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人生を魔性の女に狂わされたかった私はもういない

私には、己の人生設計やこれまでに積み上げてきた努力、貯金、人間関係などを、ある日突然出会った魔性の女に魅了されることで、全てかなぐり捨てて彼女にのめり込みたいという願望がありました。

破滅願望にも似たそれは、将来抱えそうな不安に前もって対策しようと行動する私の中にいつからか根ざしていました。普段は忘れているけど、ちょっとしたきっかけで顔を出す、そんな暗い願望。

一目惚れをした経験があり、その時の自分ののめり込み方が病的で、恐ろしいと思いながらも、当時の自認の範囲を超えた振る舞いや感情に振り回されたことが忘れられず芽生えたと考えています。

自分が自分でなくなるような恐ろしさと、ある種の快感。
それまでに自分がやってきたことも何もかもどうでも良くて、その人さえ手に入れば、どんなに親しくて世話になっていようと他の人間は最早どうでもよくて、そういう利己的な気持ちの最たる状態が魅力に思えたのだと。

普段の私は共感能力も高くないし、他人を助けることに積極的でもないし、どちらかといえば優しくて親切な方ではありません。
しかし他人を上手くフォローできなかったり、誤ったコミュニケーションを取ってしまったことで悩み、利己的にもなり切れず、なんだかんだで他人の目を気にしてしまうことで自己否定を頑張ってしまう。

ここから逃避したい気持ちが、「人生を魔性の女に狂わされたい」という願望育てていたに違いないと推測しています。

しかし今は、自分の仕事について考えるキャリアコーチングを通して、自分の人生を進めていく覚悟をし、その願望を手放すことができました。

まだ自分の人生を放り投げる手を下ろして、足を踏み出したばかりで次の段階のスタート地点に立ったところです。
数年後、ここから大きく考えが変わることだって十分にあり得ますが、今日この時点までに何を気づき、どう覚悟することにしたのか残すことにします。

はじめに

現代には数々の社会問題があり、胸を痛めたり、怒りに震えることがあります。

それらを考えれば、私がキャリアコーチングサービスを利用し、自身のキャリアについて腰を据えて考えられること自体、既に幸せな環境にいることの証拠だと認識しています。

しかし、私には私の悩みがあり、その苦しさの程度を自由に定義し、原因や対策を考えたり行動することは、普遍的な欲望であって誰かに非難されるようなものではないと考えています。
あくまで私の思考活動でしかないですし、これが誰かの幸福を妨害している訳ではないはずです。

世の中にいるあらゆる立場のあらゆる人々の一つ一つに配慮していくと、自分の幸せを追求するために、自分と向き合うのが難しかったため、今回は自分の人生という観点だけに集中して臨みました。

見方を変えれば、私だけが幸せになろうとしているように捉えることができるため、本当に私の出した結論は人前に出して良いものなのだろうかと思ったりもしたのですが、キリがないのと、他人のことを私がどうにかすることは叶わないので、すっぱり切り分けてこれまでの記事と同様に公開することにしました。
(所詮、素人が個人的に無料公開している作文ですし……)

私が私のために書いて、これから得るだろう失敗も成功も自分のものにする目的で整理したものです。

この先をお読みいただける場合は、上記を念頭においていただき、この時点で疑問や違和感がある場合は閲覧をお控えください。

また、身バレ防止のためにわざとふわっとさせている部分があります。
公開する都合、結論の割に曖昧であったり、割愛している箇所がありますがご容赦ください。

私が仕事/キャリアに向き合うまで

仕事と向き合うのを避けてきた

昔から自己分析をするのが趣味と言ってもいいほど好きです。
小さい頃は星占いや血液型占いからヒントを得ては、自分はどういう性格でどんな性質なんだろうと考えてきました。

大学や学部を選ぶ進路選択の時には、自分は何に関心があって、何をしたいのかを自問自答しましたし、新卒の就活の頃には、各社就活支援サービスが提供する適職診断/性格診断を片っ端から利用して、どういう指向が自分にはあるのか、何が向いているのかを知るのが好きで取り組んでました。

日常生活でもSNSで流行っている診断系はどれも手を出してみたりして、自己認識と診断結果を照らし合わせてきました。

しかし、ずっと自分というものを掴めた実感が得られることは無かったです。
実際、面接の時に自分を説明するのもあまり得意ではなく、時間を費やしている割には自分のことは何も分かっておらず、他者説明が難しい状態に長くありました。

更には考えても考えても、人生でやりたいことも成したいことも特にない。信念やポリシーのような、いわば説得力のある「芯」なんてものは感じたこともない。
不自由しない程度にお金を稼ぎ、適度に遊べればそれで良い。
それ以上望むもの、不自由さやリスクを得てでもやりたいことがある人がまぶしくてしょうがないけど、そうなりたいと思えない。

内面は常に変化していくものだし、いつかそういう気持ちが芽生えるのかもしれませんが、それまではどうやっても掴めなくて当然なのかもしれないと結論づけてきました。

しかし、20代中頃で自分のファッションやメイクに注目し始めたのがきっかけで一変しました。

当時、話題になり始めたイメージコンサルティングで、自身に似合う色やファッションテイスト(例:甘め、ハード、キレイめ、カジュアルなど)の診断を受けて気づいたのです。

内面よりも目に見えて分かりやすい外見ですら、私は自分のことを知らないのだと。

私は二重であること、眉毛が太くてしっかり生えていることは認識していましたが、自分の顔がどの動物や調味料に当てはまるのか、目が吊り上がっているのか下がっているのか、骨は出ているのかそうでもないのか、唇は薄いのか厚いのか、鼻筋がどうなっているのか、何一つ分かっていませんでした。

そもそも他人の顔もどういう顔なのか気にしておらず、顔の特徴について小説で描写されていても、結局どういう顔をしているのか少しも想像できないくらい関心を持ってこなかったという背景もありますが、毎日何度も鏡で見ている自分の顔ですらこの始末。

数々の診断を通して、外見が持つ要素が一般的には他人にどんな印象を与えるのかを知った時、あんなに面接対策で初対面の印象が大事だといろんな人が言っているのを聞いたのに、印象の大半を決める外見について何一つわかっていなかったと衝撃を受けました。

これを受けて、私が今まで断片的にでも掴めた気になってきた自分の内面も、実態と違うのではないかと思うようになりました。

そして、もう一つきっかけがあります。

イメージコンサルタントの診断結果に合わせて日々のファッションやメイクを変えて試行錯誤する日々の中、あきやあさみさんが提唱する自問自答ファッションに出会ったことです。

自分の外見だけでなく内面にも合った服を着よう、という考えに基づいており一風変わったスタイリストさんです。
服を選ぶ前に自分の内面について言語化して、ファッションアイテムとして身につけたい要素をキーワードとして抽出し、それに合う服を着よう、というメソッドを提案されています。

ここまで実践してきたイメージコンサルタントの理論とは真逆。
自身の内面に耳を傾ける内省型のファッション提案。

自己分析が趣味の私はこれに飛びつき、自らのファッションを自問自答してはその実践記録をnoteに投稿してきました。
お陰で以前よりも自分の内面や気持ちに合ったファッションを選択出来るようになりました。

これを現時点で2年以上続けているのですが、自然とファッションという観点から自問自答を進めていく過程で、心に留まったキーワードに対し、なぜ自分はそれが気になるのか、なぜこれは気にならないのか、という疑問が湧くようになり、自己分析に耽る習慣ができたのです。

自己分析を進める中で、思考がするする進むジャンルと、すぐに止まってしまうジャンルがあることに気が付きます。
それは「他者に成果や実績を求められることが当然である」かどうかの基準で見事に二分されていました。

例えば「収支管理」について。
私は買い物が好きで、使えるお金は何らかの買い物に使ってしまいがち。給料日前に余裕をもってお金を残しておくというのが難しく、毎月の給与から予め積み立て定期預金を設定して実質天引きしないと貯金できないタイプです。
この購買欲の根底には何があって、どういう対策をしていくのが良いのか、自分なりに考えた仮説と、その実践結果についてnoteでもその過程を投稿してきました。

これが出来ているのは「収支管理」が個人的な話でしかなく、私がどういう管理をしようがしまいが、他者には何ら関係のないジャンルだからだったのです。例え私が借金でもしたとしても債権者にしか関係のない話ですし。

ところが、「仕事」になると違いました。

労働やその成果を代償に報酬を得るため、自らの働きとその能力が常に試されているからだと私は考えています。
となると、報酬に見合う働きができているのか、年々上がっていくハードルをちゃんと越え続けていくことができるのか、という不安が付きまといました。

私にはできないことばかりだし、今の私ができることは誰でもできるから成果を出せていないのではないか、という考えに囚われてしまう。
現状の把握とこの先の方針について着手したくても、上記の思考に舞い戻ってしまい、中々進められない状況にある、ということに気がついたのです。

そこで出会ったのがストレングスファインダーです。

これはアメリカのコンサルティング会社であるGallup社が開発・提供している才能診断ツールです。人の強みの素である34の資質の内、自分がどこに強みを持っているかを診断することができます。

よくある適職診断や性格診断とは異なり、自分の得意不得意をグレーゾーンの部分や、頑張ったらできるという範囲を可視化できます。

得意なことは得意な人がやれば良い、不得意な人は得意な人に任せれば良い、という考えが根底にあるため、私のように「何も得意ではない」「出来ないことばかり目につく」と思っている人間にとって、持っている力を知るのに最適なツールでした。

※この結果については、診断結果とそれを元に個別セッションを行っていただいた直後の感想noteを別途投稿しているので割愛します。

自分が「どうして苦手なんだろう」「人よりできないんだろう」と思っていた要素が結果に反映されており、人生で初めて苦手であることをそのまま受け入れられるようになりました。

更に幸運なことに、同じくストレングスファインダーを受けた方々と、どこが共通点で、どこが違うのか、どのような場面でそれを感じるのか、について話す機会が何度もあり、そこで自分が苦手なものを得意な人が本当に目の前にいる、という経験を得ました。これにより自己否定が和らぎました。

ストレングスファインダーのお陰で、仕事面での自己理解も以前より進みましたが、それだけで自己分析は終わりませんでした。

それは私の得意とする「問題解決能力」を発揮するには「問題が存在する場面にいなければならない」ということです。

私の問題を解決したい原動力は「問題を抱えたままの状態が嫌でしょうがないから、早く解決して安心したい」から来ています。

基本的に問題のある場面に立ち会いたくはありません。
問題が嫌でしょうがないから解決しようと動いているのですから。そもそも問題がない仕事なんて無いので、どこでも発揮できるのではないかという話もあります。

現職の仕事で発生する「問題解決」をやっていても不安ばかりが募る一方で、本当に強みを活かす方向性で仕事について考えていいのか、という疑問が湧いてきました。

仕事は金銭的にも関わってくる部分で、社会的に生きる限り向こう30〜40年は付き纏う一大要素です。お金だけではなく時間も、一週間のうち最低でも40%くらいは費やしていることがスタンダードでかなり大きい。

もう30歳だしそろそろ大きな方向転換の年齢制限に引っかかってくる時期。
現職に就いた経緯がほぼ流されるまま辿り着いたようなもので、このままでいて良いのかという不安もある。
人生でやりたいことも成したいことも特にないなんて言って、仕事に向き合うための自己分析が難しいという理由で避けていい時期は過ぎてしまったように感じ、焦るようになりました。

そろそろ本当に自分の内面を理解して、人生の半分弱を捧げることになる仕事をどうしたいのか考える時期が来たのではないか。
いつか来るタイミングを待つのではなく、自分からアクションを起こしてタイミングを作るべきではないのか。

重い腰を上げて、いつものようにどういう道筋を立てるべきか考え始めた矢先に一つの障害を思い当たりました。

私ってこの世にある職種をあまり知らない。
自分が経験したものはもちろん分かるが、それも職場によって仕事内容が大きく変わってくるし、関わったことのある人の職種に関してかろうじて少し知っている程度のもの。
それ以外にどのような仕事がこの社会を動かしているのか全然分かっていない。

となると、自己分析をしたところで、方針を決めるために必要な選択肢が見えていない状況に陥るのでは?
何とかゴールやそこまでのプランを立てられたとしても、その結論に覚悟を持って私は突き進むことができるのだろうか?

とてもそんな自信はない。

何度も言うように自己分析という行為自体は好きだし、ジャンルさえ仕事でなければできるので、誰かに私の自己理解と分析をサポートして理解しながら、フラットで広い視点でこの世の仕事の中から、どれを目指せば幸福度を高められそうか一緒に考えて欲しい。

この世の仕事に詳しいという点で、初めは転職エージェントの無料相談をいくつか受けていました。
が、恐らく大量の登録者をそれぞれのエージェントが抱えており個別対応には限界があるだろうと感じました。
そもそも転職しないと企業側の利益にならない業態であるため、転職よりもっと前の「そもそも」の話をヒヤリングしたりサポートしてもらうのは難しそうだなと。

次に国家資格をお持ちのキャリアコンサルタントの方が個々人で提供されているサービスにお願いすることを考えました。
しかし、経験された業界に強い方が多い印象でした。そのため複数の方に単発の相談をお願いしてみることが最も有効に感じましたが、事前に確認できる口コミが少ないこともあり、その「複数人」を絞り込む決定打に欠け、保留にすることに。

となると企業や団体が行なっているサービスで、それなりに口コミが確認できる知名度のあるものが良いのではないか?

