#122 豊かさと見えない化
集団の中で極端な自由を主張すれば集団から排除され、自由の旗を振ればそこに人が集まり集団となる。
リベラリズムもコミュニタリアリズムもその思想の強度によって変化すると前回述べた。
わたしたちは生得的に自由を欲している。しかし同時に集団でいることで多くのものを手にしてきた。
個としての思想と生きるために獲得した集団的思想の両輪で社会は成り立っていると考えてよいのだろう。
そのため、自由主義を声高に主張することも、共同体主義を主張することもどちらも本質からズレているのではと個人的に思う。
社会はこの両輪のどちらも不可欠であり重要なのはバランスの問題だ。片方の車輪だけ大きくなれば真っ直ぐ進むことは叶わずクルクルと回ってしまうだろう。
そこで現在の社会を覗いてみると、一つの結論に辿り着く。
それは国が豊かになれば個の自由が強くなり人は人を必要としなくなるということだ。
前回述べたように、先進国では友達と呼べる人がいない人が増えている。単純に身近な人の助けなしに快適な生活を送ることができるということだ。
一見、素晴らしいことのように思える。
しかし、そこには条件がある。
それは、大量の紙幣が必要ということだ。
なぜなら、今まで共同体で分担していた労働を現在ではアウトソースすることによって成立しているためだ。
これは生産産業にもいえる。今までは多く近隣の人の協力を仰ぐ、または家族総出で行っていた農業も人から機械に変わることで生産性を高めた。
それでも機械で賄うことのできない人の手を必要とするものに対しては、身近な労働者ではなく、国外から安い労働者を招き入れることで代替している。
つまり、全体の総量は全く変わってなく、エネルギーの出処が変化しているだけだ。
わたしたちは豊かさをテクノロジーの使用や自身の行動エネルギーの減少だと思っている。
例えば、古いiPhoneを持っているより新しいiPhoneを持っている方が操作性や多機能の面で優れており豊かだ。
また、今まで自身で行っていた作業(タスク)を結果はそのままに自身で行うことなくできることは社会的に豊かである。
こうして家事や単純作業など多くのものは紙幣(お金)と引き換えにアウトソースされ「見えない化」される。
サービスと言ってしまえばそれまでだが本当にそれが豊かさなのだろうか。
そこには二つの問題がある。
ひとつは、愛の減少。
例えば、貴方の恋人が貴方に送るメールの文章も何処かでプロの作家の販売している雛形で恋人自身が1秒も貴方のために時間を浪費してい文章だと知ったらどうする?
貴方の恋人が貴方のために作ったという弁当が市販の商品の詰め合わせでだったら?
子どもの運動会に応援に来るのはその子の両親ではなく代行業者で全く関係のない人が応援していたらどうする?
乳児期に母乳を与えることで自身のプロポーションが崩れることを恐れて代理母の母乳によって自分が育てられていたとしたらどうする?
それどころかあなたの両親が仕事を優先するために、業者に依頼し、卵子と精子を試験管で人工授精し、代理母の体内で育てられ誕生していたとしたらどうする?
これらは、一部の人たちにおいて当たり前の事実として存在する。
それが良いか悪いかは置かれている状況やケースにより異なるので非難はできない。
しかし、現在ではこのように金によって多くのものがアウトソース(外部委託)できる。
アウトソースによって愛は減少する。ここにおける愛とは、自身の手によって他者に働きかける行為を指す。
もう一つは、都合の悪いものが見えなくなり、それを成立させているのは大多数の見知らぬ人という事実があること。
「見えない化」とは、見たくないものを意図的にみえなくさせるための仕組みのことである。
死刑執行がある刑務所では、死刑執行の際、執行員が3名おり、執行ボタンを同時に押し、その行為が誰の手によって行われたかわからないようになっているという。
ひとりで行う場合、その執行者は少なからず殺人という精神的負荷がかかる。それは、自身に100%過失がないとわかっていても起きてしまう。
その精神的負荷を無くすための措置にあたる。
これと同じように、アウトソースにより自分の都合の悪い又は嫌いなものを極力視界から排除し、自分の見たい景色のみを見るようになる。
例えば、老人ホーム。豊かな老後を過ごせる社会的施設ではあるが、これらはお年寄りが子どもたちに負担をかけさせたくない場合や、子どもたちが親の面倒をみること(介護)が困難な状況で選択されるが、そうではなく厄介払いとして利用されることもある。
親の介護を「見えない化」できる。
例えばミールキッド。食事をつくる際、冷凍食品では全く食事を作ったことにはならないが、ミールキッドなら、焼くだけや煮込むだけなど、一定の料理の行為を行う。そのため、主婦には人気がある。
下処理の苦労を「見えない化」できる。
それでも、それにより雇用が生まれるので社会的には良いという意見がある。
しかし、お金の配分は等分配ではない。
全世界の人が同じ額の所得と資産がある場合、おそらく成立しない。
つまり、偏った一部の人たちのみが恩恵を受け、それを与えているのはそれ以外の大多数ともいえる。
そこに中央と周辺の問題の本質が垣間見える。
中央にいるわたしたちはそれを知る必要がある。
おわり
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ゆっくりかわうそのアトリエさん画像を使用させていただきました。
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