第三夜【この旅の結末はどこか】scene1
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新幹線に乗り込んでから四十分ほど。窓に切り抜かれた景観は、一面の茶畑から灰色の市街地を経て、再び変化の兆しを見せていた。
代わり映えしない田舎の風景に、突然無数のソーラーパネルが映り込む。しばらくして車体が微かな登りの傾斜にさしかかると、塀に塞がれた視界が一気に晴れて、一面に、キラキラと輝く紺碧の水面が姿を現す。
京子は慌てて足元に置いた桃色のリュックサックのジッパーを引いて、足をもぞもぞと動かしながら一眼ミラーレスを取り出し、シャッタースピードを最大まで上げる。
いまだ!
しかしファインダーを覗き込んだ京子は、チャンスを失ったことに気付いた。あの太陽にかざしたビー玉のようにみずみずしい画は、新幹線がすでに遥か後方へと運んでいってしまった。京子はカメラを降ろした。
「なに撮ってんの」
隣からの呼びかけに、上半身を捻って再びカメラを構える。
地面に平行な前髪と、目尻を途中で断つようにまっすぐ降りた黒髪、そこに縁取られた知恵の小さな顔が映る。京子はシャッターボタンに載せた人差し指に、軽く力を加えた。
連写機能によって、知恵が驚きを見せてから、あざとい作り笑いを完成させるまでの一部始終が、数十枚のフレームによって分割される。
みせて、と言って京子の方に寄りかかった知恵は、液晶モニターに映し出された自分の顔を見て、納得がいかなそうに、可愛くない、と言って頬を膨らす。
「次は私が撮ったげる」
知恵の手がカメラに伸びる。
「え? いいよ、撮らなくたって」
京子は子供からおもちゃを取り上げる親のように、カメラを高くに持ち上げた。そこに知恵が絡みついて、カメラは二人の腕の中を行ったり来たりする。
「なんでよ、いいじゃん。京子はいつも撮ってばっかだし」
「だって撮るのが好きなんだもん」
撮っている方がいい。レンズを覗き込むだけで、手を伸ばしたりせず。
――そう、思っていたはずなのに。
「たまには自分も写りたいと思わない?」
「私は、いいのよ。地味だし。写真映りも悪いし」
「え〜。盛ればよくない?」
知恵はそう言って、出し抜けにスマホで京子を写すと、アプリを使って目の大きさや頬の照り具合いなどを調整し始める。
「ほれ」
ものの一分で、西洋人形のように改造された自分の顔を見て、完全に別人だわ、と京子は感嘆の声を漏らした。
「それにしても、床無さんが来たのはびっくりだよね」
話題を変えた知恵は、左斜め前の三人席を見やった。二人の女子生徒の挟まれ、高い声で話をしながら、されるがままに髪を弄られる床無火継がそこにいた。
「床無さん髪、綺麗」
左の女子が言った。右の女子も頷いて、ツインも似合うんじゃない? と言ってゴムを解くと、勝手に独自のセンスで結い始める。
おいてめえよくも髪型を変えやがったな消し炭にしてやらあ、という怒号が今にも飛びそうで、京子は見ていて危なっかしかったが、火継は牙を剥かなかった。
「若いメスはやっぱり、いい匂い」
それどころか進んで絡みついていって、生膝に頭を擦り付けたり、髪の生え際や首元を嗅いだりしている。
「えー、火継さんの方がいい匂いするよ」
「そうか。アタシもカラダは若いメスだった。意外だねえ」
同性の京子が気恥ずかしくなるぐらい、火継のスキンシップは動物的で激しかった。きっと彼女は好意の表明方法を、自然界から学んだのだ。
「かなり変わったよね、火継さん。屋上であんなことしたのに」
あんなこと、つまり徳川勇とのタイマンは、もはや第一高校の新たなる伝説となりつつある。
「っていうか自由行動、私たちの班だよね」
京子が頷くと、知恵は少し間を置いてから言った。
「あの子も例の『計画』に参加してるんだっけ?」
知恵の言う『計画』とは、自由時間に抜け出して京都市を出る、というもの。そのまま戻らないかもしれないことは、伝えていなかった。
「いいえ。でも大丈夫。きっと学校みたいにフラフラしてるだけよ」
「そっか」
知恵と京子、渡辺、そしてソラと火継。この五人が最終的なE班の編成だ。
「じゃあ私、渡辺と完全に二人きりになるかもなんだ」
知恵は背中を背もたれに預けて、足元を見ながら何度も頷いた。足の前で交わされた両手をゆったりと合わせていて、親指二本をぐるぐると回している。
「お?」
京子が目を平たくさせて、黒髪のベールに覆われた知恵の表情を覗き見る。
「顔が赤いぞよ?」
恥じらいが京子に、奇妙な口調で喋らせた。
「何。違うよ? 別に、なんにもないよ」
知恵の首を左右に振って否定する。遠心力で巻き上げられた髪の隙間から覗く表情には、にやにやとした笑顔が張り付いている。
「あるんですね。進展あるんですね」
「ないってば」知恵は強く言った。「それより京子はどうなの」
場外ホームランが後頭部を直撃した。形勢は逆転し、知恵が京子に詰め寄った。窓の外には美しい浜名湖の風景が広がっている。しかし今カメラを持つことは、二人の歩んできた文脈上では決して許されない。
「え、なになに、恋バナ?」
前方右隣の席がガタンと倒され、隙間から友加里が言った。さらに背もたれが引っ張られ、京子が体を捻ると、後ろの席の桜子と朋美が聴取の体勢を作っている。
「私も聞きた〜い!」
背もたれを揺らしながら桜子が言った。