そこで過ったのがPOSIWILL CAREERでした。
数年前に転職活動をしていた友人が、お試しの無料体験をして良かったと話しており、当時はすぐに調べたものの料金を確認してそっとページを閉じてしまいました。

改めて調べてみると、キャリア面のパーソナルトレーニングが主のサービスでした。
あくまで利用者が今後のキャリア形成について自走していくための判断軸をつくり、その軸に沿ったキャリアについて共に考える。
内容も取り組む課題も利用者次第で、必要なプログラムを組んで設定したゴールに向けて伴走するコーチングサービスがPOSIWILL CAREERです。

転職エージェントとは全く異なるため、費用はこちらが払う分、仕事をする自分の「そもそも」に向き合うのを支援するサービスだと感じました。
プランによって転職するまでも対象にしているようで、どこかの業界や職種に特化しているという訳でもなさそうです。

提供サービスの内容としても私の希望にマッチしているように感じ、まだ費用面にはハードルを感じているものの、お試し体験をしてから考えても良いだろうと考え、申し込むことにしました。

POSIWILL CAREERお試し無料体験

お試し体験はWebミーティングツールで1時間程度。
担当さんはカメラオンでしたが、私の方はオフにさせてもらいました。
お試しだし、時間も短いし、何となくヒントになるようなことが得られたら良いな、という期待感で臨んだのを覚えています。

上記のキャリアに向き合おうと思ったきっかけについてお話ししたところ、私の問題解決の原動力の核心に迫る問答まで発展したことに大変驚きました。

ストレングスファインダー的には「回復志向」という資質が私の行動の発端であり根幹になることが多い、というところまでは理解していました。
これはマイナス認識のものをゼロに直すよう働く要素のため、私の欠点や不足部分を補っていち早く問題ない状態にしないと気が済まない気質はここ由来であると。

しかし、そもそも何故マイナスをゼロにしたいのか、という点に考えが及んでいなかったのです。

回復志向による心の動きに納得していたものの、その裏で漠然とゼロにし続けた先の明るい未来が見えず、具体的な目指したい未来が何も言えない状態で不安でいた気持ちの根幹にあるものについて、メンタルモデルを用いて指摘を受けました。

メンタルモデルは、この世界にあるはずだった何かが「ない」という人間のこの世界の体験の中にあった欠損の痛みが言語化されたもので、生存適合OSは、その痛みを回避して生きることを目的に生存本能が創り出した現実創造のメカニズムです。
したがって、それぞれのメンタルモデルには、何がこの世界に「ない」のかという固定化された世界における欠損の「痛み」と、何がこの世界に「あるはず」なのかというその痛みの裏に、あるはずだと信じていた世界を創造することへの「情熱」が表裏一体で存在しています。

由佐美加子/天外伺朗『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』(Kindle 版), 内外出版社, 2019年, P173-174

※上記の出典に基づく概念ではありますが、お試し体験の場ではこちらの本を勧められた訳ではなく、私が後から気になって探して勝手に読んでいます。

ちょっとスピリチュアルな表現もあり理解が難しいのですが、同書を読んだ私の解釈としては、全ての人間は完全なはずなのに何かが欠けていると思い込んでいて、その欠けている認識から逃れるために行動しているとのこと。その行動パターンは著者の対話経験に基づき4つに分類されており、それをメンタルモデルと称しているようです。

4つのメンタルモデルの内、私はどうやら「欠陥欠損モデル」に該当しているようです。
簡単に言うと、自分のことを何かが決定的に欠けた出来損ないである、という、誰しもが持つ個性という名の凹凸を欠陥と認識し、不安がっていることの多いモデルです。

この概要だけで、ここまで見てきた自己理解の中の自分と重なりました。
何かの克服を目指し、自分なりに納得のいくところまで進められても、すぐに別の何かが気になってその克服を目指し始める。私の20代はその繰り返しに捧げたといっても過言ではありません。
実際、体験後に同書を読めば読むほど、自分がいかに不安がってあれこれ手を出しては、結局不安感自体は少しも減らないと思っているのか直面し、頭を抱えました。

各メンタルモデルには、自分が理想とする世界を実現するためのミッションがあります。
「欠陥欠損モデル」のミッションは下記の通りです。

とにかく根強い不安感からそれを払拭しようと行動するのではなく、自分が安心で満たされた状態でその場に「在る」ことが最大の貢献でありミッション

由佐美加子/天外伺朗『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』(Kindle 版), 内外出版社, 2019年, P198

簡単にいうと「ありのままの自分で安心している状態でいる」ということです。
不安を払拭しようとする行動が、自分を真の意味で安心させられないということを経験をもって知っているだけにすごく動揺しました。

担当さんに「問題解決をしたときにどんな気持ちになるのか」と訊かれたとき、私は「ホッとする」と答えました。

つまり、達成感や充実感ではなく、安心感を得るために問題に介入しているのです。
ちなみにこの安心感はあくまで一時的なもので、少しするとまた別の不安に直面します。

「マイナスをゼロにしようとする行動のループにい続けたとき、その先に幸せがあるのか」と担当さんに訊かれたときにハッとさせられました。

1時間足らずで、誰にも話したことのない自分の不安のメカニズムに言及され、初めて「今いるところから抜け出したい」と一歩先に思考を進められたのです。

このサービスなら堂々巡りをしていた仕事と向き合うことをもっと先のステージへ、何なら覚悟を持って取り組めるキャリアプランを立てることも叶うかもしれない。

どちらかというと感情的な確信と期待が持てた、とても実のある体験でした。感動した私は逡巡したものの、料金面の懸念を押してプラン申込をしました。
※もちろん体験の中で具体的に私の希望を叶えられそうだと確認できています。

また全てのプランを終了した今、後付けになりますが、安くない費用を払ったことで、徹底的に契約期間は時間も労力も費やす覚悟ができたので、かなり有意義に過ごせたと思っています。

キャリアコーチング開始まで

私が申し込んだプランでは、開始日を決めてそこから35日間の間に担当トレーナーとオンライン面談を5回行います。

1回の面談ごとに課題が出され、提出した内容を元に次の面談を行うといった流れです。5回目で目指す職種や業界などの方針を固めるところまで伴走いただきました。

毎回の面談では着手する内容が異なり、5回目のゴールまでに自身の幼少期の経験を振り返ったり、業務の棚卸をしたり、自己受容の訓練をしたりと、キャリアの判断軸を定めるのに必要な材料を探っていきます。
※コーチング内容は私に合わせたメニューであり、他の利用者とは異なる内容であることが大いに考えられます。もし受講を検討しており、本記事を参照されている場合はあくまで一例であることをご認識ください。

本来であれば申し込み後、決めた開始日からすぐにサービス開始になるのですが、私の都合で申し込み後、一ヶ月程空けてから開始に調整いただきました。

このサービスでは、キャリアを考えるのに役立つコンテンツや参考図書の紹介もあり、私の場合は面談開始までの間に課される宿題のほか、それらを活用する自己学習期間として過ごすことにしました。

その際に得た気づきについても残しておきたいと思います。
主に読書録のダイジェストみたいな感じなので、興味の無い方は次の見出しに進んでください。

理解って、基本的には、愛なんですよ。人間を理解するというのは、本当に、愛で。それを自分で理解してあげるというのは、自分に対する自己愛なんですよね。

由佐美加子/天外伺朗『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』(Kindle 版), 内外出版社, 2019年, P43

最近の私が自己理解に軸足を置いていたのは、不安解消に向けて行動していった実績が自信にはなっていて、抜本的な解決にはならないものの、自分なりに考えて行動できる自分のことを愛してあげたいと思えるようになったからなのだと気づきました。

学生時代は本当に自分のことが嫌いで嫌いでしょうがなくて、人から向けられる好意も信じられなくて、とてもじゃないけど自己愛とは程遠い精神だったように思います。

自分の嫌なところを理解した気になって、他の面に目も向けられなくて、何をしても嫌いだけど、何もしないと存在していることが許されない気がして。そうやって自分を厳しい目で見ながら、他人を見る目も厳しくなって、些細なことを一大事みたいに「信じられない」と怒っていました。

他人を理解する気のなかった私が、他人を愛する心持ちになれる訳がなかったのだと過去の自分を少し理解できたように思います。

愛ってどういうふうになっているかというと。基本的には、何かしてもらう世界には存在していないんですよ、何も。でも、子どもって、生まれてきたときに、すべて愛だと思って大きくなるから。この愛の呪縛に囚われちゃうんですね。何か相手を満たすために行動を起こすのが愛だという定義になっている。もっと言うと、奉仕が愛だと思っている。この奉仕の中に、自己犠牲という概念が組み込まれて。それに応えないということが、罪意識。罪悪感。よくできているね、って思います。だってこれで、一番支配できるから。

由佐美加子/天外伺朗『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』(Kindle 版), 内外出版社, 2019年, P104

何も返さない/応えないことが罪悪感を抱かせる、という観点にハッとしました。それによって支配する/されるということにも。

それは、とても心当たりがあったからです。

私は日常に溢れているチキンレースが苦手です。
例えば、複数人で大皿を囲むとき、誰も手を出そうとしない状況。
例えば、旅行の行先の案を一通り出し切って、絞り込んで現実的なプランを立てるフェーズに移るのが合理的な状況。
例えば、誰にでもできるが面倒な雑務の担当を決めるとき、誰も発言しない状況。

こういった場面の多くで、私は率先して動いては「損をした」と後悔する道に進んでいます。

何故「損をする」と感じていることを充分に分かっていながら行動してしまうのか。
それは、しなくてもいい労力を自ら引き受けておけば、誰にも文句を言われる筋合いはない、という顔ができるからです。

この気持ちの裏には、その場をある程度支配することができる、という意識が働いていることに気が付きました。
簡単で乱暴な言い方をすると「先にこちらが労力を払ったのだから、私が偉いのである」ということです。

労力を払わず他人に乗っかっているだけの人だと、その場の人たちを下に見て、何なら罪悪感を覚えてこちらの労力を認めて欲しいと思っている。そしてチキンレースに負けることで、場をある程度は支配できるという考えが下地にある。

しかも、この発想には「自分が他人の代わりに労力を払っている」という被害者意識もにじんでいる。

なんてたちが悪いんだろう、とぞっとしました。
今すぐやめなければ、こんな考えは。

してあげる、してくれる世界の愛。こんなの、愛じゃない。取引ですよ。しかも、源泉は、怖れだから。この愛で人のことを、支配するの。愛だと見せかけて。支配って、怖れからなんですよ。

由佐美加子/天外伺朗『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』(Kindle 版), 内外出版社, 2019年, P106

先ほどの引用による気づきの流れでもう一つハッとさせられました。

もしかしてチキンレースに負けることで支配したがっていた私は、何かをすごく恐れているのではないかと。
何かを怖がっているから場を自分優位にコントロールしたかったのではないかと。

このチキンレースについて、自分はずっと不本意な行動を強いられる(と思い込んでいる)ことにやり場のない怒りを覚えていたので、自分が怖がっているという認識が全くありませんでした。
詳しくは後述しますが、これが人生で求め続けている自分の本当の望みに気づけた、最も画期的な発想でした。

怒りは恐れと紙一重じゃないか、と思うと何だか心の余裕もできた気がします。(怒っている人を見て、この人は怖がっているのだなと思うようになりました)

「自分を受け入れる」というのは、自分のすべてをすばらしいと思うことではなく、自分の弱みも受け入れるということです。
自分のことをどの程度受け入れることができるのかは、どの程度自己認識ができているのかによります。結局は、自分が認識したこと、つまり自覚したことしか受け入れることができません。
 ~中略~
まったく弱みではない点を弱みと思ったり、良く見るとじつは強みである点を意識の隅のほうへ追いやろうとしたりしています。

シュテファニー・シュタール『「本当の自分」が分かる心理学 すべての悩みを解決する鍵は自分の中にある』(DMMブックス版), 大和書房, 2021年

仕事において自分の能力や成果を考えるのが難しいという悩みを持っている私にとって、自己理解に注力する後押しになりました。
自己分析が得意にも関わらず、自分の仕事面については見当をつけるのも難しいというのは、自己認識が出来ていないということではないかと拝読して思ったのです。

ここまでの気づきをまとめると、私は恐らく何かを怖がっており、それによって仕事面の自己理解が阻害されている可能性が高いのではないかと仮説を立てられました。

私が仕事面で何かを恐れているのだとすれば何だろうと想像を巡らせたとき、最も動揺したのは「自分の親より大きく劣った生活状況になる」というものでした。

私は中流家庭のパブリックイメージにおさまるような家庭で育ちました。
両親は誰もが認めるような社会的な成功を収めている訳ではありません。時代が違うので両親を越える生涯年収を目指すのは簡単ではありませんが、どうしても不可能という訳でもありません。

そのため、親より大きく劣る生活状況になる、というのは、私が何らかの事情や事故などで、今と同じように働けなくなったときに発生する場合がある、ということになります。
今から恐れるには可能性が高いとは言えないし、現状で大きく動揺しているというのはやや違和感があります。

それでは両親の教育に何か問題があったのかというと、そうでもありません。
別に物理的な距離を取らなければならないような関係でもなく、幼少期を思い返しても、愛情を持って時に厳しく時に優しく私を見守ってくれました。感謝と尊敬を忘れたことはありません。

それでは何故「自分の親より大きく劣った生活状況になる」ことを恐れているのか。
自己学習期間中に自分で答えに辿り着くことはできませんでしたが、この辺りに何かヒントがあると感じました。

逃避の中でも、まずは「自分の周囲に壁をつくる」、いわゆる「退却」の防衛戦略を使う人は、たいてい子ども時代の経験から「人と関わるよりも独りでいるほうが安全」といった信念を抱えています。そのような人は、独りでいると安全であると感じるだけでなく、自由であるとも感じます。なぜなら、独りでいるときにだけ、自由に決定したり行動したりしてもいいと思っているからです。他者が近くにいるかぎり、自分は他者からの期待に応えなければならない。そういう子ども時代からのプログラムが始動してしまうのです。

シュテファニー・シュタール『「本当の自分」が分かる心理学 すべての悩みを解決する鍵は自分の中にある』(DMMブックス版), 大和書房, 2021年

そもそも引用元の書籍自体が今までの心理的な疑問について、目から鱗がボロボロ落ちるような気づきばかり与えてくれる名著だと思っているのですが、中でもこの話がそのままそっくり自分に該当して驚きました。

私はソロ活(一人で過ごす時間を楽しむこと)が大の得意で、一人の時間がないと居ても立っても居られないと感じるタイプです。

この「居ても立っても居られない」の由来について考えたこともなかったのですが、「安全」が発端になるという発想がしっくりきたのです。

長時間他人と同じ空間で過ごすのは、どんなに好きであろうと親しくあろうと関係なく誰であっても辟易します。それは精神的な疲労感に近いものです。

逆に一人で過ごしていていると、開放感に近い晴れやかな気持ちが継続します。何も気にする必要がないという自由。何をしても誰の目も気にしなくて良い安心感。

誰かと過ごしていると何等かの危機が訪れるかもしれないと、無意識に気を張っているのではないか。
その危機は私の何が脅かされるかもしれないと思っているのか。

どうやらここにもヒントがあるようです。

痛みを伴う事柄を認めないようにしていると、潜在意識の中でしょっちゅう不安がわき起こるようになります。じつは不安を認めないようにしているほうが、その不安を認めて受け入れるよりもエネルギーを要するのです。また、そのように抵抗していると、不安以外のネガティブな感情(悲しみや寄る辺なさ、怒り、羞恥心)も起こってきます。ですから、私はこれらの感情をできるかぎり早く消したいときには認めて受け入れることにしています。

シュテファニー・シュタール『「本当の自分」が分かる心理学 すべての悩みを解決する鍵は自分の中にある』(DMMブックス版), 大和書房, 2021年

どうやら私は安心と安全を求めているらしいと見当がついたところで、何故そう思っているのか、何がそう思わせているのか、ここまでで分かっていない理由はこれだと感じました。

恐らく私はこれまで抱えてきた不安を無視し続けてきたのだと予想します。
受け入れず無視し続けてきたことで、その正体も分からないまま漠然と仕事に対して怖がって分からないと嘆いている。

文字に起こすと「愚かじゃん……」という気持ちになりますが、それを大学時代のアルバイト4年+社会人8年=12年もやってきているのだから愚かでは済ませられないだろうと、一念発起したことは誇っても良いはず。

キャリアコーチングを通して、この不安との付き合い方を知りたい、と新たな目標ができました。

面談初回 ー課題整理とゴール設定ー

初回ではこの後の4回の面談とその間の課題を通して、達成したいゴール設定をしました。
お試し体験の時に簡単にどういうことを悩んでいるのか、迷っているのか、困っているのかについてヒヤリングされるのですが、改めて自分が認識している課題について洗い出していきます。

ちなみに私の場合、担当トレーナーは無料体験時とは別の方になりました。(しっかり引き継ぎいただいてました)

課題整理

この時点で私が伝えたことは大体こんな感じです。

  • ゴールは5年後の自分が「あとはこの道を進むだけ」と思えるキャリアの方針を定めること。

  • 自分の強味は「着手しよう」とスイッチが入った問題に対して、解決に向けてほぼ一直線に動けるところであると思っている。考えてばかりで行動に移せない、見切り発車してしまうということはなく、スイッチさえ入っていれば解決までのつまづくことなく解決目途が立つまでやり切れる。

