アニメ『のんのんびより』感想 ファスト田舎、地方蔑視とノスタルジーへの憎悪 / 俺の“のんのんびより”/ 彼の手を


タイトルは『ファスト風土化する日本』から捩ったわけではない。そもそも読んだことがない。どうせムカつく本だろう。

はじめに


この文章は

今なお地方へのヘイトを垂れ流す者。

地方への目配せを心がけているポーズをとりながら、ノスタルジーを感じるための標本としか見ていない者。

都市社会を疎んじながら自らはその恩恵に預かり、都会と対置する存在としての「田舎」を神聖視している者。

それらを含むナチュラルな地方蔑視を垂れ流しながら、自分は道徳的な人間であると信じて疑わない者たちへの、大義も道義もないただの憎悪だ。

勘違いしないで欲しいが、俺はこれから「お前ら」と呼称する上記の連中への反省を促すつもりはまったくない。むしろその類まれなる知性で持って、地方の「愚かな人間たち」を啓蒙する植民地主義者としての自覚を持っていただいて、これからも元気に地方蔑視に勤しんでほしい。

俺は1人の反知性主義 (※) の田舎者としてお前たちと対立し、来たる決着の時までお互いにこのかげがえない憎悪を大切にしよう、それがこの文章の趣旨である。

『のんのんびより』とかぶっちゃけ関係ない。
ネットの皆さんがよくやる、アニメと社会を関連づけて仮想敵とシャドーボクシングするやつ、あれをやる。
ちなみに俺の仮想敵である地方蔑視をかましているアカウント群はしっかり把握しているが、ここで晒すことはしない。イデオロギーのゴミだめであるTwitterでは、敵対者の発言をスクショして、お仲間と一緒に叩くのがバトルマナーではあるが、俺は単騎で戦う。ここでは俺が俺の責任で言いたいことを言うだけだから、最終的に叩かれるのは俺だけでいい。

「現実の田舎は最悪だ!」みたいな話ではないことも言い添えておこう。
『のんのんびより』が田舎を舐め腐ってるのは事実だが、俺はここで「田舎出身の俺にはこんな幸せはなかった!」みたいな話をするつもりはない。被害者ヅラして配慮を求めるつもりもない。
むしろ「田舎に生まれてハッピー!ハッピー!」と言いたいくらいだ。だからお前らの大嫌いな、”家族”・”田舎のコミュニティ”・”伝統”・”風習”、そんな地元最高!な話をいっぱいしてやる。

文章構成には全く気を使わない。思いついたままに怒りをぶちまけていく。
読みやすさなど知ったことではない。もとより読ませる気などない。

(※)
ここでいう「反知性主義」はホフスタッターがアメリカの国民性に見出したところの反権威主義・反エリート主義的意味合いではなく、ネットのインテリ共が大好きな、「無知で低俗な愚か者」を糾弾する際の誤用の意味だ。こちらで構わない。
ちなみに俺の反知性主義に対する理解は、森本あんり著の『反知性主義』と、ルター派プロテスタントの投稿者によるこの動画に依拠している。

俺はエリートや知識人の立場に取って代わろうなんて気はさらさない。そもそも俺には学もなければ教養もない。あくまで1人の野蛮な人間としてお前らと敵対する。さらに加えてここでいう「お前ら」とは、日々ネットでイデオロギーの腹話術人形をやって不毛な議論を続けている連中の大半を指す。どの派閥がどうだなど問わない。どの派閥に属す人間であれ大なり小なり地方蔑視を行なっている。

俺の敵は自分を知性ある者の側に、地方に暮らす人々を知性なき者の側に置いて論立てている奴ら全般のことであり、仮にそいつが俺とイデオロギーの支持を同じくしていたとしても関係ない。地方蔑視はイデオロギーを問わない。

建前だけの平等主義がもたらした淘汰圧によって、最後に許された「正当な差別」は地域差別知能差別だ。ルッキズムもあるが、最近は知能差別へ付随する形で発露されている。「知能が低い=外見に気を使わない」みたいな形で。しょうもない正当化だ。最初から「ブスは嫌いだ」と言った方が潔い。
地方蔑視にはその2つがミックスされている。

勘違いされると困るので再三釘を刺すが、俺は「この差別はダメだけど、この差別はOK」とかやってるペラペラのモラリストが嫌いなだけであって、俺こそが真に道徳的な人間なのだと誇示する意思はまったくない。
しっかり筋を通しているのであれば差別主義だろうが反差別主義だろうが好きにしろと思っている。要は「この差別がOKなら、あの差別もOK」か「この差別がダメなら、あの差別もダメ」、このスタンスしか信用しない。

俺は身内には優しくする、他人には礼儀をもって接する、敵はボコボコにする、このスタンスだ。決して「差別」に怒っているわけではないということを留意してほしい。
俺はこの文章で「お前らが嫌いだ」以上のことを言わない。

本文読みたくない人向け要約 (俺もこんな長ったらしい文章読みたくない)

田舎には田舎の環境に沿って合理化された生活様式と文化形態があって、それは現在進行系の知恵でもある。それらをノスタルジーに包んだ回顧録に仕立て上げ、とってつけた普遍主義で同化を図ろうとする奴らは、こっち来て草刈りの一つでもやってみろや。
てめえ等みたいな先進的な面して勝ち馬乗った気でいる奴らの上からの説教に、応じる気も筋合いもさらさらねぇつってんの!



