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#87 小休止(雑談)

こんにちはロウレイです。

毎週、これまで読んだ本などを契機に自身の思う人間に必要な素養になるものをnoteに記事に出しているのですが、ちょっと心が疲労したので、誰も読むことはないかもしれませんが、最近感じていることを書こうと思いました。

わたしは人の心の仕組みを理解することで、自分以外の人の気持ちを理解し、共感することで他者に寄り添い良好な関係を築くことができるのではないかと考えています。

それらを探る過程で心理学に出会い、発達心理学へと興味が変化し、脳研究分野に出会い、同時に兼ねてから触れていた哲学に戻っていきました。

哲学を深堀していく中で、過去の偉人たちがわたしと同じように人の根源に興味を抱き、断片的な人の仕組みを解読し広め、啓蒙していたのだとわかりました。

もっとも、わたしは何も生み出してもおらず、人の仕組みも解読できていないので、ただ同じ方向に向かって歩いているだけではありますが。

まず、西洋哲学者といえばソクラテス、プラトン、アリストテレスが有名ですね。ソクラテスは西洋道徳哲学(倫理学)の伝統における最初期の道徳哲学(倫理学)者の1人といわれています。

そんな四賢者ソクラテスの最後は、プラトンの著作『パイドン』に、紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わしてドクニンジンの杯をあおり、死に臨んだと書いてあります。本当はどうなのでしょうか。

ただソクラテスは社会にいる賢者に論戦を挑み論破することで、自身の賢者ぶりをアピール(確認)すると同時に、その相手を社会的に落とし込んで(イメージダウン)しまったようです。

そのため多くの敵を作ることとなり、最後は無罪の罪により毒死に至ったわけですが、本当に賢者なのであれば相手の立場に立ち慮ることで双方に被害のない最適解があったように思えます。

また、ソクラテスは弟子や友人に、
「とにかく結婚したまえ、良妻を得れば幸せになれるし、悪妻を得れば私のように哲学者になれる。そしてそれは誰にとってもいいことなのだ」
と結婚をすすめています。

ソクラテスの妻クサンティッペは悪妻だといわれています。

日々悪妻の困難な要求を受け入れ解決し良好な夫婦関係を継続するには相当な努力と工夫と胆力が必要となります。

しかし、旦那がろくに働きもせず毎日毎日、道行く人や、社会の知識者に哲学問答を繰り返しているのをみれば、普通の妻は誰でも悪態をつきたくなるのではないでしょうか。

ソクラテスの側から見れば悪妻ですが、妻から見ればソクラテスが悪旦那なわけで、それを棚に上げた言い回しはどうなのでしょか。

このように偉人は何かを後世に残していることは間違いありませんが、その人が本当の意味で聖人だったかどうかは別なのではないかと感じます。

それでも、弟子や友人に言ったことですから、どっちに転んでも結婚はいいもんだよと解釈することが正しいようにも思えます。

過去にもどり、本人に聞いたら

「これは、哲学的なジョークだよ。なに真に受けているんだい。君はジョークも分からないほど無能なのかい」

と言われそうです。

そんな西洋哲学者よりも、東洋哲学者である孔子の方が共感と親近感を持ちます。同じアジアの血が流れているからでしょうか。そのように考えていましたが、どうやらその理由は文化にもあるように思えます(そもそも、哲学にもいろいろな種類がありますが)。

ユダヤ教のように、厳しい環境の中で生まれた宗教は、砂漠の宗教とよばれ、神は与えるものではなく、規律を侵すものから奪う存在として崇められてきました。

ユダヤ教から生まれたキリスト教もイスラム教も砂漠の宗教で、規律が厳しい。神はひとりしかおらず、唯一無二の存在です。

それにたいして、豊かな土地で生まれた宗教は森の宗教と呼ばれ、多神教です。ギリシャ神話でいえば12の星座それぞれが神として存在していますよね。これは、日本の八百万の神々と近い考え方です。

日本も豊かな自然環境をゆうしているので、過去日本で生まれた宗教は森の宗教だったのでしょう。

それはさておき、西洋でメジャーな神がひとりでなくてはならない以上、もし他に神がいれば排他的にならざるをえないわけです。そのため、拡大解釈から、原理主義が生まれた背景は容易に想像がつきます。

日本人で「山の神が○○だっていってるんだ」と言われれば、「水の神は○○といって違うといってるよ」となり、信仰している者同士が排他的な行動に出なくてもことが収まるかもしれません。

しかし、原理主義では「神は○○といっている」と言い、「水の神は○○といって違うといってるよ」といえば、「うるさい、異教徒め!」と排他的な行動に出なくてはなりません(論理の矛盾が発生してしまうため)。

良くも悪くも、『余白』がないように思えます。

過酷な環境下では「絶対的な安心」が人を助けることになります。このように振舞えば、間違いなく幸福になれると諭してくれます。しかし余白があれば、「もしかしたら、そのようにならないかもしれない」と幸福ではない未来も想像しなくてはなりません。

そう考えると『余白』がないことが理解できますが、70億人の世界の人口の全てを同じ思想に統一することは困難なことが容易にわかります。

互いに尊重し『余白』である許容をもうけなくては、心がもちません。

そこで、一見無駄とも思える『余白』こそが必要不可欠なもののように思えます。

書道家の書や、絵画などは構図もさることながら『余白』のバランスが絶妙だと感じます。

話はそれますがF1のハンドルには、一般に公道に走る自動車と比べると、圧倒的に『遊び(余白)』がありません。少しハンドルを回しただけでスピンしてしまいます。一般の自動車も同じようにハンドルに遊びがなければ、お年寄りの事故は大変な数になるように思えます。

わたしたちの人生もこれと似ていて、時間に余白を作らず生産性を高めようとすれば、反対に生産性が落ちるようです。

人間の集中できる時間の関係もありますが、何もしないことで、何かを効率的に回すことができるようです。

というわけで、どうでもよい話をさせて頂きました。

わたしは、今回のようなnoteの記事で、これからより一層、内容の良いものがかけるようになるのではと考えています(サボっているだけかもしれません)。

それでは、ありがとうございました。

また来週。

おわり


最後まで読んでいただきありがとうございます。

猫野サラさん画像を使用させていただきました。

毎週金曜日に1話ずつ記事を書き続けていきますのでよろしくお願いします。
no.87 2021.10.8

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