  • 問題解決のモチベーションは、問題がある状態が不安で、一刻も早く安心したいから。解決した時には達成感はあまりなく、ホッとする気持ちが強い。

  • 自分の強みを活かそうとすると、問題が発生している、またはしそうな場に行かないといけないため、自ら不安を抱えに行く選択をすることに抵抗がある。

  • ありのままの自分でいながらも安心できる状態が人生における理想だが、ありのまま=現状維持に思えてしまい、現在の自分のままでいることが受け入れられない。

  • 自分だけでなく他人もありのままでいて欲しい。自分も相手もありのままでいた上で、相性の良い相手とだけ付き合える世界が理想。しかしそれは自分がありのままでいたいという願望の裏返しのように感じている。(相手がありのままでいないと、自分もありのままでいてはいけないように思っている)

  • 自分の欠点や不足部分に目はいくが、考えても「ありのままの自分」というものがよく分からない。

  • 仕事において、他人のミスや欠点にも敏感になってしまい、特に後輩教育の際に支障が出ている。マネジメントも向いてないかもしれない。他人にもありのままでいて欲しいのに矛盾が生じている。

  • 元々好ましいと思っていたものが全て、マイナスを補うための便利なツールや概念のように見えており、自分を見失っている気がする。

自己学習期間のおかげで、ゴール設定自体とその障害物にある程度目星がついていました。
しかし、まるで分厚い壁でも存在するかのようにそれが具体的にどんな状態なのか全く想像ができず、自問自答の行き止まりを感じていたことも、そのままお話ししました。

改めて振り返ると、何回「ありのまま」って言ってるんだと自分でも思うくらい、このときの私はようやく見つけた自分の幸せのキーワードに縋っていました。
とにかく「私はありのままでいられたら幸せなはず」だから、それが実現できる、または妨げにならない仕事が何なのか、答えに辿り着きたい、と。

この回でトレーナーさんとお話しする中で気づいたのは「安心してはいけない」と自分を戒めているせいで、他人を受容することも妨げている、ということです。
そもそも私は現状の自分を受け入れて安心することができていないので、他人のマイナス面が目立った時にそれを受け入れることができず、当たりが強くなったりしてしまっているのではないかと。

私は自分自身の至らない部分を「欠点」と受け止めており、極端な話、その「欠点」が身の破滅を招くのではないかと不安がっていました。
「欠点」をどうにかしようとしないことは、社会的な「死」を意味すると本気で思い込んでいたのです。

そんな私が他人のマイナス面に直面すると、自分のコントロール下に無い不安要素に動揺し、自己防衛のために忌避したくなってしまうのです。
自分の欠点は自分の認識下にあるし、改善に向けて行動する過程も全て見えているので、不安要素ではありますがまだマシ。その点、他人にもたらされた不安要素は、本当に改善を試みているのかどうかも分からないブラックボックスそのもの。
私にとって不安は受け入れがたいものですから、そんなものを持ち込んだ相手が許せず、結果的に当たりが強くなっているという現状がある、という筋書きが腑に落ちました。

人間のありのままとは、長所も短所もなく、ただそこにあるだけの状態のはず。優れている、劣っているというジャッジは本来存在しない。
自分も他人もありのままでいて欲しい気持ちは本物なのに、ありのままの自分が持つ「欠点」を受け入れられていないから、他人のありのままに含まれる「欠点」を受け入れられない。
本当は「欠点」なんて存在せず、ただの凹凸でしかないらしいのに。

私が「欠点」ばかり見ているせいで、自分にも他人にも欠陥欠損がある、という世界がこの世だと思い込んでいたのです。

そして、もう一つ恐ろしいことにも気がつきました。
私は一度転職をしているのですが、現職は現状維持が時間経過と共にマイナスに転じてしまう業界で、特にその傾向が顕著な職種です。
つまり、何もしなければどんどん増えていく能力や知識不足を認識しやすい場に自ら飛び込み、そこで己の欠陥欠損を埋め続ける人生で良いのかと悩んでいるのです。

自らが招いた、というか突き進んだ状況で「苦しい」と嘆いている滑稽さ。ほかの誰でもない、私が、私を、不安にさせている

自分で自分の首を絞めているような矛盾に直面して、だからずっと仕事に対してマイナスイメージしか持ってないんだと納得しました。

初回では上記のほかに、どうして自己受容できておらずマイナスをゼロにしたい発想になったのか、その原因についても考えていきました。

自己受容できていない

自己受容をするには、私が安心している必要がある。
となると、私が不安を抱えがちになった原因とイコールではないかと予想しました。

当時の私の心当たりは下記の通りです。

  • 両親が筋の通っていないことに対して厳しかった。他者から見て、出来ない理由がないのにやらない/先延ばしにすることに対して叱られてきた。(例:宿題、習い事の練習など)

  • 幼児期の妹に悪気なく大切にしていたものを壊されて、家の中が安心できる場所ではなくなった。それまでは家が絶対的な安全領域だったのに、妹がいる限り自分が不在時に安心できない状況になった。

  • 引っ越しが多く転校もあり、継続的に安心できる環境に身を置いた経験が少ない。

自己学習期間に読んだ『「本当の自分」がわかる心理学~すべての悩みを解決する鍵は自分の中にある』が大体の自身の心理的な問題の心当たりを探るのに非常に役立っています。
人間は幼少期の出来事や環境が人格形成に大いに影響を与える、という前提に書かれており、自分の子供時代を振り返るワークを事前に行っていたお陰でスムーズに回答できました。

そうでなければ、私は妹以外は何の問題もなく円満な家庭だと思ってきたので、両親に何等かの非があるような発想が微塵も出てこなかったと思います。
虐待されたこともなく、自分を愛してくれていると自信が持てる程の愛情を注いでもらった思い出がいくつもあるのに、自分の家庭環境が抱えている苦しみの原因の一端だと考える訳がない。

私は、両親がこれまで必死に働き、たくさん悩んで最適解だと思った方法で私を育ててくれたことを、大人になってから聞き出しました。子供の頃はこちらが気を遣わなくていいように、と自由意志を尊重してくれたため、少しも知らなかったからです。

それなのに、両親の努力が私のせいで間違いだったと否定するような気がしてワーク中は号泣したので、誰かに積極的におすすめできることではありません。
しかし、記載のメソッドに則って考えれば考えるほど心当たりはこれらしかなく、主観的な事実としてこの時には冷静に認識していました。

宿題や習い事の練習など、抱えている課題を放置することや、「やる」と言い出したことを放棄することに対し、両親には厳しく𠮟られてきました。両親共に理屈屋の傾向があり、誰がどう聞いても十分に筋が通った「正論」で私の過ちを指摘されて育ちました。
大人になって思い返してもそれが間違っていたとは思いませんし、至極真っ当な教育を受けてきたと思っています。

しかしこれは私に対してだけでなく、両親が社会で関わっている同僚や部下、ご近所の方などに対してもそうだったのです。
私の共感力や慰めるコミュニケーション能力が低いこともあり、別に家庭内でのケア要員になっていた訳ではありません。家庭内でぼやかれる愚痴の量はそこまで多くはなかったと思います。

それでも父や母の目線から筋の通っていないこと、非合理なこと、無責任なことに対して憤りが滲む話を聞く度に、子供ながら「社会にはそんな悪い人がいて、その人たちはこうやって非難される対象なんだ」と無意識に蓄積されていったのだと推測しています。

また、これは親の良くないところなのですが、精神的な問題・疾患などへの理解が乏しく、そういった原因から社会的弱者になった人への偏見が垣間見られる発言を度々聞いてきました。
特に母は自身が努力の末に厳しい環境を生き抜いてきたため、他人を見る目が厳しい傾向にあります。自分が苦しい中でやり遂げたという経験から、母の目でそれよりも努力していない人間に対して昔から寛容になれないようです。

まとめると、他人に非難されそうなミスや至らなさを披露してしまう度に、最悪の場合、職を失って両親が非難するような弱者になって自立できなくなった時、見捨てられるのではないか、と怖がっているため、自己受容が難しい状態にあると考えます。
ありのままの自分では至らない点が多すぎるから、それらを改善または努力している姿勢を見せていないと、唯一安心して受け取り続けてきた両親からの愛すら失うのではないかと思い込んでいるのです。

これまで両親は私が頑張ってもどうにならなかったことを認めなかったり、非難してきたことはありません。
勉強も運動もそんなに得意ではありませんでしたし、人生で何らかの1位を取ったこともあまりなかったです。前回より上を目指すようにと促されたことすらもない。
それなのに、両親が私ではない他人に対して見せた憤りから私が膨らませた想像を、リアルに感じて勝手に怖がっている。

思い込みってなんて恐ろしいんでしょう。

心当たりの2番目についてはもっと単純です。
愛情深い両親が作り上げた「自宅」という絶対安全領域に、妹というぽっと出の侵略者が現れた、という話です。

幼児期は興味を持ったことを何でもしたいし、我慢なんてしないのが当然の時期です。
両親が絶対に尊重してくれるという安心感の元に数年過ごしてきた私に、妹という「絶対的な弱者」という最強の免罪符を持った存在が、覚えたてのハサミで私の大切にしていたものを切り刻んでしまったことがあります。

このとき、私の認識していた「自宅」は安心安全な場所ではなくなり、妹が出入りできるところにあるものは警戒を怠らないようにしなければならなくなったのです。

あまり当時のことを詳しく覚えている訳ではないのですが、私は妹と完全に距離を置き、その後20年「おはよう」や「おかえり」の挨拶すら一切交わさない冷戦状態に突入するくらいには怒りと衝撃を覚えました。

(もちろんこの時のことだけでそうなった訳ではなく、その後幾度となく許せない事件が勃発していました。このnoteでは詳細はあまり関係がないので割愛しますが、現在では雪解けを迎えることを選択し、徐々に関係の修復に向けてお互いが努力をしているところです)

何が言いたいかというと、この時点で幼少期の小さな社会に生きる私にとって「自宅」が安心感を得られる場所ではなくなりました。そのため、私自身の安心感が欠如した、という意味で心当たりとして挙げています。

3番目については、「学校」が常に安心できる環境ではなかったということです。

そもそも私はあまり友人を作るのが得意ではなく、ほぼ毎年発生するクラス替えにより、幼稚園の持ち上がりで仲の良い友人とクラスメイトになれず孤立しがちになりました。
それに加えて親の仕事の都合で転勤が多く時に引っ越しを伴うこともあり、折角友人ができても人間関係が強制的にリセットされる状況にありました。

一人でいいと胸を張れるような性格でもなく、クラスカーストの底辺あたりで黙っているか、へらへらしているかのどちらかであることが多かったです。
そのため安心できる人間関係を長期間継続することが難しく、高校生になるまでかなり頭を悩ませた記憶があります。

人間関係が上手くいかない私は、たまにテストで良い点が取れても、明日の体育のペアを誰に組んでもらえるか悩むような状況で、帳消しどころか常にマイナス状態のような自己認識でいました。

書き出してみればこうして心当たりはあるのに、キャリアコーチングを受け始めるまで、「私はこんなに恵まれているのに、何故こんなに生きづらくて、自信がなくて、嫌なやつなんだろう」と不思議に思っていました。
私が自分と向き合う覚悟を持っていたからこそ、そもそもの根っこの問題に触れられることができたのだろうと今では思います。

安心できたら期待できる未来

初回の最後では、「自分が理想としている状態が得られたとき、どんな良い未来があるのか」について問いかけられました。

私の場合は「ありのままの自分で安心できたとき、どんな良い未来があるのか」ということですね。
ここまでの問いとは違って即座に答えが出なかったです。そもそも前提が具体的にまだ想像もついていないので、それがもたらす効能に目をむけられていないという状態でした。

うんうん唸りながら何とか絞り出したのは下記の通りです。

  • 無理や背伸びをしなくて済む

  • 物事を素直に受け止められるようになる(現状は裏を読もうとしたり、言葉の通り受け止められないことがある)

  • 現状のままでも良いが、更に上を目指して出来なかった時も安心していられる

  • 主観的に自分の欠点を特徴として認識し、マイナスだと思わなくなる

  • 出来なかった自分を責める時間がなくなる

  • プレッシャーを感じなくなる

  • リソースや能力的にできる努力をしなくても、何をしても良い

  • 生きやすくなる

  • パフォーマンスが上がりそう

ここまでで最もふわっとした答えの羅列になりました。
イメージできないけど何となく「光」と、ほぼ言い換えられる気がします。

これらを捻りだしている時にトレーナーさんがしてくださった「明るい未来に繋がらないことは考えなくて良い」という話にハッとしました。

(コーチングとしては始まったばかりですが)ここまで自分と向き合い、振り返る中で苦しい瞬間もありましたが、どんなに理に適ったことでも、やり遂げた先に明るい未来が待ってないなら目指さなくていいし、やらなくて良いのだと。

私がキャリアコーチングを受けようと思った動機は、マイナスをゼロにして安心するため。
これまで安心するためだけに同じトラックを走り続けるマラソンを繰り返していたので、明るい未来が待っているかどうかなんて考えたこともなかったです。

だってゼロ地点はあくまでゼロで、プラスではないから。
だからこそ、明るい未来の想像が難しく、「現在よりも良さそうな気がする」くらいの曖昧なイメージの話にとどまっていたのでした。

私にとっての安心は幸せと同義。
幸せになりたくて動き出したのに、全然幸せな未来のこと考えてなかった。

安心感が増える未来は私にとって、目指したい未来だし、幸せに近いというのは確信を持って言えます。
ただそれがどんなことなのか、まだ具体的な話をするのは難しい。

トレーナーさんからは「コーチング期間の中で具体的にゴールに辿り着くまでに必要なことを考えてることはできても、実際に気持ちが追いつくのには時間がかかる」と言われています。

コーチング期間は35日。
これまでに放置していた思い込みを完全に解消するのはこの期間では無理。
なので、どう付き合っていくのが良いのか、どこを目指していくのが良いのかを一緒に探っていくのが主題だと。

私が幸せな未来を考えることが難しいのは、感情的に追いついていないからで、この状態は何もおかしくはないじゃないかと、少しほっとしました。
同時に初回時点でここまで深堀りできるコーチングに感動と、今後の期待ができてその点でも安心しました。

面談2回目 ー思考の癖とインナーチャイルドー

今回は思考の癖について考えていきました。

思考の癖

思考の癖とは、考え方のお決まりのパターンのようなものです。

人はそれぞれ同じ事象を目の当たりにしても解釈や認識が異なります。それは各々が持っている思考の癖が原因なのです。

1番簡単で分かりやすいのはポジティブ/ネガティブ思考だと思います。
例えば、ハイリスクハイリターンの仕事を任せられるとして、ハイリターンに注目して挑戦したくなるのか、それともハイリスクに注目してどうにかやらずに済ませられないかと考えるのかは、思考の癖が作用していると言えると思います。

認知の歪みにも繋がることがあり、自分が今抱える不安や心配に大きく影響を与えています。
(詳しくは「思考の癖」で検索していただいた方が確実と思います)

私の思考の癖は「自分自身や、自分に関係するマイナスをゼロ地点になるまで改善したい」というものです。

日常で頻発する例で言うと「LINEの未読を溜めていられない」ということです。
常にバッチが無い状態にしておきたくて、通知が来たらすぐに確認して必要なら返信するなどのアクションを起こしています。
要するにタスクが溜まっていない状態で長く過ごしたいのです。