田舎舐めとんのか

アニメ自体の感想は大体これ↑に集約されるから残りの4万字余りはもうただの喚き声だ。




俺は「嫌いなアニメ」とはまだ出会っていなかった。

今までは面白いアニメ/面白くないアニメの2択があり、そのどちらかに理屈もクソもない「好き」という感情が伴うか否かくらいでしかアニメを受容していなかったが、今回初めて「嫌いなアニメ」と出会った。

それがこの『のんのんびより』だ。
こういうのをオリエンタリズム言うんちゃうんか (サイードは全く読んでない)。

この白々しさ、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(※)の第3村パートに匹敵する。『のんのんびより』はそれが劇場版を挟んで3期も続いたことがマジで癪に触った。劇場版も公開当時、肝心の地方での上映館が少なかったのも皮肉なことだ。

基本的にクソつまんねぇから倍速してやろうかと何度も思ったが、ぶっ叩く以上しっかり目に焼き付けなきゃフェアじゃないので、TVシリーズも劇場版もきっちり見た。

(※)
ついでだし、ここで『シンエヴァ』の悪口も言っておくが、あんなペラペラの共同体描写で「人間性を回復しました」みたいなこと言われても何も説得力がない。
あの村でシンジがやっとったことなんかレジャーやんけ。ぼーっと釣りしとる場合か、草刈り手伝えや。お前ヒョロヒョロやし草刈り機まともに使えへんやろから除草剤撒くのだけやれ。俺が草刈ったあとに満遍なく撒いとけ。タンク背負うんは手伝ったるわ。
なんか「大人になった」みたいな描写してたけど、あの第3村パートが決起になったのなら、それこそシンジはあの村でちゃんと仕事して、共同体の一員になって「大人になる」べきだったよ。

さて、この『のんのんびより』で描かれる田舎は単なる観光商材だ。

美化された自然、謎に金のありそうな自治体、悪戯っ子ぽく造形されてはいるもののガチで盾ついてはこないガキ共、やたら綺麗に舗装された道路、しれっと鉄道が通っていて市街地にアクセスできる立地。
田舎の「不便・不快」を限りなく漂白して、非田舎出身者がその生活実感を得ることなく、物質主義やら競争社会やら人間関係やらから逃避して癒されることを目的としたアミューズメントパーク。

劇場版で沖縄行ってもう完全にアミューズメントだなって思った。
そこは一条蛍に東京を案内させろや。

俺はそれこそのんのんびより村のように四方を山に囲われた典型的な狭い盆地の、そのまた隅っこの田んぼと畑だらけの狭い農村の人間だが、こんな呑気に暮らしているつもりはない。電車もねえしな。とはいえ、こんなこっちの方が田舎だもん!マウントは不毛だからやめる。

『のんのんびより』をアミューズメントたらしめているのはまさにキャラクターの造形だ。のんのんびより村の住人はどいつもこいつも「お客様」のご機嫌を損ねないように、ディズニーキャストの如く水先案内人をしてくれる (ディズニー行ったことない)。
文化の差異、インフラや商業施設に対する認識のギャップを、カルチャーショックとして提供してくれて、村のコミュニティへの参加は強制せず、あくまでおもてなしをする側でずっといてくれる、そんな存在。
もちろん「お客様」とは都会から転校してきた主人公・一条蛍のことであり、そして「田舎」にあらぬ幻想を抱き、そして勝手に幻滅しやがるお前らのことだ (俺は婉曲表現が苦手だし嫌いだからハッキリと言うがお前らはガキだ)。

劇場版でもしも一条蛍の「故郷」である東京へと旅行することになっていれば、にゃんぱす達と一条蛍、両者の日常の交換が発生し、逆説的に田舎を描くことが1ミリくらいは達成されたと思う (もちろん仮にそんなアプローチが取られたとしても、納得のいくものになるとは思わない)。

結局、劇場版でロケーションに選ばれたのはド定番の「観光地」とされている沖縄だ。
ここにきてにゃんぱす達も「観光産業」のユーザーとして立場を同じくすることで、どこまでも徹底的に「客」としての立場を補強し、「客」にとって都合の悪い田舎を徹底して回避する。その言い訳かのように一条蛍に「田舎には田舎の良いところがあるよ」みたいなセリフを吐かせ辻褄を合わせようとする。