「すごい視聴率だよ? 言わないとみんな、がっかりする」
「本当にそんな人いないんだって」
「でも最近の京子、よく男子と絡んでるよね。ほら……賢木くんとか」
京子は肩をビクリとさせた。
ああ賢木ね、と女子たちは口々に言う。緑髪の転校生をボディーガードしてたんでしょ? と友加里が言うと、みんな頷いた。ちょっと変な子が好きなのかもね、あいつ、と桜子が言ったので、これにも否定の意見は出なかった。
「じゃあ京子の好きな男子って……」と朋美。
「石上くんでしょ」知恵が言った。
京子が言葉に詰まると、皆あからさまになって盛り上がり、黄色い声で囃し立てた。
「石上って石上千次のこと? あー、あれは仕方ない」と友加里。
「テニス部エースなのに勉強もできるんだよね。かっこいいよね〜」と朋美。
「違うの、本当に」
真剣な京子の声が、浮ついた空気をなぎ払った。
「私とあいつは、そういうんじゃ――」
その時、場の空気が凍りつく。京子は何が起こっているのかわからず通路側に視線を投げると、そこにはセンジが何食わぬ顔で立っている。
「どうしたこの雰囲気。何かあったのか」
センジがしれっとした顔で訊ねた。京子の心拍は跳ね上がった。だって、彼は一両隣にいるはずだ。それがなぜ。こんなタイミングに限って。
「まさかの、ご本人さま……」と、友加里は笑いを堪えながら言う。
「き、聞いてた?」
京子はおかしな顔をせぬよう心がければ心がけるほど、おかしな顔になっていくのを感じた。
「いいや。ただ麗しいレディたちの声が、さざめきのように聞こえていただけで」
彫刻のような顔が発した吟句のような言葉に、その場の全員が赤面して絶句した。
ただ一人朋美だけ、キザだけど許せるう、と嬉しそうに言っている。
「あんた、そういうの、やめるんじゃなかったの」
「求められている気がして」
桃色のリュックを背負って通路側に出た京子は、センジの腕を引いてデッキに行と、ソラもすぐにやってきた。出会いざまにどうしたの、とソラが訊いた。
センジは少し硬い表情になって、
「実はさっき、たまたま教師たちが話してるのを耳にしたんだが……」
と言ってデッキの後ろに続く二号車を見やる。
「自由行動時間は作る。けど最初の二時間ぐらいは、ツアーにするって」
話が違うじゃない、と京子の声が飛んだ。
「歴史の下園がごねたらしい。日本史を自分で教えたいって」
あのハゲゾノめ! 京子は下園の蔑称を、抑え気味に叫ぶ。
「先生たちも、最初の方は気を配ってるはず。でも途中から監視に割く集中力もなくなってくるだろうから」
ソラが言った。それに続くように、一時間ぐらいツアーに付き合うのが妥当か、と付け加える。
京子は、能天気なことを言っている男子二人を脇目に、その場に急いでしゃがみ込んで、リュックから地図が挟まれたノートを取り出した。
「十二時十分の次は……、ええと、丹鉄のダイヤから逆算すると、一時半だわ。一時間も遅れるのね」
プリントアウトした時刻表を読み解いた京子は、不安な声を漏らした。
「ツアーは組別でやるらしい。だから二人は隙を見つけて抜け出してくれ。俺も何とか合流するから」
センジが京子を勇気付けるように、はっきりとした声で言った。
「抜け出すって何のこったい」
三人は一斉に視線を向けた。いつの間にかデッキに、もう一人が入ってきていた。床無火継。連結部のドアノブを握りながら立っている。
「アンタら、何を企んでる」
「ホツギ、これは」
「コネクターよう。アタシは自分の生理周期もアンタに伝えたってのに、早速秘密ごとかい」
ぐうの音も出ず、押し黙るソラ。京子が擁護するように前に出る。
「あのね、これはずっと前から計画していたことなの。火継さんが来ると思わなかったから、タイミング的に話せなかったけど」
そこで京子はソラに一瞥をくれ、片やセンジにも目配せをした。
「大江山に、ミステリーサークルを探しに行くの」
「へえ」
火継は呆気なく言って、ドアノブから手を離した。がちゃん、という音と共に、デッキの扉が完全にロックされる。
「面白そうじゃねえか。アタシも連れてけや」
激震が走った。が、それを態度に出さぬよう三人は砕身した。三人は互いに視線を交わし、無言のうちに、その提案を拒絶する姿勢を一致させる。
破滅的な笑みを浮かべていた火継は、しかし態度を急変させ、
「帰りたくねえ」
と呟いた。
帰る? ソラはそう言い返そうとしたが、あっ、と声を漏らす。
「そっか、この修学旅行は、火継の出身地に……」
彼女の出生地であり、人間としての彼女が死んだ場所。
京子と一緒にしおりを作ったから考えがおよぶのが早かった。彼女は自分の住んでいた街を焼かれ、全国の学生にその様が歴史的悲劇として学ばれているのだ。
「まあ、故郷にいい思い出とかねえしなあ」
京子もセンジも、返す言葉を失った。
それは天衣無縫な火継が珍しく放つ、言い訳だった。
ソラは、シートから生徒たちの頭が絶えず見え隠れする一両目に視線を流す。痛みを感じる器官が麻痺した彼らには、この旅はお祭りでしかない。
それは遠回しに、彼女の苦悩を凌辱しているに等しい。
「じゃあ、一緒に来るかい」
井戸端会議で決められないような一大決心だった。しかしセンジも京子も、その口から反論の声は上がらなかった。
「君が転校してくる少し前。僕たちが馴染みの喫茶店で話している時にね――」
聴いている時の火継は、まるで大人しい少女のようだった。