すぐに行動することがベストではないときは「リマインくん」というリマインダーや、「Google keep」というタスク管理ツール、スケジュールアプリなどを活用し、一旦今すぐやることではなくすることで、私の認識上の「ゼロ」をキープできるように行動しています。

もっと人格形成に関連する例で言うと「自分の欠点や弱点を克服したい」です。
例えば、恋愛経験が少ないと痛感すれば、自分が恋愛を通じて求めている関係性を自己分析し、マッチングアプリでその条件に合致する相手と出会い、二度告白して付き合うことに成功しました。
他には、他人と接することが苦手だと思い、学生時代は接客業にこだわって合計4年間バイトして、以前よりは初めての相手とコミュニケーションが取れるようになりました。

私にとって「マイナス」は着火された爆弾のようなもので、いち早く手元から離して、爆発に巻き込まれないようにしたい、という気持ちでいっぱいになる「不安要素」と感じています。

割といつも何らかの不安感を抱えがちで、更にマイナスをゼロにするための行動力もある方だと自負しているので、「マイナスを発見」→「今なら改善行動ができる状態だ」→「改善行動」→「新たなマイナスを発見」→「今なら改善行動ができる状態だ」→「改善行動」……の繰り返しをしてきました。

20代後半まで目先のマイナスに夢中になってばかりで、薄々ループの先には文字通り何もないと感じてきたのが最近の話。
というのも、以前は一旦「ゼロ」だと思っていたものが、時間が経ったり環境が変わると、また「マイナス」に下りてきてしまう状態になってきたからです。
こうなってくると私の認識上の「マイナス」を追いかけてばかりでは、つまりはこのループから抜け出さなければ、私の未来は不安感に苛まれ続けることになりそうです。

しかし世界は、そもそもマイナスなどなくて、改善しなければ幸せに生きられないということもないらしい。

ありのままの自分でいても爆発したりしない、そもそも爆弾なんて存在しないということを、自己学習やここまでのコーチングの中で気づけたものの、それだけで何年もかけて染みついた癖がすぐに消える訳はありません。
なんなら「私のありのままって一体何?」「どういうことがありのままなの?」「現状維持と何が違うの?成長しないってこと?」とそもそも「ありのままが分からない」状態に陥りました。

でも「ありのまま」ではない自分になろうとしている現在は苦しい。
これが一生続くのかと思うと絶望感でいっぱいになる。
「ありのまま」ならこの苦しみは消えるんじゃないかという期待がある。

そこで、私の思考の癖がどういう要素で構成されているのか、更に深掘りすることになりました。

インナーチャイルドと妨害者

思考の癖のヒントはインナーチャイルドが持っているそうです。

インナーチャイルド(inner child)とは、自分の中にある「内なる子ども」のことです。ふだん大人として生活している私たちは、どこか子どもの部分を覆い隠して「大人を演じている」ものです。大人の部分が、ふとした拍子にはげおちると、そこからインナーチャイルドが出てきます。インナーチャイルドの本質は衝動でもあります。

非営利活動法人 日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン, "用語集 インナーチャイルド", JUST, https://www.just.or.jp/?terminology=000754 , 2024/11/19参照

まずは自分のインナーチャイルドがどういう時にどういった感情を抱くのかについて知るため、幼少期に辛かったエピソードを振り返りました。

基本的には6歳までの出来事が該当するのですが、幸せなことに私の場合はこの期間にそもそもあまり辛いと思った経験はなくて、楽しい思い出も含めて記憶がほぼありませんでした。

最も古くて小学校入学直前、それ以降の記憶も断片的にしかなかったため、小学校卒業までについて思い返すことになりました。
前回の面談で見つけた心当たりと合わせて、トレーナーさんと一緒に整理していきます。

これにより、自分の思考の癖を助長している「妨害者」について認識することができるようになりました。

どうやら人間には幼少期に起きた出来事によって、本来の自分が持つありのままの気持ちに対して、防衛本能によって反論してくる「妨害者」が形成されているそうです。

自分の心が自分の最大の敵であり、私たちの心の中には私たちの幸福や成功を意図的に妨害するいくつかの人格が隠れているということ。そしてこれらの妨害者を見つけ、弱めるのは決して難しくはないこと。

シャザドチャミン『スタンフォード大学の超人気講座 実力を100%発揮する方法』(Kindle版), ダイヤモンド社, 2013年, p.27

妨害者は全部で9つのタイプがあり、事前ワークで診断しました。基本的に全てに心当たりはあるのですが、中でも特に強く働きかけてくるものを確認します。

私の場合、10点満点中8.5点を記録した「こわがり」「潔癖症」「八方美人」が最も高く、3つが同列1位でした。
また次の順位は8点で「理屈屋」があり、どうやら合計4つが私の無意識に特に影響を及ぼしているようです。

最も多くの場面で出現するのは「こわがり」です。

こわがり

説明
人生におけるあらゆる危険に極度の不安をもち、最悪の事態ばかり考えている。心配が絶えることがない。

特徴
・常に不安にさいなまれ、いつも自分や他人を疑ってばかりいる。
・危険のサインに対して異常に神経質である。
・いつも災難や危険が起こらないかと恐れている。
・他人のやることに懐疑的。人はみな、災難を持ち込んでくると信じている。
・手続き、規則、権限、制度などに従っていると安心する。

シャザドチャミン『スタンフォード大学の超人気講座 実力を100%発揮する方法』(Kindle版), ダイヤモンド社, 2013年, p.76

本当に私の思考のベースはこの通りだと感じていて、あまりの一致に恐怖すら覚えました。

小さい頃の私は、年々人前で何かを発表する機会や人との関わりが増えて、人並みに失敗しては家に帰って、当時は専業主婦だった母に甘えて安心感を得ていたんだと思います。
母の前では私の失敗は悪いことではなく、そのまま受容されて慰められる、そういう平和なループの中で安心感があったはずです。

ところが絶対的に安全だった家の中が、妹の誕生から一変します。
第一子だった私は妹が生まれる6歳まで一人っ子で、母の注目も関心も何もかも一身に受けていました。
しかし、赤ん坊が家にいることで、母は必然的に妹を優先しがちになります。

とはいえ、これは母の尊敬しているところなのですが、赤ん坊の世話で大変だろうに、私を蔑ろにすることはありませんでした。
幼い私の「妹と私のどちらが好きか」という質問にも「両方だ」と必ず答え、成長するにつれて手がかからなくなっていっても「私はちゃんと見ている」と気にかけることを忘れませんでした。

お陰で幼心に衝撃こそ受けたものの、暫くは家の中も平和が保たれていたのですが、妹が一人で歩き回れるようになったことで、面談初回での心当たりの通り事件が起きました。

当時母に慰めてもらったはずですが、幼い妹に道理など分からないし、対策もお粗末で実質意味がないものだったため、長い間私の心にやり場のない怒りを残します。

これ以降、家の外で抱いた不安を家の中で安心させることが十分にできず、常に警戒したまま生活することになり、それが「こわがり」の傾向を獲得していったのだと思います。
発端は妹の存在だと確信していますが、他の心当たりの通り安心し続けられない環境に身を置いてばかりだったことも影響していたのかと。

現在に至るまでその傾向は緩和されることなく、強弱こそあるものの、完全に1人で過ごす休日以外はほぼ常に発動しています。

こわがり」によって、自分以外の手を借りられず安心できる場所が少ないので、不安が強まってくるとそのまま自分の中に抱えておけず、安心できる形に整えたい気持ちが生まれてきます。

そこで、恐らく次に生まれたのが「理屈屋」です。

理屈屋

説明
人間関係も含め、あらゆることを合理的に処理しようとする気持ちが強い。冷たいとか、よそよそしいとか、傲慢だとか見られがちである。

特徴
・集中力が高く頭の回転が速い。傲慢不遜、秘密主義と見られることもある。
・閉鎖的でたいていの人に本心を見せようとしない。感情を見せるのは思考に熱中したときのみ。
・周囲の喧騒を遠くから眺めて分析するのが好き。
・ものごとに集中しすぎて時間を忘れることがある。
・疑ぐり深く議論好き。

シャザドチャミン『スタンフォード大学の超人気講座 実力を100%発揮する方法』(Kindle版), ダイヤモンド社, 2013年, p.74

少しでも不安を軽減するために、不安を自分の中で扱えるように理屈で説明づけるようになったのだと考えています。

例えば、普段からクラスメイト3人で仲良くしている時に、2人組を作ることになり、グループの1人が私ではない方を誘う状況があった場合。

大抵深い理由がないことが多いですが、もしかして孤立するのかもしれないと怖がり始めたとき、選ばれなかった合理的な理由や対策を考え始めます。

直近の会話で私に至らないことがあったのかもしれない
→〇〇ちゃんは冗談にもっとノリ良く返してほしかったのかも
→次からはもっと瞬発力を上げてテンポ良く返せるようにしよう。冗談についていけるようにバラエティ番組を見ておいた方が良いのかもしれない

といった具合に。

これが私の問題解決に積極的である思考の癖が形成された主な原因と推測されます。

こういった原因と対策を考える――というと大層なように聞こえますが実際は上記の例のように些細な事――のは文字通り癖になっていて、頭の中で「ああ言われたらこう返そう」「ああしたら次はこうやろう」のシミュレーションをしていることが多く、私には分からない相手自身の考えや気持ちまで勝手に予想して自己完結してしまい、コミュニケーション能力に自信が持てない一因でもあると感じています。

一因と言っているのは、対人間関係に対して「八方美人」も加担していると思われるからです。

八方美人

説明
人を手伝ったり、喜ばせたり、助けたり、ほめたりなどの間接的な手段で受け入れられよう、愛されようとする。自分が何をやりたいのかわからなくなり、その結果、不満をもつようになる。

特徴
・人に好かれたい思いが強く、愛情を得ようとして人を手伝ったり、喜ばせたり、助けたり、お世辞を言ったりする。
・他人から受け入れられているか、愛されているかをたえず確かめずにいられない。
・自分の欲求をオープンかつ率直に表現できない。むしろ相手がお返しをしなければと思うよう仕向ける。

シャザドチャミン『スタンフォード大学の超人気講座 実力を100%発揮する方法』(Kindle版), ダイヤモンド社, 2013年, p.68

相手が望んでそうなことを、明確なコミュニケーションを取っていないにも関わらず、自分の中で想像して行動に移す。
それだけならともかく、相手が私の行動に気づかなかったり、蔑ろにされると不満そうにしてしまう厄介な出方をする妨害者だと個人的に思っています。

小学校の頃、元々毎年のクラス替えも嫌でたまらなかったですが、人間関係が複雑になり始める時期に転校を経験しており、出来上がった人間関係に参入しなければならなくて苦戦したことが大いに関係していると予想しています。

ただでさえ不安を抱えていられないので行動しなければならない
→相手の顔色を窺って不正解でなさそうなアクションをするのが手っ取り早い
→思ったよりも仲良くなれない
→こういうアプローチが良いのかもしれない

………とタイミングを伺いながら、何かの拍子に居場所を得られるまで繰り返していた気がします。

私の頭の中にある相手に合わせて動くので自分に自信もないし、軸もなくて相手が思ったよりも喜んでくれなかった時に不満に思うし、やってる割に良いことが少ないというループに追い込むのがこの妨害者の嫌なところだと認識しています。

最後の妨害者「潔癖症」については、特に私の機嫌を左右してくる要素だと思っています。

潔癖性

説明
完璧主義で、行きすぎなくらい整理整頓にこだわる。

特徴
・時間にうるさい、几帳面、完璧主義。
・いらいらしやすい、神経質、頑固、皮肉っぽい。
・自分にも他人にも厳しい。
・自分をコントロールしよう、抑制しようという欲求が強い。
・他人のいい加減さや怠慢が気になって残業しがち。
・他人からの批判に極度に敏感。

シャザドチャミン『スタンフォード大学の超人気講座 実力を100%発揮する方法』(Kindle版), ダイヤモンド社, 2013年, p.66

私の視点ではこれが本当に昔は強くて、大学生以降年々弱まってきて現状8.5点にまで下がってきたように思うくらい、自分の嫌なところの塊です。
八方美人」で他人に迎合しようとするくせに、「潔癖症」で他人のことを嫌いになる、という気まぐれさを見事に実現していると考えています。

また、前述した後輩指導が上手くいかない、当たりが強くなってしまう、の点にはこれも作用している可能性があります。

自分の足りていない部分に向けてアプローチをしているが思うように報われないことが多い
→他の人の欠点が目につきやすくなる
→それに対して何の努力もしてなさそうに見えると噛みつきたくなる
→他人に厳しく、それを求める自分にももっと厳しくなる

といった最悪の先輩/同僚の具合。
身も蓋もない言い方をすると、「自分の不満を他人にも向けて勝手にイラついてる」ということですから、客観的に考えてもチームにいて欲しくないなと思います。
そう思われることを怖がっているのに、自ら原因を作り出しているということなので、永遠に怖がれそうで嫌になります。

これらの4つの妨害者によって私の思考は「抱えた不安はなる早で解消できそうな方法で潰したい」「それをしていない人が甚だ疑問」「好かれたい人に好かれるように行動せずにいられない」と歪んでいったものと推測できました。

基本的に発端になるのは「こわがり」なので、どの考えでも根底にあるのは「安心したいのにできなくて不安だ」という気持ちです。
これが変わらない限りは、私は今までの思考を無意識に繰り返してしまうことが容易に想像できます。
それでは不安に取り込まれたまま、死ぬまで安心を求め続けるだけの人生になってしまう。

この不安を解消するにはどうしたら良いのか。

インナーチャイルドと付き合っていく

ここでインナーチャイルドへのアプローチが必要になってきます。

もし私ととても仲が良く、私と全く同じ状況におかれ同じ経験をした子供がいたら、その子を安心させるためにどんな対応をするか、というシミュレーションを通して行いました。

これが自分のインナーチャイルドと付き合っていくための方法を考えるための手段と自己学習で知っていたのですが、事前に自分一人でワークを行った際には上手く答えが出せませんでした。

私のインナーチャイルドが抱えている不安は全て、当時の自分ではどうすることもできなかった環境に振り回された結果、と考えると、パッと浮かんだのは、「大人になれば自分で身を置く環境が選べるから今は辛抱だ」でした。
ただ、それは当時の自分に言っても何も解決になりません。だってその時はこの世の終わりなんじゃないかと思うくらい悩んでいるのですから。恐らく、いやほぼ確実に失望した顔するでしょう。

となると、
・不安な気持ちを吐き出させて、抱きしめてあげる。
・そばにいて受け止めてあげる。
といった寄り添うアプローチが思いつきます。

その状況を変えることは出来ないし、例え変えられたとしても不安を抱いたことには変わりない。その気持ちを受け止めて、状況に向き合って進めていくための手伝いをしてあげるしかない。

この考えに行き着いて初めて他人に寄り添う意義が理解できました。

実はこれまで私には人に寄り添ってケアすることに対して、何の解決にもならないじゃないかと、あまり有用性を感じられませんでした。

体育祭のリレーで途中こけてクラスの順位をビリにしてしまったクラスメイトが泣きじゃくる隣で、上手く慰められずにおろおろしていて、応援席から見ていた母に後から「あんたは冷たい」と指摘されるような経験を持っているくらいです。