いつだったか福井県池田町の自治体が出した、移住者用の「7箇条」が炎上していたことがあった。まぁ、俺もあんな文言では炎上もするだろうなとは思ったが、正直田舎のインフラ維持や行政の貧弱さを鑑みたらやむを得ない部分もあるな、と思っていた。
だがそんなことより、俺がシンプルにムカついたのはあの炎上で池田町への批判の中にあった「移住して”もらってる”くせに」という言い草だ。マジでお前ら、頼めば何でも取り揃えられて、そして面倒ごとは全部行政やエッセンシャルワーカーなりに丸投げできるのが「普通」だと思い込んでんのか?


ヒト・モノ・カネ、全部充実してる都会の論理を、そのまま全地方に適応するなボケ。
こういうお客様根性が少なからず蔓延っているから、俺はそういうバカは「移住」なんて絶対するもんじゃねぇし、自治体も自治体で安易に「移住」に乗っかるんじゃねぇと思っている。


まぁ要はこの『のんのんびより』はそういうお客様根性拗らせたやつの仮想の「移住先」としてはうってつけなわけだ。こんな山中の田舎での生活、お前らは実際にやったら2秒ともたんやろ。

山間部じゃ汲み取り式のトイレなんてザラにあるぞ?うちがそうだ。
定期的にバキュームカーが来て、作業員の方が処理してくださるわけ。なんなら都会にだって極一部残ってるところはあるだろう。
文化の違いが云々より、文明レベルの違いでお前ら絶対文句言うだろ。歩いて行ける距離にコンビニない時点で終わりだ、お前らみたいな軟弱もんは (「歩いて行ける距離」の認識にも差がありそうだな)。Uber Eatsは当然ないし、Amazonはお急ぎ便だろうが3日後なんて普通だ。

そういうお客様根性のもとつくられた作品なのだから、そこに厳密なリアリティや整合性を求めても仕方がない。

実際、この『のんのんびより』は特定地域をモデルにしたものではなく、不特定多数の地域から「田舎っぽさ」を借りてきて継ぎ接ぎしたものだから (製作者インタビューも読んだわ)、そこかしこにある無理な描写に突っ込んでもしょうがない (気候の描写もマジでめちゃくちゃで、瀬戸内のどっかがモデルか?と思ってたら突如雪国になって意味不明だった)。

基本的に『のんのんびより』で描かれる田舎の風景は書き割りといっしょだ。牛舎鶏舎の匂い、野焼きの煙も漂わない、ずっと空気清浄機がかかっているような清潔な空間。田舎のモチーフは置かれていても無菌状態の世界。土の匂いも、雨上がりに立ち上る青草の匂いもなにもない。俺にとっては当たり前のことで普段は気にも留めないが、感じることはもちろんできる。
しかしこのアニメがそれを想起させることはない。それが俺の感性の問題であるならば、それで結構。少なくとも俺にはこの風景はハリボテにしか見えないし、ハリボテを超えて伝わる熱量も感じない。

この清潔さは『海獣の子供』にも見受けられたことだ。
大量の深海魚の死骸が港に上がった際の描写は不自然極まりなかった。悪臭対策全くせずに作業してたの意味わからん。

あと虫な。虫が徹底的に排除されてたのはほんま笑った。鳴き声とかのBGMとして処理されて、ムカデ (トビズムカデのデカいやつね) も出ねぇし、カメムシも出ねぇ。
最近はマジでサイズがでかいんだよな、カメムシ。今年は大量発生して特に最悪だ。窓に大量にくっついてる写真貼っつけてやろうかと思ったけど、流石にテロだしやめとくわ。


まぁその辺の詳細を詰めて行ったら描画コストがとんでもないことになるから、そういうのを省いてキャラクター同士のやり取りに終始させたんだろうが、だとしてものっぺりとした立て付けであることに変わりはない。シリーズを追うごとに言い訳のように風景描写が増えていったのも一層空虚だ。

いや、俺だってそんないちいちフィクションの設定に対して「いやいや現実ではこうで〜」ってネチネチやるような、痛いオタクみたいなことはしたくない。
銃器の描写にやたらうるさいミリオタとかそんなのは野暮だと基本的に思う。
俺はギターを弾くが『ぼっち・ざ・ろっく!』のアニメが放送された際、インレイの向きが違うとかごちゃごちゃ言ってるやつを見て、どうでもええわそんなもんと思っていた (俺も別のことでごちゃごちゃ言ってたから説得力ないけど)。

