1-2 S・S・ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』1929
The Bishop Murder Case
残念なことに、さまざまの理由が重なってか、ヴァン・ダインのテキストのおおかたは時代遅れのものとして敬して遠ざけられる傾向にある。よほどマニアックなミステリ原理主義者でも、ヴァン・ダインの再評価にたいしては慎重なようだ。彼は、ミステリ作家が命を削って書ける傑作は六作が限度だと表明し、じっさいはその倍の数を刊行したが、後期のものの出来映えは彼の言を証明してしまった(最後の作品は完成稿までいたっていない状態で残された)。
三作目の『グリーン家殺人事件』1928と四作目の『僧正殺人事件』1929が名作リストに残される。
もっともこの二作品が評価されるさいには、探偵が大間抜けに見える実例というマイナス点が付属する。これは超人探偵の創始者としてはあまり名誉なことではあるまい。名作という評価のみで読まれなくなる理由は、小説としての無味乾燥さにもある。これは、作者が自分のつくったルールに忠実に小説を読む悦びを排除してしまったからなのか、あるいはじっさいに眼高手低の書き手だったからなのか。自伝のような人を食った代物を後代につかませた作家が小説の腕がなまくらだったとも思えないのだが……。
『グリーン家殺人事件』の、ゴシック調の古い館で連続殺人が起こるというパターンは古典的な原型だ。それ以上の積極評価が出ないのは、この型の後続する作品に優れたものが多いからであり、ヴァン・ダインの責任ではない。
『僧正殺人事件』のアイデアは、その点、いまだに独創性を維持している。マザーグース見立て殺人、そして閉ざされた精神的共同体における異常な妄想の肥大。二十年代末という時点で、人間的モラルの欠如した物理学者をタイプとして呈示することは、充分に予言的だった。量子力学が何を人類にもたらせるかまだ定かでなかった時点で、こうした狂気を描き得たことは、作家の名誉に属するだろう。
他の主な翻訳
武田晃訳 改造社 1930
中村能三訳 新潮文庫 1959
鈴木幸夫訳 角川文庫 1961
旺文社文庫 1976
平井呈一訳 講談社文庫 1976.12
宇野利泰訳 中央公論社 1977.9
日暮雅通訳 集英社文庫 1999.5
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