そういった経験の積み重ねで、どうやら「辛そうな人間には寄り添った姿勢を見せるのが正しい」のだと学びました。本当はどうでも良かったとしても、出来る限り思いやっているような言葉と態度を示すように心がけてきたのです。
しかし、心の底ではこれが必要な理由って何なんだろうと思っていました。

人が辛い目に遭った時、次の行動に移るために必要なメンタルを整えることがここで言うケアの成せる技なのだと、ようやく分かったのです。

30歳になってようやくそれが分かるくらいなので、私は今まで自分で自分のことをケアしてこなかったのではないかと気が付きました。
思えば今まで「逃避」か「対策に没頭する」ことで辛さを誤魔化してきたように思います。

「逃避」は文字通り現実逃避です。物語の世界やゲームの爽快感などに没頭し、現実から目を背けることですり減った精神を回復させてきたのだと思います。
「対策に没頭する」は、また同じ目に遭った時にどうするのか頭の中でシミュレーションを行ったり、実際に解決策を実行に移したりすることです。それに注力していることによって、辛かった自分から意識を逸らして、努力していることで自分を肯定していたのでしょう。

家族や友人に愚痴を言って共感してもらうことはありましたが、これはケアのカツアゲのようなもので、他人に自分を癒してもらおうという魂胆に過ぎないように思います。自分で自分を癒せないから、他人を利用して安心感を得ていたのです。

「自分で自分の機嫌を取る」という言葉がありますが、私は機嫌を取るのではなく、私自身の悲しさや苦しさを受け止めてケアする術を学び、実践を重ねるべきだったのかもしれません。そうすればもっと思考の癖を拗らせることなく、自縄自縛に陥らなくて済んだのかもしれない。

続いて、前述の方法でインナーチャイルドが不安を解消して、大人へと成長した場合、どんな人になりそうだと思うかについて考えていきました。

これもまた、自己学習で事前に取り組んだときにはさっぱり浮かびませんでした。そもそも前段が出来ていないからというのはありますが、自分で自分の感情に上手く向き合ってケアできた覚えがないので想像がつかなかったのです。

こういう点にキャリアコーチングの価値があると感じました。
自分で安くないお金を払って、トレーナーさんに限られた時間の中で付き合ってもらっているという状況だからこそ、中々導き出すのが難しいことも、逃げずに真剣に考えて捻り出せたと思っています。

そうして私が挙げたのは下記の通りです。

・つまづきながらも前に進める人
どんなところに身を置いても失敗やミスをすることはあると思いますが、それに引きづられて自分が自分の敵になって責めたりしない。
あくまで事実を受け止めるだけで、自己否定せず先に進むことができる人。

・穏やかな人
自分の不安を見せかけの安心に整形するではなく、そもそも不安に思う必要がないと気づき、心穏やかに過ごすことができる人。

・自己主張ができる人
空気や相手の顔色を見たことで、自分の頭の中で想像した相手像に合わせ、自分の思いや考えを引っ込めることで自分を蔑ろにせず、相手に理解してもらえるように伝えられる人。

・自己決定権を行使する人
自分が環境を選び、自分の意思でそのまま継続するのか、別の場所へ進む/撤退するのかを決められる。他人軸で「こうした方がいいかも」と判断しない人。簡単に言うと自分以外の意見によって日和らない。

・嫌なことや欠点を過剰に認識しない、被害者意識を持たない人
嫌なことに注目しないことで、不安を抱え過ぎたり執拗な反省をしない人。暗い気持ちになる時間が最小限になり、他の前向きなことにリソースを割くことができる。

私が挙げた答えはいずれも、今の私が満足に出来ておらず、そうなりたいが中々いつもそうはいられない姿でした。

このワークの目的は、インナーチャイルドと上手く付き合えるようになった自分が、どういう姿でいられるのかをイメージするアプローチと思います。

自己矛盾に気づけたことで、今の私が不安を抱えやすいのは、私が私を不安にするように思考の癖が手助けしているからだということが理解できました。
そこから抜け出すには、挙げた答えの人物像に近づいていく必要がある。

そのためにはインナーチャイルドと上手く付き合う、つまり自分で自分のケアをできるようになる必要があるというところまで辿り着きました。

しかし、私は30年それが出来ていないからキャリアコーチングに駆け込んでいるのです。

では、どうしたら良いのか。

トレーナーさんから「自分の思考の癖と上手く付き合っていく」ことをアドバイスいただきました。
私に必要なのは「課題の分離」という考え方です。

課題の分離

私の不安は、基本的に他者の真意や考えが分からないことで生まれています。

他者は自身の考えや気持ちを表明しないこともあれば、したとしても本音や真意ではないことが多々あります。
私は社会生活の中で相手が発する言葉や態度、これまでの経験則によって予想し、その想像上の相手に合わせて自分がどうするのか決めることが多いです。要するに相手が本当に求めていることかどうか、充分に確かめずに思い込みで行動してしまっているのです。

これにより、相手の期待に応えられなかったり余計なことをしてしまう、という事態が発生して、自分の思うようにならないという結果から、不安を募らせる状態に陥っています。

相手が表明していないこと以外を汲み取ろうとするのを一切辞めて、きちんとコミュニケーションを取れば良いように見えますよね?
どんな状況でも常にそうすることができていれば、私もこのループにハマってはいないと思います。
私が生活している上では、それができない状況というものはどうしてもあり、思考の癖と常に上手く付き合おうとすると上記の対策だけでは不十分です。

ここで「課題の分離」です。
私の不安の発生源は「相手の課題と自分の課題を混同している」ことにありました。

例えば、私は会話の中で相手の振ってくれた話題に対するリアクションが上手くできなかったと後悔することが多いのですが、私の返しに対して相手がどう思ったとしても「相手の課題」なのです。

物事への認知は個人単位で発生しており、相手の受け止め方は相手自身にしか分からないし、相手自身を変えることは相手にしか出来ません。

それを私が、
 どうにか良い印象を持ってもらおうとする
 →結果が相手自身にしか分からないので不安が残る
と連鎖しているのが例で起きている事象です。

課題を切り分けできず、私の目線で「相手はこう思ったかもしれない」と私の頭の中で想像する相手像に投影して不安がっている訳です。
過剰に相手の反応を追ったり、それをどうにかしようとすること自体が、相手に対して踏み込み過ぎだしナンセンスな行動ということ。

他者の真意が分からないからこそ、あれこれ対策をしなければならないと思ったり、不安がって逃避したりしていましたが、そもそも相手の問題であるからと切り離すことができれば、それらは全てやる必要がないし、もっと健全に自分のことだけに集中できます。
それは、私がインナーチャイルドをケアできた姿に近しい状態と言えるのです。

他者の課題に介入すること、他者の課題を抱え込んでしまうことは、自らの人生を重く苦しいものにしてしまいます。もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら——その悩みは対人関係なのですから——まずは、「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知りましょう。そして他者の課題は切り捨てる。それが人生の荷物を軽くし、人生をシンプルなものにする第一歩です。

岸見 一郎, 古賀 史健『嫌われる勇気』(Kindle版), ダイヤモンド社, 2013年, p.127

なんて素晴らしい「課題の分離」という発想。

――と手放しで飛びつきたいところですが、そこで浮かぶのは、「他人への思いやりや寄り添いは必要ないのか」という疑問です。

フィクションでは往々にして傷ついた他人に寄り添うことは美しく正しいことと描かれるし、世間の反応もそれに準じていると認識しています。
ここで言う課題の分離の則ると、傷ついたことに対してどうにかするのは他人の問題ということになります。そうなると、そばにいてあげたり、話を聞いたり、気晴らしにどこかへ連れて行ったり、そういった行動は他者の問題に踏み込んでいるように思えます。

トレーナーさん曰く、思いやりとは、自分がやりたくて行動に起こしたことが、結果的に他者にとって良い効果をもたらしているだけ、とのことでした。
あくまで自分が自分のために最も取りたい選択肢を実行して、その結果、相手にとって有益なものにもなったら良い、というだけなので、相手からの反応を期待して行うことではないという訳です。

「課題の分離」についての出典にもこのようにありました。

青年 じゃあ、子どもがまったく勉強していなかったとしても、それは子どもの課題なのだから放置しろ、と?

哲人 ここは注意が必要です。アドラー心理学は、放任主義を推奨するものではありません。放任とは、子どもがなにをしているのか知らない、知ろうともしない、という態度です。そうではなく、子どもがなにをしているのか知った上で、見守ること。勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助をする用意があることを伝えておく。けれども、子どもの課題に土足で踏み込むことはしない。頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけないのです。

岸見 一郎, 古賀 史健『嫌われる勇気』(Kindle版), ダイヤモンド社, 2013年, p.123-124

もし本当に誰かにとって万一のときに助けになれる人でありたいと、心の底から思うのなら、何かが起きる前から信頼関係を築き、助けを求めてもらえる存在であり続けることが「思いやり」であり、他人に寄り添う第一歩なのだと。

確かに、相手が困ったときにだけ話しかけたり、逆に日頃何の接点もない人に助けを求めるのも変ですよね。(緊急性が高い場合は別だと思います)
日頃から気にかけていることを伝えている相手に頼ろうとする方が、本来の健全な人間関係だとコミュニケーション下手な私でも分かります。

ここまで他人の課題の話ばかりを例に挙げてきましたが、自分が不安にならない健全な人間関係を構築するには、自分の問題に踏み込ませないことも重要と伺いました。

相手の問題が相手自身の問題に他ならないように、自分の受け止め方も自分だけのもので、どう認識しようが自分の問題に他なりません。

例えば私に対して「大した困難もない人生のくせに、何でもかんでも不安がっていて変!何でそんなに被害者意識を拗らせているの?」と誰かが言ってきた場合。

私が不安がってばかりなのは私の問題であるため、その誰かの問題ではありません。その発言に「不安がっていることを直さないと変だと思われるんだ。どうにかしないといけない」と思うのではなく、「あなたに言われる筋合いはない」と、私の問題に踏み込ませずブロックして良いのです。
また、その誰かが私のことを「変」だと受け止めて指摘したことは、その人自身の問題だと切り分け、自分の課題にする必要はありません。

そこまで聞いて、私は自他の境界が曖昧だったのだと思いました。
自分の考えを相手に投影して、その像に媚びて上手くいかなくて不安がっているのもそうですし、他人に踏み込まれて不安がることを回避したがっているのに、他人の課題に首を突っ込んで自分から不安になりにいっていた事例がたくさんあります。

自分も他人もちゃんと見えておらず、自分の頭の中の不安のループに自ら飛び込んで、視野が狭いどころか内向きを極めて、一体どこで生きていたんでしょう。

20代でいろんな世界に飛び出してみて、自分の視野が広がっていったと感じていましたが、そもそも自分の頭の中以外殆ど見ていなかったのかもしれません。私の場合、思考の癖を認識しない恐ろしさはそこにあると思いました。

面談3回目 ー核心に辿り着くー

今回は仕事における自分のモチベーションと強みについて考える回でした。

前の2回は自身の内面に眠るマイナス面の根幹に触れて整理していく作業が多かったですが、今回からようやく「キャリア」についてフォーカスして、自分の出来ること、苦手とすることを棚卸することになりました。
が、ここまでの伏線回収が行われる回でもありました。

仕事のモチベーションと思い込み

まずは、モチベーションについて。
人は誰しもイキイキと行動しているとき、モチベーションが高いもの。
そういうときには自身の強みが勝手に発揮されているとものだと聞きました。仕事の環境でもモチベーションを高められる方がやりがいに繋がるはずなので、まずは自分が何をモチベーションにしているのかについて考えていきました。

いくつかモチベーション例を出していただき、該当するものがないか自分の中で心当たりを探していくと、どうやら私は「貢献感」と「没頭感」がモチベーションになると分かりました。

貢献感」とは、自分の仕事が周囲の人々(同僚、上司、社内顧客、社外顧客など)や社会に役立っていると感じていることで醸成されるモチベーションです。

私の場合、社会や顧客というよりは、チームやグループのメンバー、直属の上司など、身近な社内の仲間に対して貢献したと思えると、モチベーションが上がります。

自分の働きが評価・感謝されることもそうですし、以前よりも自分の出来ることが増えて、任せてもらえる業務の幅が広がることで、業務負担が高まっていたメンバーから仕事を巻き取れるようになって、チームに役立てていると「私が」思えることが重要です。

必ずしも他者からの評価は必要ではなく、あくまで自分が貢献できたと思えなければ、いくら褒められたり給料が上がったとしても、あまりモチベーションには繋がりません。自分が役立ったと実感できなければ意味がないので、セルフ評価が鍵になります。

もう一つの「没頭感」は、好きなことや、やりたいことに集中することで、醸成されるモチベーションのことを指します。

誰にも話しかけられず、一つの仕事に没頭できることも楽しいです。例えば煩雑な対応をマニュアル化したりナレッジとして残す時、原因究明のために仮説を立ててそれを立証する証拠集めをする時など、一人で集中してやり遂げられると充実感を覚えます。

私は未読のバッジや通知を放置することが苦手なため、何らかの連絡が来ると真っ先に確認してしまうのですが、それをおして没頭したときの楽しさは、あまり仕事と意識していない節があります。

ただし「没頭感」については、その先に「貢献感」があることが前提です。
没頭してやり切った仕事が役立てるからこそモチベーションになり得るので、どちらかというと「貢献感」を重視しています。

逆に「貢献できていないのではないか」と思うようになると、不安から焦燥感に駆られます。何か対策をせずにはいられないという焦りです。
これは仕事上の評価が下がるのではないかという気持ちが原因だとピンときました。

仕事なので給与をいただく分、会社の基準で成果を出すことが求められているため、ただ規定の通りに出勤してパソコンに向かえばOKではないことを強く意識しています。これにより大した仕事の出来ていない自分の状況を怖がりだしているのです。

この気持ちについて順番に紐解いていくと、「私が自己受容できていない原因」の心当たり1つ目と繋がってきました。
どうやら以下のように思考が進んでいって不安や焦りに着地しているようです。

自分の仕事の評価が下がる
→最悪の場合クビになるかもしれない
→自分のような無能を雇ってくれるところなんてないかもしれない=無職になるかもしれない
→心身ともに健康で私の能力以外に何も問題はないのに無職だなんて両親は軽蔑するだろう
→両親が軽蔑するような自分は好きに生きていい訳がない

ここで一番注目するべきなのは、私の話をしているのに途中で両親という他人軸が出現しています。
要するに私が好き勝手に生きるためには「両親が認めないと思われる社会人像」という基準をクリアしていなければならないという絶対的なルールが私の中に存在していたのです。

この基準を下回ると不安でたまらず改善行動に走り、上回ると安心して自分の価値と自由を感じていられる。
私の中の妨害者たちがあれこれ口を出して、生存戦略的に私を守ろうとしていたのはこの基準を常に上回ることとイコールでした。

何故こんなに両親を気にしているのか。
ここまで自分の内面を掘り続けた私は、すぐ答えに思い当たりました。

幼い頃の私は、両親から認められないことには生きていけなかったから、です。
他の誰かに認められても、自分ではどうしようもない理由でその相手とは疎遠にならざるを得ない可能性があり、最終的に確実にそばにいたのは両親だったから。

親に見捨てられないために、私の中の妨害者は私を奮い立たせ、インナーチャイルドに構う時間がもったいないと、いち早く改善行動のポーズを取り、欠点を補うよう駆り立てられてきたのです。
両親には「〇〇を直したほうが良い」と言われた覚えがないのに。

