#96 それでも自分らしく

*はじめてみた人は#94から読んでください。

社会適応教育の副作用


このように社会には反応・反射的な生き方をしている人が多くいます。

なぜだと思いますか。

それは、成人になるまでの過程にあると考えています。

人は生まれてから多くのことを学びながら成人になりますが、誕生してから就学するまでの間は親の庇護のもと、自由奔放に好きなことをしています。

その頃は、家庭内で問題になるほどのことでなければ主体的に選択をさせてもらい、わたしたちは成長します。

その後就学すると、社会生活に適応させるために社会のルールや優位性知能や技術などを学校や家庭、または友人などから強い影響を受けます。

とりわけ両親から強い影響を受けることで社会に適応できる素地を得るのですが、このときの副作用で主体的な選択をする経験が少なくなる場合があります。

毎日、学校や家庭で社会適応学習や行動の反復を促され、それを履行することで手一杯になってしまい、自分と対話をする時間が少なくなります。

このことで、言われたことをやるだけに慣れてしまい(反射・反応的な行動が多くなる)、主体的な行動を行う強度が弱いまま、大人になる人が多くなります。

このような人が社会に出ると外見も内面も何ら問題はなく優秀なのですが、主体的な選択ができず、周囲の期待とは裏腹に実力を発揮できず、本人は苦悩することがあります。

彼らは社会適応のためのテクニックを重視する教育を受けてきたため、本来その人独自が持つ、主体的なエネルギーが弱くなっているのです。

自身の声にさえ懐疑的になってしまい、その不安から他者の発言に影響を受けやすくなり、行動が安定しなくなります。

繰り返しになりますが、主体的な行動には責任がともないます。そのため、精神的な痛みを受けることもあります。

これらは成長過程で段階的に強度を上げていき、自身の行動を反応・反射的から主体・意識的にシフトさせていくことで耐性ができ、対応できるようになります。

つまり、主体的な行動による生活は、反応・反射的行動の上位互換にあたり精神的に成長すると必ず訪れる症状なのだと思われます。

そのため「私は何のために生きているのだろう」と自問する行為は成熟過程の一種で悩むべき症状ではないのです。

先に述べましたが、行動が内から外に流れるということは、心はブレることなく常に中心にある状態なので、周りの環境に左右されることがなく自分らしくいることができます。

社会で活躍する多くの人は皆、主体的な生き方をしています。

また、社会的に活躍していなくても幸福に生活している人も主体的な生き方をしています。

このような生き方は、時折受ける痛みと引替えに使命感と充実感によってそれらの痛みは相殺されます。

つまり、慣れてしまえばさほど大きな痛みではないことがわかります。

自分らしさとは、個々人が持つ素質と環境の融合により生まれでる結果を自覚しているに過ぎません。

一部の人は、反応・反射的な生きかたによって、本来もつ自身の将来性を低下させているのです。

なぜなら、私たちが日々優先していることは反応・反射的な行動であり、私たちが心の奥でやるべき・やることによりより良くなる行動は、主体的ものだからです。

よくある心の葛藤のケースですが、学生時に明日からテストがあり事前に勉強をしなくてはならないのに、それ以外の誘惑に負けて勉強がはかどらないことがあります。

主体的には、中長期的に自身の未来のためには勉強をすることは望ましいと解っているはずです。しかし、意思とは裏腹にとった行動は、勉強ではなく楽なことや楽しいと思うことになる。

結果、望む点数を得られず後悔する。

これが典型的な負のスパイラルです。

やるべきことが解っていて、それをせずに望む結果が出ず後悔する。

頭の中では常に、思考しない個と思考する個が綱引きを行ない、次の自身の行動を決めているのです。(比喩的表現)

では、なぜ私たちは自分を上手に動かすのができないのでしょう。

それは、私たちの自我である思考する個は、肉体に付属するオプションでしかないのです。生存という意味では、肺や心臓やさまざまな臓器が正常に機能し、栄養を取り込んでさえいれば問題ありません。

不幸なことですが、意識を戻さない植物人間になった人も、適切な酸素と栄養を吸収できれば生存し続けられます。

では、わたしたちの存在価値はなんなのでしょう。

そんなことを考える必要はありません。

価値なんてありません。あるとしたら、自分が価値がある人間だと思いたいだけです。

だから、好きなように生きれば良いのです。法治国家においては、犯罪を犯すようなことをしなければ、自由に生きて良いのです。

わたしたちのなかには、社会から「人はこうあるべきだ」とか「生涯を快適にすごすためには○○万円かかる」とか「結婚はしなくてはいけない」とか、誰かの勝手な価値観をあたかも社会の総意のように押し付けられて、そのことにこだわり過ぎて、自分を見失っている人があまりにも多い。

場合によっては、そうして押し付けられた価値観に嫌気がさして、自分が悪いと思い込み精神的に病んでしまう。

生きるということはそういうことではない。

もっと制約の少ないものです。

もし、あなたのいる環境が制約が多く苦労が絶えないなら、それはあなた以外の誰かが勝手に作った制約であり、あなたを縛り付ける枷でしかありません。

それらに振り回されずに生きるためには、少なからず覚悟が必要です。

また、主体的な行動によって生きる生き方を、自分勝手で利己的と捉える人もいます。しかし、主体的に生きることと、我がままに利己的に生きることには大きな違いがあります。

それは、一方的か相互的かの違いです。

前者は、調和もなく傍若無人に振る舞い、周りに迷惑をかけます。当然ですが人はひとりでは生きていかれないため、このように振舞えばコミニティから排除されます。

後者の主体的に生きることは、相互的であり調和がとれている状態になるので、そのようなこともなく、良い意味で互いに影響を与えることができます。

これまで#94から長く話してきましたが、理解していただけたでしょうか。

これらをより正確に伝えるためにはより多くの文字数が必要になるので割愛させて頂きます。

ご清聴(読)ありがとうございました。


おわり


最後まで読んでいただきありがとうございます。

Himeさん画像を使用させていただきました。

毎週金曜日に1話ずつ記事を書き続けていきますのでよろしくお願いします。no.96 2021.12.10


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