をかけてあげなくては収穫することが難しい。毎日、水をやり害虫を駆除し収穫の日を待つ。
しかし、どこにでも楽をして、良い結果だけを求めるものがいる。そのような輩は、自分が時間をかけて農作物を育てるより、誰かが作った農作物を横取りしてしまった方が早いと考える。
または、そのような人たちを強制的に働かせて農作物を作らせようとする。
この結果、農作物によって定住を余儀なくされた人類は、同じ人類とも争わなくてはいけなくなった。
つまり、自身の富を守るために戦うのだ。
また、このような略奪者から富を奪われることを考えれば、作物を育て定住している人びとは恐怖でしかなく、それを回避するには、やはり戦わなくてはいけない。
今回のロシア軍のウクライナ侵攻は、ウクライナのNATOに入られたくないことと、もともとロシアもウクライナもソビエトという国を構成する15の共和国の1つだったことにより、ロシアからすればウクライナもロシアの一部であり、なんとしてもほっておけなかったという側面がある。
ちなみに「NATO」は、もともと東西冷戦時代にソビエトに対抗するために、アメリカなどがつくった軍事同盟です。
つまり、ロシアからすれば、ウクライナの行動はロシアの富を損失させる行為に見えるわけです。
しかし、ウクライナは独立国家なのでロシアの干渉をうける義務はない。
そのため、ロシアよりも西側諸国に親しくなり民主的な国の運営を進めようとした結果、このようなことになったようだ。
もっとマクロに考えれば、人が争わなくて良い社会をつくる方法を考えるべきだ。
その方法はわかっている。
簡単な話だ。それは、金の価値を無くし、希少性を廃止し、所有をなくすことだ。
しかし、それは社会を再構築するのと同義で不可能に近い。
わたしたちは、所有するから争うのだ。持っていれば失いたくないと考える。この強い欲求は損失回避の法則といい、コントロールするのに一苦労する。
もうここにない、数に限りがあるからインセンティブが働くのだ。
例えば、花畑牧場の「生キャラメル」がそうだった。
北海道の一部でしか手に入らない時、日本中で「生キャラメル」が求められた。そこで、田中社長は生産量を増やし、日本中身近なところでも買えるように販売を広げた。
しかし、そのことによりどこでも買える「生キャラメル」となり売り上げは激減した。
ひとは、なくなりそうなものを溜め込む傾向がある。
これは安全・安心につながるからだろう。
しかし、そのことにより社会は歪み、二極化を促す。
お金も同じことがいえる。
本来、お金とは信用または権利にあたる。それを持つことで、それを得るまたはする権利を得る。
だから、お金で何でも買えるというのは一部間違いである。
お金では命は買えない。当然、高価な治療薬を買うことも、高度な治療を受けることも可能だが、死そのものを回避することはできない。
金は人が作ったものだ。
猫に見せても言うことを聞いてくれない。
そんなことは分かりきっている。
つまり、人間のあいだだけに通用する。しかも、貨幣は国の信用がなければ価値がない。日本でモルディブの貨幣をだしても何も買えない。
そんなことはわかっている、だから外貨両替があるのだ。
しかし、そう考えるとお金も随分危ういものだ。
現在、ロシアの通貨ロシア・ルーブルは暴落している。
不当なウクライナ侵攻と民間人の死者数をみれば当然といえる。
そんな、あやふやなものに縛られ、振り回されている人がいる。
濃霧で先が見えないのだろうか。
残念である。
皆、目を覚まして欲しい。
おわり
参考文献「サピエンス全史 ユヴァル・ノア・ハラリ著」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
麻木エマさん画像を使用させていただきました。
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