ようやく私は、奥底に根を張っていた核心に触れることができました。

この基準の厄介なところは、あくまで「私の中にある両親像が認めなさそうな社会人」という曖昧な点です。
恐らく両親にここまでの話をすれば「そんなことはない」「私がどういう状態であっても愛している」と真剣な眼差しで伝えてくれるでしょう。

しかし、そう言われたとしても「本当はそう思っていないんだろう」と私の妨害者がマイナスな想像を両親に投影してしまうことが容易に想像つきます。

これについての対処方法は、認知行動療法に則って行動を変えて成功体験を得て変容していくことだ、とアドバイスをいただきました。
つまり、この基準が私の生み出した「」であることを、私が認めて実感していくしかないのです。

もう少し具体的に変容までのステップを文字に起こしてみます。

  1. ストレスを感じている時、つまりこの基準を下回っていると周囲に露呈しそうな場面で、特にこの基準が顔を出すので、基準を気にしているということを自覚する。

  2. 衝動的に取りそうになった選択肢を手放し、俯瞰して基準を取っ払って考えたベストな選択肢を行動に移す。

  3. 自分が恐れていた結果が現実に起きないという経験をする。

  4. 1-3を繰り返して"基準"が私の生み出した「嘘」であったと実感する。

言葉にすると自分が衝動的に生きていたことを目の当たりにして、私も動物だったんだなと思いました。怖くて焦っているから、とりあえず手っ取り早く解決できそうな手段選んでおこうと安易に繰り返してきたのが現在なのだと。

普通、認知行動療法は変容までに数年以上かかるものだそうです。
気長な対応方法のため、コーチングで提案しても途中で放棄してしまうことが多いのだとか。

せっかちな方だし私もやれるかな、と思いましたが、よくよく考えるとこの一連の行動について名前こそ知らなかったけれど、二度思い当たる経験があります。

それは妨害者「潔癖性」と「仕切り屋」を抑えることと、友達づくりです。

仕切り屋」は前述していませんでしたが、挙げた4つの次に多く、その差は0.5点のため、それなりに顔を出す頻度が高い妨害者です。

仕切り屋

説明
そもそもは不安から、状況をコントロールしようとしたり、他人を自分の思いどおりに動かそうとしたりする。そして思いどおりにいかないといっそう不安になり、苛立つ。

特徴
・命令したり先頭に立ったりしたい欲求が強い。
・他人とはおだやかな感情でなく、競争、批判、物質的利害、対立などをとおしてつながっている。
・わがままで挑戦的、ずばりモノを言う。人が居心地のいい場所でぬくぬくしているのが許せない。
・不可能に挑戦しているときほどファイトがわく。
・人と対立することで活気が出るし、対立をとおしてしか人と向き合えない。その過程で傷つく人がいることが理解できない。
・人を怖がらせる。攻撃的な言動のせいで、相手は叱責された、非難されたと受け止める。

シャザドチャミン『スタンフォード大学の超人気講座 実力を100%発揮する方法』(Kindle版), ダイヤモンド社, 2013年, p.80

前者は主に大学時代に経験しました。

高校時代までに自分が他人に頼れず、周囲もそんな私が全てやってくれるんだろうと一任して、グループでやらなければならないタスクを一人で完遂することが度々ありました。
グループワークとして出された課題にあれこれ口を出したり、メンバーのすることが自分の理想や要件に見合っておらず代わりに手直ししたりしたことで、誰もワークをやらなくなり一人で資料を作成した経験が何度もあります。

その度に「何故私ばかりやらなくてはならないのか」「何故メンバーは積極的に参加しないのか」と、メンバーが私のせいで参加しにくくなっているなどは考えず、自分の労力ばかり見て被害者意識を募らせてきました。

母も保護者会の活動や仕事などで、日頃から似たような状況に頻繁に陥っており、昔から何度も何度もこの趣旨の愚痴を聞いてきました。
母と私は似ているので、これについて母と共感して互いに慰め合ってきたのですが、高校生活も終わりの頃に突然気がついたのです。

母は私の30年後の姿ではないかと。
このままでは30年以上も同じような愚痴を言い続ける人生になってしまうのではないかと。

私は環境が一新する大学生活では同じ轍を踏まないよう、平たく言うと意識的にサボるようになりました。

複数人で何かをしなければならない時は第一声を上げない。
極力仕切ったりアドバイスしたりしない。
割り振られた自分の役割だけ全うする。
こだわり過ぎず必要最低限のことだけ行う。

こうしたことに注意して学部の授業やゼミ、バイトなどで、今までの自分とは真逆のことをするように心がけたのです。

就活の時にガクチカ(学生時代頑張ったこと・力を入れたこと)エピソードが無さすぎて苦労したというデメリットもあったのですが、これが功を奏して被害者意識の緩和が見られたという成功体験を持っています。
それだけでなく、ここまで極端にサボらなくても、バランスを見て力を入れたり、手を抜いたりすることを覚えられたのです。

後者の友達作りについては、社会人になってしばらくしてから何もしないと今後の人生では友人が減っていく一方だと気づき、積極的に友達作りに励み始めました。

どんなに仲が良くトラブルが無かったとしても、ライフイベントが起きやすい20代後半に突入すると、自然と疎遠になる友人が増えてきます。
当時の私は友人と過ごす時間が特に好きだと思っており、自分が独身だろうと結婚しようと、定常的に会える友人がいる人生が良いと思っていました。

そこでTinderで同性の友人作りに励むことにしました。
当時、ちょうど女性がTinderで同性の友達を作ったというnoteを見かけ、真似して始めたのですが、結果的に旅行に行くような仲の友人を作ることに成功しました。

これはたまたまその子の目に私が止まったという幸運もありますが、直近で恋人探しをするためのマッチングアプリで得た知見を活かして、精力的に挑んだ私の成果でもあると思います。

女性の独身者も増えており、高齢化社会になっていく都合、今後女性同士が友人を作るためのツールは発展していくだろうし、頑張ればどうにかなるという成功体験を得て、その後も友人になりたいと思った人との親交を深めることを大事にするようになりました。

例の基準は現状だと、仕事で教育と管理を任されている後輩との接し方に悪影響を及ぼしています。ここまで整理していく中で、基準の排除までの道筋が少し見えてきたと思うようになりました。

私は問題意識を感じると、すぐにどうにかするために行動しないと不安になるので、後輩の仕事について上司から何か指摘や注意があった際に介入し過ぎてしまう傾向にあります。

少しずつ他人と自分の課題の分離までは意識できるようになったのですが、他人はコントロールができないので、客観的に考えて見守るのが最善な時期だと認識し様子見をしている間、不安に駆られてしまいます。
それでもきちんと見守って後輩自身が何とかできたという成功体験を重ねていけば次第にそう思わなくなるのでしょうが、正直まだ理屈に感情が追いついてない状態です。

この話をトレーナーさんに相談した時、恐らく自分自身の価値と、私の仕事に対する評価が一緒くたになっているせいではないかと指摘を受けました。
後輩指導が今の私の仕事である以上、後輩への評価が自分の仕事の評価になってしまい、後輩の仕事上の価値の低下を見逃せず、課題の分離が上手くいっていないことが原因ではないかと。

私の価値が仕事ぶりで損なわれると思っているから、他人の課題に踏み込んでしまい見守るのが難しい。確かにその通りだと思いました。

自己学習期間に頭では理解したのですが、私の仕事の評価がマイナスやゼロになっても、私自身の価値は変わりません。

ただやはりまだ感情がついてこない。だって思考の癖がまだあるから。

そのままトレーナーさんに伝えると、アドバイスをいただきました。
思考の癖は直すのではなく、上手く付き合っていくものですよ、と。

思考の癖によって良い影響が出ているのであればその際は存分に任せて良いし、悪い影響が出ているのであれば俯瞰して理性的な行動を選択するものだと。

これを受けてハッとしました。
思考の癖を認識してからの私は、改善しなければならない欠点、あるいは私ののように感じていたからです。

私はこの思考の癖によって、苦手な接客をそれなりにできるように努力したし、大人になってからの友達作りに励んで最高の友人を見つけたし、ファッションに向き合って毎日着たいと思える服に出会えたし、恋愛経験を積んで自分の幸せが恋愛や結婚にないことに気づけたのに、それら全てが間違いだったと思い込みそうになっていました。

この思考の癖も含めて私自身だし、それがある私こそがありのままの自分なのです。

自分が幸せになれるように自分の舵取りをしていくのが目的で、自分の悪いところを排除するのは違うのだと散々整理してきたのに、また同じ思考に取り込まれていました。

堂々巡りのようにこの気づきと、自分自身を敵だと誤認するのを繰り返しながら、いつか本当の意味で自分の味方になることができるのでしょう。
それまでは地道に認知→自覚→変容のプロセスを繰り返していくしかありません。

私の強み

続いて、仕事における強みについても整理していきました。

ここで言う「強み」とは、他人と比較して優れている、秀でているということではなくて、自分の中で抵抗感なく息をするようにできるもののことです。

ここまでの面談と課題の中で伴走してくださっているトレーナーさん曰く、私の強みは主に「論理的思考力」ではないかということでした。

現在の業務の中で私が何なく出来て好きなものは、仮説を立ててそれを立証する性質のものでした。面談の中で話したり、提出した課題の中で、自然と私は仮説を立てて実行に移してきた話をしていたようです。

逆に不安に思うものは、全体像が掴めておらず得体が知れないままに動かなくてはならない業務ばかり。理屈で理解できないものに抵抗感があるようでした。
特に対人関係においてはその傾向も強く、仮説を立てても実証できなかったりと、分からないことを分からないままにすることが良しとされたりもするので、苦戦した経験が多かったんだろうなあと、お話を聞いていてじわじわ腑に落ちました。

ただ、思い当たる点はあるものの、すぐには自分の強みが論理的思考力だとは認められませんでした。

それは、仕事上で上司に相談や報告をする際に簡潔に伝えられず聞き返されたり、噛み砕くためにいくつも質問してもらう経験が何度も何度もあり、体感としては論理的に要約して伝えることが苦手だと思うくらいには多かったからです。

論理的思考力が強みの人はそんなことないのでは?
端的に物事を伝えてスピーディーな伝達も出来るのでは?
といった具合に同時に疑問を抱いていました。

このままトレーナーさんに伝えたところ、対人だからこそ上手く発揮できていないのではないかという答えが。

上手く伝えなければ仕事が出来ないと思われるに違いない
→自分の仕事の評価が下がる=自分の価値が下がる
→最悪の場合クビになるかもしれない
………といった流れで前述の基準による思考の癖が邪魔をしており、そのプレッシャーに負けて本来の実力を発揮できていないのではないか、という話でした。

確かに、そういったコミュニケーションを取るのは、大抵が忙しい相手なので、手間を取らせたり時間を奪ってしまったと、自己否定の材料になりやすく上記のループに陥っているかもしれない。

これは思考の癖と上手く付き合えるようになることで解消できそうなので、引き続き向き合っていければ発揮できるようになると信じたいと思います。

「論理的思考力」が主な強みではありますが、ポータブルスキルとして「推進力」「計画力」「確動力」、それに付随した「課題発見力」「解決力」もあるのではないかと指摘されました。

ポータブルスキルとはどのような仕事においても発揮できるスキルのことです。

身近な上司や同僚に貢献することをモチベーションにしながら、仮説を立証するために、ゴールから逆算して優先順位を立てて計画し、物事を前に進める、そして状況に応じながらも確実に実行していく。また物事の問題点を見つけてそれを解決していく。

こうして文章に起こすと、なんだかものすごく仕事ができる人みたいでとてもソワソワするのですが、一つ一つを考えていくと私としてはどれも心当たりがあるし、実際やってきたこともある、とは言えます。

キャリアコーチングを申し込んだのは、年齢的に大幅な舵切りの難易度を上がっていくこの先のために、仕事をする人生が少しでも不安を少なく、幸せを増やすものになるよう、仕事における自分の信念や軸を見つけることが目的でした。

トレーナーさんは伴走してくれるし手助けをしてくれるけど、私自身が一番自分のことを理解して、ありのままの自分でいられる、幸せであり続ける選択肢を取り続けられるようにならないといけません。

自覚をしなくては私の抱える思考の癖と上手く付き合えないし、そのためには客観的な視点を持てる余裕が必要です。そうなると、自分が息をするようにできることを仕事にすることが最短距離で、仕事でもありのままの自分で安心していられるようになるはず。
挙げてもらったスキルたちは、無意識にやってきている自覚がある以上、程度はあれど強みであることに他ならないのでしょう。

何を言いたいかというと、これらが強みである、と自覚することに対して「こわがり」が発動しており、中々飲み込むのに時間がかかりました。
しかし、他に推せるものがある訳でもないので、完全に認めるのは後回しにして一旦受け止めることにし、私は次回以降の面談に臨むことにしています。

これまで自分の欠点にばかり注目しており、自信を持ってこれは強みだと言うことに慣れていないため、軸を定めるために必要な情報一つ取っても思考の癖は発動するもののようです。
しかし付き合い方に見当がつけられるようになってきた上、自己否定に走らないようになったため、この短期間での成長を感じることができました。

面談4回目 ー生き方の方針を定めるー

自分の人生をどう生きたいと思っているのか、という大方針について掘り下げる回でした。

人生の大方針は3つの観点から考えていきました。

どうありたいのか

一つ目は人生を「どう生きたいか」「どうありたいか」について考えます。
どういう状態でいたいのか、人生の根幹についての問いです。

私の場合は、メンタルモデルの欠陥欠損モデルが目指したい世界がそのままは当てはまりました。

ありのままの自分で安心していたい。
ありのままの自分を恥じたり、このままでは生きていくことなんてできないんじゃないかと、思い込みで絶望したりするのではなく。

自分が生きていく上でできないこと、至らないことにばかり注目して、覆い隠したり盛らなくてもいい。
他人や自分を許せても、もしくは許せなくても、傷ついたりしなくて良い、ありのままの自分を自分で裁くことのないように、自分の心に正直になって行動していたい。

そして、自分の周囲の人にもそうあって欲しい。
私がありのままでいることで、周りに無理を強いたり害が及ぶ世界は望んでいない。
人には相性があるから、私も相手もありのままでいながら適切な距離で関わりあえる、そういう人間関係の中で生きていきたい。本当に合わないのならお互い、いや私のために距離を取りたい。

平和主義的な発想ではなく、そうでないと私もありのままで居続けられる自信が持てないのが本音で、私なりの個人主義の理想形に近いかもしれない。

所詮全世界的にそうなっているかどうかはどうでも良くて、私が観測できる範囲の小世界でそれを構築できたら、私の人生はきっと穏やかに終われるに違いないと思う。

ここに関してはスムーズに言葉が出てきました。
それは、キャリアコーチング期間中に入棺体験のワークショップに参加したお陰だと思っています。

入棺体験とは、可愛いお棺に実際に入って数分間蓋を閉じてもらう、というものです。
事前ワークで「誰かが書いた」という体裁で自分への弔辞を書くのですが、蓋を閉じている間にそれを読み上げてもらう疑似セレモニーを体験してきました。

同じ体験をした方のレポをいくつか読んでいたのですが、反応は様々で、私はどのように感じるのかを知りたくて参加を決めました。

実際に入ったお棺の中は狭くて静かで、この世と隔絶されているけど近い場所のように感じました。
初めての体験なのに不思議と物凄く落ち着けて、きっと直前までに何をしていても後悔しないというか、未練を残すことはないだろうと思えたのです。

こう言うと希死念慮と誤解されてしまうかもしれませんが、こわがっている私の行く末には、必ず死という安心がある、と確信できました。
こわがったまま死ぬことはないだろう、とある種の保障をされていることを知ることができたと言った方が近いかもしれません。

また、この時12年の付き合いになる友人と共に参加をしたため、弔辞のほかに彼女から私へのコメントを求める場面がありました。「生前はどんな方でしたか」と。

そこで返ってきた答えを聞いて、私はずっと自分の思い込みであらゆることを怖がってきたんだと分かり、少なくとも彼女には私の怖がりを押し付けすぎていなかったのだと知りました。

彼女は今後も長い付き合いをしていきたいと思っている一人です。彼女の前では取り繕ったりする必要はなく、ありのままで話せるのです。

12年の付き合いの最初の方の私はもっと未熟でしたし、自分の嫌な面を表に出してしまったりすることも多々ありました。それでも、ありのままの私でそう言ってくれる人もいるのだと、凝り固まった思い込みが少し薄まった気がしました。

奇妙な安心に包まれることのできるお棺から起き上がる頃には、私はこの疑似体験と同じような状態を最期だけでなく、生前でも多くの場面で実現したいと思うようになりました。

私のありたい姿が明確に固まったのはこの瞬間でした。

どんな行動をするのか

続いて、前述の生き方を実現させるために、どんな行動をしていくのかを定義していきます。

私の望みは「ありのままで自分でいながら安心していること」なので、そういられる環境づくりが欠かせません。

その観点で考えると私がやるべきなのは、自分の気持ちに素直になって行動することで、自分が何を考えていて、どう感じているのかを他人に分かりやすく伝える、ということです。

平たく言うと「自己主張」だと考えています。

引っ込み思案だった過去への反省から、最近の私はどちらかというと自分の意見を言ってきた方だという自負がありました。
それでも、他人の顔色を窺ってみたり媚びてみたり、いち早く物事を進めたいがために、言わなければならないときに言わなかったり、過小申告したり、適切な自己主張というものを出来ていない場面はそれなりにある自覚もありました。

今ではそういうときは大抵、自分の頭の中にしかない未来や相手像を怖がっていたのだと分かります。
他人が私やそれ以外の人間に親切にしてくれたことを真似できず配慮が至らなかったとき、私の頭の中の相手像が私を非難し、望まない関係性になった悪い未来を想像しているのです。

しかし、私の周りにいる「思ったことはちゃんと言う」「マナーは弁えつつもそれ以上の親切をしない人」を思い返せば、非難したくなったことは一度もないのです。寧ろ付き合いやすくて助かるとすら思っています。
特に何も言われなかったのだから裏を変に勘ぐらなくて良いし、もっと親切にできたと思える振る舞いをしたとしても、行いを反省するだけで自己否定はしなくて済んでいます。

それでは、私がこれまで空気を読んだり、その場の円滑な進行のために選択してきた自己主張の仕方は、実際のところ私をどういう気持ちにさせているのか。言い渋ったり、思っていることの半分くらいの感情だと話すことで、私は何を得たのか。安心できたのか。

答えははっきりと「NO」。
それこそ付き合い続けたくない関係を継続してしまったり、言えなかった後悔が何年も経っても眠れない夜に浮かんできます。

逆に自己主張できたとき、その場は怖くて緊張して、終わった後もどぎまぎするものの、案外距離を置かれることはなかったり、何なら相手から「言ってくれてありがとう」と言われたり、私の想像に反して悪い想像通りのことは起こらないことも大いにあると実感している。

よく考えてみれば、口に出していない自分の気持ちを態度だけで推し量ることは不可能です。伝えていないことは、相手からすれば「無い」のと同じ。何も言わず、私の本当の思いを誰も知ることなんでできません。

自分の世界は自分が作り上げているものなのだから、何が心地良いのか周囲に知らせずに安心できる世界なんて一生訪れない。

明日からすぐに怖がることをやめることは難しいので、どうして主張できなかったのか一つずつ紐解いて、ハードルの低い機会から行動に移していくことが重要だとここまでの面談を通して気づくことができました。

元々一人反省会は得意な方ですが、必ず途中に自己否定を挟んで不足感から対策を考える流れでした。

そうではなく、主張できなかったとき、自分のどんな考えが邪魔をしたのか、その考えは冷静に見ておかしな点はないのか、その上でどのように主張するのがよかったのかを考えなければなりません。

自己否定ではこわがりを助長するだけで、私自身を安心させることができないし、自分を許せず裁いても事態が好転しないことは身をもって知っているとようやく認識できた今なら。
できなかったという事実を分析しながら受け止めて、次に活かすために前向きに考えるだけでそれ以上のことはしないようにできるはずです。

他には、興味があるけどやったことがないこと、見たことがないものに積極的になることも、ありのままの自分を表に出す「自己主張」だと思っています。自分の興味を押し出すことは、自分がどんな人間なのかを主張することでもあるのです。

これは自問自答ファッションのコミュニティ内で、20人弱集めないと食べられない上に、少しリッチなお値段の料理をいただく食事会を主催したときに感じました。

私は人生にそう何度もないような貴重な体験などを通して、「新鮮な驚き」を得ることに興味があり、簡単に実現することが難しい食事会に惹かれたのです。

もちろん貴重な思い出になったことは言うまでもないのですが、その後も参加者との交流が生まれ、レポや感想を見て「次はどんな料理を食べにいくんですか」「今は何に興味があるんですか」と私の好奇心に興味を持ってくれた方から声がかかるようになったのです。

たまたま当時このコミュニティの中では珍しいリアルイベントだったことで注目された影響もありますが、食事会をきっかけに私の投稿を見て「仲良くなれそうだ」と共通点を感じた方が話しかけてきてくれる経験をしました。

元々大人数の幹事なんて会社の部署の飲み会くらいしかなく、普段の私はグルメでもなければ、何なら人より食材の好き嫌いが多く、比較的量が食べられるだけの人間だと自認しています。要するに普段はこういった催しをするような人生は送ってきていません。

こわがりだしてやめてしまいそうな初めてのことも、私はポジティブな気持ちで実行できるし、それによって私の望む常に友人のいる世界に近づけられるのだと実感しました。

別の例で言うと、私は某ちいさくてかわいいキャラクターのコンテンツを好きなのですが、その中でも特に好きなコンビがおり、事あるごとにSNSで発信したり、家族や友人に話していたところ、(キャラクターとは関係ない)何かのお礼などでそのグッズをもらうことが増えました。

スーパーやコンビニ、本屋でそれらのグッズを見つけて、次に会う機会があるからとプレゼントしてくれるのは、私のことを思い出してくれたからに他なりません。

とても有名で人気なキャラクターたちのため、目にする機会が多いということもありますが、好きな人たちに、目の前にいない時でも私のことを考えてもらえる喜びも、私が自分の興味を表明したことが発端だと言えると思います。

元々持っている興味を表現することはもちろんですが、私も変化していくし、少なくとも今の自分から脱却したいと思っているからこそ、新しい興味へ積極的に行動する、表明し続けることもまた、私がありのままでいるのに必要なことだと考えています。

必要なもの

最後に、前述の行動をしていくために必要な「スキル」「人脈」「機会」「持ち物」が何なのか、についても仕事の側面で考えました。

ここまでは抽象的な話が多かったですが、これらをただの夢物語や理想で終わらせないためには現実的に何が必要なのかを考え、それらを得なければなりません。

私の場合は自分に正直でいることが大事なので、思い立ったときに行動ができる時間と立場、ある程度の金銭面の自由さが必要です。

そのためには、それらができる職場で、少しは職位を上げるのが手っ取り早い方法です。
となると「マネジメントスキル」と「コミュニケーション能力」を求められることが想定されます。
(職種に必要な経験値や知識、技術については当然すぎて語ることもないので除きます)

どちらもハウツー本がいくつも出版されているので、それらに目を通して理解を深めていくのが、とりあえず動くより一旦は考える派の私の合ったやり方だと予想します。

また、今回のキャリアコーチングのように自己理解を深めて自分の手綱を握れるようになり、他者に興味をもつことが不可欠ではないかと思っています。
同僚や部下が何を考え、その仕事や行動に至ったのかをヒアリングし、会社的な目標のために最善を尽くすにはどうしたら良いのか考えるのが、まだ何もマネジメントについて学んでいない今の時点の私の想定です。

自分の自由をある程度確保するためには、ある程度の信頼関係を協働している仲間と構築しなければなりません。自ら有給を取りにくい状況に陥ったり、またはチームプレーができない立場になると、身動きがそもそも取りづらくなります。

となると必然と仕事における相手の考えを知る必要が出てきます。
しかし、私の場合、自分のことに必死になっている間は他者に興味を持つことは難しいです。またこわがりの暴走で「上手く付き合えない……」と嘆くことになってしまいます。

そうなるとファーストステップは「自己理解をほぼ終わらせること」になってきます。

ほぼ、というのは死ぬまで、場合によっては死んでも完了しないと思っているからです。しかしこのコーチングも通して自分の根幹に触れられたことで、8割は完了したと思えるところまできました。

元々自己分析が趣味ですし、こうしてお金も時間も費やしてきたので、まだ感情こそ追いついていない部分はありますが、時間をおいて冷静になれば大体自分の考えていることの説明がつけられるようになりました。

このnoteを通して自分の考えや気づき整理が終わり、日々の生活のなかでそれを自然を思い出して自分を運用していけるようになることが、このファーストステップの終わりと考えています。

まずはこれを達成し、同僚とのコミュニケーションを今よりも取れるようになることが地道ではありますが、求める立場を得るための近道だと信じています。

また、適切な自己主張によって分かりやすい人間でいることで、気の合う仲間に囲まれていたいと考えているため、「精神的なゆとり」もなければなりません。頭の中のこわがりが私を勝手に追い詰め出しても、冷静に付き合っていく必要があるからです。

どんな環境/忙しさだと心の余裕がなくなってしまうのかは、これまでの経験で大体想像がついているので、頻繁にそんな状況になりそうな職場に身を置かないことも条件に挙がります。

職場選びの軸

ここまでで挙げたものが職場選びの軸になります。

少なくともキャリアコーチングを受講し終えた私の軸は下記の通りです。

自分も、周囲の人も、ありのままの自分で安心できるように、自分に正直に行動ができる立場と、ある程度の時間的/金銭的な自由さ、そして精神的なゆとりを持って、適切な自己主張を行う。

これらが実現できない働き方は、自分の希望している生き方にそぐわないので幸せに繋がりません。

とはいえ、上記に沿ってキャリアを形成していくことが大事なのではないと、この軸に辿り着いたときに思いました。

人間なのでここから変わっていくこともあるはずです。
特に「必要なもの」については仮定で書いている部分もあります。

このコーチングではそういった変化も見越して、自分の力で考えられるようにすることもゴールにプログラムを組まれていると認識しています。
要するに、変化してきたとしても、また自分で何を求めていて、それにはどんな行動をしなければならないのか、何が必要なのかを考えるための手法とそうそう変わらない根幹部分への迫り方を学んできたと思っています。

この枠組みと至った思考を忘れず、時々振り返ることで、その時の自分を見つめ直すことが、このコーチングによるメリットを最大化できるポイントではないかと考えています。

幸せの目指し方は一つではないはず。
それを目先の目標に囚われて忘れないようにしたいと、思い込みの強い私の自戒として残します。

面談最終回 ー方針決定ー

最終回は全体を通して具体的なキャリアの方針について固めます。

私は、5年後までにこのまま勤めていきたいと思える仕事に就いている状態を目標としています。そのため、このキャリアコーチングのゴール設定はそうなるために目指す仕事の軸を定めることでした。

ここまでの面談で、私の中から現職の継続は選択肢から消え失せており、少なくとも転職は1年以内にしたいと考えるようになっていました。
そのため、現職のことは一旦忘れ、どういった新天地を目指すのが良いのか、転職活動を始める前の段階で得られる情報を元にトレーナーさんと考えていきました。

方針は、モチベーションを高く持って仕事をするために満たされていないと難しい条件を以下3つの観点から定めていきます。

職種:自分の強みを活かせるもの
職場のカルチャー:自分のモチベーションや職場選びの軸と合っている要素(これさえあれば働けるという要素)
業界や事業:自身が興味を持てる内容

現在よりも仕事面でも幸せを追求しようとしたとき、これらの条件にいかにマッチしているかが指標になります。

職種

面談前の宿題でこの世にある職種を調べ、その中から自分の強みを活かせそうで、かつ心理的抵抗が強過ぎないものをピックアップし、面談の中でトレーナーさんと一緒に確認していく、いった流れで絞り込んでいきました。

この観点では自分の強みを活かせそうであれば何でも良いので、スムーズに終わらせられるだろうと、着手した時点では思ったものの、「こわがり」の強い妨害を受けることになりました。

というのも宿題を出される時の面談で、トレーナーさんからは「コンサルタント」を勧められていたからです。
トレーナーさんだけでなく、キャリアコーチングの前から複数社の転職エージェントにお世話になっているのですが、どの担当さんとの面談でも必ず「コンサルタント」を提案されてきました。

抵抗感はあったのですが、これだけ勧められると視野に入れない訳にはいかず、求人や経験談、現役の方のインタビュー記事を読んでみました。
しかし、転職活動しているわけでも誰かに目指すと表明した訳でもないのに、今の私には心理的ハードルが高すぎてベッドに横になりながら緊張してしまう状態に。
元々誰かに追いかけられて必死に逃げるような夢を見がちなのですが、宿題に取り組んでいる数日間は毎日のように見ていました。

そのため、コンサルタントに対する心理的ハードルは、現段階で目指す候補に入れられるようなものではないのではないかと思うようになりました。

ハードルが高い理由は、(何のコンサルかによりますが)社内で決定権を持つ人へのヒアリングや提案が仕事になるため、その業界や提案内容への理解が深くないと対応が難しいだろうという点。
要するに入ってから慣れるまで、または新たに別分野を担当することになった時の「自分が知っていないといけないことを分かってない」期間に、不安が爆発する気しかしないのです。

どの職種でも入りたては皆、クライアントには自分が分かっていないことでも専門分野であれば、分かっているかのように振る舞う必要があると思っています。現職の最初の頃や高度な内容になると今でもそういった場面はあり、胃がヒリヒリするような緊張感と場を凌げているかの不安に圧し潰されそうだと感じています。
コンサルタントは求められるレベルが高いことが容易に想像つくあまり、そういった場面に多く遭遇するように思えており、特にハードルが高いと感じていたのです。

しかし私は今年30の年の社会人8年目。
現職はコンサルタントに求められるようなスキルや経験を培うような仕事内容ではありません。未経験で目指すにはちょっと遅いどころかギリギリくらいの時期で、目指す前からビビり散らかしている。

とはいえ、クライアントの問題解決に対して提案し、自走を促すのが仕事であるため、方向性が間違っている気はしませんでした。
ここまでの自己理解の中で、求められる要素を一つ一つ紐解いて行けば提案される理由が納得できたからです。もしかしたら新卒の就活で今の自己理解のレベルなら目指したかもしれません。

という訳でもう少し心理的ハードルが低い、類似職で考え直すことにしました。

10弱の職種についてピックアップしましたが、最終的に目指してみたいと思えたのは「サービス企画」と「カスタマーサクセス」です。

企画職について説明はいらないと思いますが、カスタマーサクセスは耳慣れない方もいると思います。

カスタマーサクセスは、サービスの導入に向けて契約済の顧客の環境にフィットさせ、運用していくサポートを行う仕事です。
SaaSの事業会社などで営業やカスタマーサポートとは別に設けられることがある職種のようです。
契約した製品を実際にお客様が導入するにあたって発生する問題解決を主に担当し、数ヶ月ほどの期間サポートすることが多いとのことでした。
(IT業界の職種は、会社によって仕事内容が全然違うことがあるので、あくまで一例です)

製品やお客様環境への理解については、入ってからも勉強が必要ですし、そういったプレッシャーはコンサルタントと同様に予想されますが、契約いただいた製品を軸にサポートを行うため、元々理解していなければならない範囲がある程度定まっている分、やってみたいと思えるハードルでした。

逆に企画について、既に展開されているサービスへの参画なのか、新たな企画の立案なのか、様々な立場があり、求められる役割もそれぞれ変わってくるとは思いますが、企画する内容があればどういった問題が解決できて、どういった良いことがプラスされるのかの観点で物事を進めていくことは変わらないと考えています。
正直、仕事内容は求人によって変わってくると思いますが、論理的思考力や推進力の部分は活かせるシーンが多いのかと予想します。

この2つは、私が興味の湧く事業やサービスを提案、販売している会社や組織であることが前提ですが、世にその商材を出すまでの上流なのか下流なのかの違いだと考えています。

しかし、企画については未経験から直で転職することは難しいため、挑戦できる経験を積んだ時にもし気持ちがまだあれば、といった条件で選択肢に加える扱いになりました。
そのため、カスタマーサクセスの方が現実的な選択肢に近いと考えています。

職場のカルチャー

どんな職場だとモチベーションが維持できて、働きやすいのかについても具体的に考えていきました。3回目の面談で分かったモチベーションを元に、これまでの経験で感じた自分の向き不向きを整理します。

私の場合は、身近な人への貢献感がモチベーションになるため、少人数のチームで動ける方が合っていると思っています。

現職でもそうで、自分の仕事が上司や同僚の役に立てたと思えると満たされます。そのために先輩の仕事を見て参考にし、時には教えて欲しいと時間を取ってもらうようお願いして勉強してきたので、顧客への貢献や自分の成長は貢献感を通してきました。そのため完全に単独での仕事はあまり向いていない可能性があります。

かといってチーム一丸となってやる、密度の高いチームプレーは違うとも思っています。
没頭感もモチベーションの一つなので、一人で集中して取り組む仕事があるとやる気が上がるからです。

チームで請け負っている仕事でありつつ、ある程度の裁量はあって風通しは良く、必要な時にチームメンバーに相談しに行ける/される距離感が心地よいと思っています。

また短納期で尻拭いを求められたり、緊迫感のある中でプレッシャーのかかる仕事の割合が多い時期は現職でも辟易しているので、比較的長期でトラブルがあっても吸収できるバッファがあるような計画性がある仕事の方が嬉しいです。
非合理なことも嫌いなので、ある程度は柔軟に対応してきましたが、無意味な古い慣習で余計な工数を取られることを気にしなかったり、良しとする文化は合わないと考えています。

このあたりは面接で確認するしかないのと、結局は配属先の人間関係によるところが大きいので、明らかに該当しないようなところを選ぶことだけは無いようにする想定です。

業界や事業

仕事に真剣に向き合うことをここまでしてこなかった一番の理由は、新卒のときも転職をしたときも、業界地図などを見ていて強く興味を持てるものを探し当てられなかったからだと思っています。
どれを選んでもきっと興味が持てないし、深く知りたいという好奇心由来の行動ができないだろうと決めつけてきました。

しかし現職で周囲にいる業界や商材への興味がある人が、業後や休日でもアンテナを高く広く立てて情報収集し、意欲的に仕事に生かしていく姿を目の当たりにして、どうやっても敵う訳がないと衝撃を受けたことがあります。
定時外の労働を推奨しているという話ではなく、根っから興味があると仕事の幅や深さを広げていくのが早いということです。

私は数年仕事をしていても全く商材に興味を持てず、仕事のために勉強していても「これは仕事をする上で役に立ちそう」といった使命感からしか最低限より少し上の学習をする気になりませんでした。
少なくともあと30年、それを義務感と使命感だけでやっていけるのか、と怖気付いているのがキャリアに向き合いたい気持ちの源泉の一つになっていました。

トレーナーさんからも自分が興味を持てるものを据えるのが大事という話を聞き、「企画する」「展開する」「運用する」「売る」と、職種における役割を全うする動詞が何であれ、自分がその会社で提供する商材に興味が持てなければ、「本当はどうでもいいんだよなあ」という気持ちが拭えない未来がよりはっきり見えました。

現職または転社して同様の事業を展開する会社で勤続していったとしても、私が急に今の商材への興味を持てるようになる可能性は低いでしょう。

となると、私が普段から何の抵抗もなく興味を持っていることを商材にする業界や事業内容の会社に勤める方が、仕事に対してポジティブになれるはず。

ただ、ここで一つ自分迷子になっていることに直面しました。
というのも、私が好んで知りたいと思ってきたものは、いずれも自己分析やコンプレックスの解消手段に役立つからと関心を持ったものたちばかりだったからです。

私が興味を持っていることについて洗い出して見ると、「ファッション」「アート」「エンタメ」「グルメ」「人生観」「哲学」「心理」「歴史」「マーケティング」が挙げられます。

「どこが手段?」と思われるかもしれませんが、どれも好きな理由が、「私が私という人間を理解するためのヒント」があるものばかりなのです。

哲学や心理学は比較的分かりやすいかもしれません。
自己理解の手段やそもそも自分はどうして自分であるのかを知るためのハウツーや、根本的な考え方を知ることができ、理解を深めることができます。

その他でいうと、例えば、ファッションは私がどういう服やアクセサリーなどに惹かれ、どういうものを身につけたいと思うのかを窺うことができます。外見から内面への働きかけをファッションを媒介に知ることができるのが好きな理由です。

アートは私がどういうものに惹かれ、どういうものを忌避したくなるのかを知ることで、どういうテーマやモチーフに関心があるのかを、アートという他人の表現を媒介に知ることができます。
また、他人の表現に触れることで新たな発見があったり、自分の中に隠れていた感情に出会うこともあります。自分の中になかった発想を得ることで、自分を更に知ることができるのです。

役立つから関心を持っているものは、果たして自分の好きなものと言えるのか自信がありませんでした。
そもそも自己分析やコンプレックスの解消をしたくてたまらないのは、「こわがり」の妨害者による働きかけが大きいからです。

現状の自分のままであり続けるのは怖いから、その不安を解消する手段をインプットして、実際にアウトプットすることを繰り返し、擬似的な安心感を得ていた私にとって、好きでやっているというよりは、幼少期にプログラムされた心の動きに従っているに過ぎないと思うようになっていました。

「好き」ってもっとポジティブな概念じゃない?
こんな焦燥感に駆られて解決手段を考え、その実現のために追いかけるような気持ちが「好き」な訳がなくない???

トレーナーさんに言われたのは、その気持ちは「こわがり」を抑えるために持ったものだろうという話でした。

「こわがり」がいるからこそ興味を持っているけれど、「こわがり」は敵で排除する対象ではなく、今後も一緒に付き合っていく対象なのです。
「こわがり」と上手く付き合っていくために、つまりは「ありのままで安心していられる」自分を求める過程で興味を持っているのだから、「こわがり」に流されているのではなく、抵抗して持った気持ちではないか、と。

よかった。
私にも好きなものはあった、と何かが溶けていくような気がしました。

私がコンプレックスの解消に執心して、集めた知識や実行してきたことは単なる「手段」で何の気持ちも乗っていない、ドライな付き合い方だとばかり思っていました。
でも、ちゃんと自分の意思で、自分の心地良さや幸せのために選び取った「好き」だったんだと分かったのです。

仕事の話に戻ると、興味のある仕事といえば、先ほど挙げたジャンルの業界に入るのが最もシンプルです。

ただ私の場合、どれも好きな理由は「知る/実践することで自己理解が深まり、更に安心できるから」です。
それなら「自己理解が深まって安心を促せる」商材を扱う、または提供する事業内容だと興味を持ちやすいのではないかというアイデアが浮かびました。

確かに何を媒介するか気にしていないので、Webサービスでも、実商品がある場合でも、この観点で興味を持てるものであれば、今よりもモチベーション高く仕事ができる気がしました。寧ろわくわくする。

そしてもう一つ。
私には現職に対して抱いている不安が他にもあります。

それは「マイナスをゼロにする」つまりは、現状維持や問題ない状態をキープする仕事内容のため、万一の場合には緊迫していたり慣れない状況でも、動ける人員だけで対処を行う必要があるし、平時も今が本当に問題ないのかについて説明し続ける義務があります。

そのため、「こわがり」が発動している場面が突発的に多く発生し、私を不安にさせているのです。

他人を安心させる点においては、一見私の興味関心と一致しているように見えますが、常に私が安心していられないため前提がそもそも成り立ちません。

そうなってくると、対象顧客がプラスαを求めている相手で、1を10にするような、無くてもいいけどあった方が良いビジネスの方が、私の「こわがり」が強く発動する機会が少ないと予想します。

思い返せば、私が20代で着手してきたコンプレックスの解消は全て「ポジティブビジネス」の分野です。それらに必要性を感じた経験があり、まだまだやって見たいことがこの領域にあります。
要するに私が「こわがり」に追い立てられず、寧ろそれを抑えながらポジティブな気持ちでやってきた問題解決はこの分野なのです。

もしかして、その類を仕事にできたら、少なくとも今よりはポジティブな気持ちで働けるのではないか。

ストレングスファインダーの回復志向に即したマイナスをゼロにする回復志向の考え方に囚われていましたが、トレーナーさんから「1を10にする問題解決もある」といわれて目の前が開けました。

ポジティブビジネスの話を受けて、もう一つ気づけたことがあります。

実はこのキャリアコーチングの期間に、仕事で指導している後輩への向き合い方を少し変えることができるようになっていました。
度々前の章で引き合いに出してきたこの後輩には厳しい態度でやや一方的にミスの指摘や注意を行っていました。人によっては詰めていると言われるようなやり方だったと大変反省しています。

3回目の面談の部分でも触れましたが、後輩にそんな態度を取ってしまっていたのは、後輩のミスの内容が過去の自分でも思い当たる節があったからです。
私の時には良い意味でも悪い意味でも放任的な上司や先輩だったため、ミスの指摘を受けるのみで、理由についての説明はこちらから必死に聞き出さないとあまり話してもらえませんでした。

本当はもっとリスクやその背景を説明してほしかったし、もう少しだけ介入してもらいたかった気持ちが、後輩に自分を重ね、自他の境界を曖昧にさせたのです。

また、後輩のミスは上司から悪い意味で気にかけられており、後輩に対して最終通告に近い言葉もいただくような状況で、早急な改善が必要でした。そのためあまり悠長なことはできず、自分事のようにミスの改善に取り組む必要があったのです。
(詳しくは書けませんが、文字通りの状況でした)

自分のことは自分で変えることができますが、他人はその人自身にしか変えられない。そのもどかしさが私を詰めさせていたのだと思います。

しかしキャリアコーチングの面談を経て、自分への向き合い方がわかってきたことで、過去の自分に投影していた後輩への向き合い方も変えることができるようになりました。

私の今までの接し方では、私に対して怯えてしまったり、あまり胸の内を話してくれなくなってもおかしくなかったと思うのですが、接し方を変えてからそういった様子は見られず、以前よりも困ったことや不安を話してくれるようになったのです。

この話をトレーナーさんにした時に「安心を求める人だから、周りの人も安心させることができるはずだ」と言っていただきました。
「こわがり」のせいで不安になりがちな私だからこそ、他の人の不安に気づくこともできるし、それに対する対処法も知っていることが多いはずではないかと。

思えば私の求める世界は「自分もありのままで安心できて、周囲の人も同じくありのままで安心していてほしい」です。
自分を安心させることができた次は、周りの人も安心させたい気持ちがあるはずなのです。

今まで他人へ何かを働きかけたいことなんてなく、私の邪魔さえしてくれなければ何でも良いとしか思っていないという自己認識でした。
それが実践に移せる範囲にあったし、今実感できたことは微々たるものでしかありませんが、一歩進むことはできたのかもしれません。

「こわがり」がいるからこそ強みも生まれているし、それが不安を解消する手立てになる。更に人に貢献するために使っていくことだってできる。

私の中にあるポリシーを振り返っても、「自己理解が深まって安心を促せる」理念/目的の商材を扱うポジティブビジネスの事業に参画できるのが良いという結論になりました。

方針

3つの軸について整理すると、下記の通りになりました。

職種:論理的思考力などの強みを活かせるもの(候補:カスタマーサクセス、企画職)
職場のカルチャー:風通しが良く、貢献感/没頭感を満たせてチームプレーができる
業界や事業:知る/実践することで自己理解が深まり安心できるようになる商材を扱っている

設定したゴールの通り、納得感のある軸を定めることができてほっとしました。

職種においては特に現実的な情報収集をする中でブレることがあると思いますが、何故それが良いと思ったのか軸があるのでそこから外れなければどんな職種でも問題ないと考えています。

こうしてみると、全部元々自分の中にある能力や気持ち、考えにも関わらず、トレーナーさんと一緒に自分が勝手に作り上げた障害物を認識して退かしてみるまで気づくことができなかったものばかりでした。
自己分析が得意だと自負している私でもこうなので、どれだけ難しいことなんだろうと思います。

キャリアコーチングにおける一番の収穫は、自分の思う幸せもそれを実現する力も自分の中にあるということを、感情的にも納得して理解できたことです。
伴走いただいたトレーナーさんに大変感謝しております。

最後に

自分が心の底から本当に望んでいること、恐れていることが明確になったお陰で仕事のために受けたコーチングでしたが、半生も真剣に見直すことになりました。

ここには詳しく書きませんでしたが、仕事だけでなく自分の友人、恋愛、趣味などに向き合うことにもなり、30年間の伏線が回収できた気分でいます。

これをまとめ終わったのは、最終面談から約二週間後なのですが、これまでの悩みと同じ状況に直面しても、自分はこうだから、と思い込みによる衝動的な行動が少しずつ控えられるようになっているのを感じています。

実感が伴ってくると、ここまでの思考と仮定が現実感を帯びて、自分の人生を進めていく覚悟が固まってきました。もう放り投げるような気の迷いはありません。
いろんな都合ですぐの転職活動が難しいのですが、1年以内の転職を目標にこれから更に行動に移して、より自分を安心させられる人生に転換していこうと思います。

最後に余談を一つ。

本来このnoteは自問自答ファッション用に作成したものなので、他の経路からこの記事に辿り着いた方には恐縮ですが、魔性の女に魅了されたかった頃の私は、アパタイトの輝きに虜になって購入した、通称「魔性の女リング」を持っていました。

キャリアコーチングの受講も視野に入った頃に、実はこの指輪を失くしており、実は今も見つかっていません。
確実に家の近所、または家の中にあるはずなのですが、失くした直後からいくら探しても出てこないのです。

もしかして、私の中に魔性の女の望む気持ちが消えたから、その象徴の指輪もいなくなったのではないか、と今は諦めつつあります。

商品のコンセプトがそうだった訳でもないのに、偶然て不思議なものですよね。