まぁ田んぼから這い出したクサガメが轢き潰されて、内臓が甲羅からはみ出てるとこを「きっしょ…」つってガキどもが通り過ぎるシーンとか入れるだけで「田舎あるある」くらいにはなったろうよ。

この『のんのんびより』は田舎のフリをしたファンタジー、それは百も承知だ。シリーズ最終回の視聴者サイドに向かって手を振るシーンが、このアニメで描かれる景色がファンタジーでしかないことを強調している (俺はこういう第4の壁を超えて訴えかける演出は好きではない)。


しかしそれを踏まえてもこの『のんのんびより』的な田舎観と、そしてそれをありがたがるような奴らは心底大っ嫌いだ。


現代ネット社会における「田舎」の役割は大きく2つ。

1つは、旧弊的な価値観が未だ根強く残り、弱者は常に虐げられ、非合理な慣習や伝統によって縛られている「因習村」であり、その被害を受けた、あるいは受けた人の話を聞いたという根拠のもと、その地域の文化、風習、暮らしている人々をあくまで道徳的に糾弾する、そのための殴り返してこないサンドバックとしての「田舎」 (殴り返されても“正しい”のは自分達だから大義は失われない) 。


もう1つは、

大量消費社会によってすり減らされる「なにか」

行きすぎた文明化によって現代人が「失ってしまったもの」

あらゆるマネタイズを逃れた「代替不可能な価値」

そういうふわふわしたものを見出す、もしくはあらかじめ失われたノスタルジーを喚起するための、存在せず手に入りようないが故に何物にも交換されない、象徴としての「田舎」。


前者についてはもう好きにしろという感じだ。
実際、頭の硬い年寄りはいるし (田舎じゃなくてもいるだろボケ)、洗練されてスマートな文化・教養をお持ちのお前らからすれば、下品な文化・伝統が蔓延っているのも事実なのだろう。


後者についても個人的にはいけすかないが、そういう趣味なんだと思うことにしている。
だいたいこういう類型を好んでいる。
寂れたバス停、無人の駅、文化住宅の連なり、山の麓にポツンとある鳥居から長く続く石段、田園をまっすぐ貫く畦道、祭囃子の音、帰省先でたまたま出会ったその日だけ遊んだ名前も知らない現地の子供 (連中はもっとキモい語彙で装飾するが俺のエミュレートではこれが限界)。
俺はそのどれもを「現地の人間」として知っているが、何がそこまで彼らの欲動を喚起するのか全く分からない。自分の生活と結びつかないものをありがたがるようなもんか?
まあ、タイラー・ダーデンとか好きそうだな、って感じだ。

とりあえず夏とセットでお送りされる類型が多い。俺は夏が一番嫌いな季節 (繁忙期&エンドレス草刈り) なので、夏と田舎の組み合わせでエモくなれる神経を持ち合わせていない。

甲子園くらいだわ、夏でエモくなれるの。キンキンにクーラー効かして、テレビの前で素麺啜りながら、球児が頑張ってるのめっちゃ応援してる (プロ野球は見ないし、別に野球詳しくない)。
季節で一番好きなのは冬だ。虫も草も一様に元気をなくすから。

ああでも「田舎のおねショタ」は最高なんでもっとやってくれや (『たからさがしのなつやすみ』のCV変更…せめて前編の旧データは残してくれんか?)。


だが俺がネットに溢れる地方・田舎への様々な偏見のバリエーションを目にするにつけ、どうしても虫唾が走って許せないものがある。

それは上記2つの田舎観を実に器用に使い分けて、田舎の政治的・経済的・文化的価値を賢しらに語っているものだ。

チェーン店の進出による風景の均質化を嘆き、イオンモールの景観破壊を嘆き、木造だった駅の改修による「風情の消失」を嘆き、町おこしのための観光地化を嘆く。
そこに住みもしない、コミュニティへの理解もない、たまたま映画やアニメで取り上げられた現地を「聖地巡礼」だのなんだので訪れる程度の理解度で、四国に新幹線は不要だの、地方の洋風建築には風情がないだの、実に「お客様目線」で好き勝手言いやがる。

その土地に根付いた文化に1ミリも理解を示さないくせに、「その地域ならではの〜」だの「独自の文化を活かした〜」だの、具体性もクソもないカスみたいな提案で、地方に「現状維持」を強いてくる。

お前らの旅情だの風情だの、そういう情緒的な欲求を満たして、こっちの暮らしが良くなるならいざ知らず、大して金も落とさねぇたまに物見遊山で来るだけの分際で、地方の経済発展を否定しようとする態度には本当に腹が立つ。
お前らが田舎を語るときのボキャブラリーなんて、「緑豊かな景色」とか、「古き良き町並み」とか視覚情報で得られるしょうもないもんでしかない。画像検索で事足りる。
お前らのようなもんは根っこは日和見で、世論の風向き次第でポジションをコロコロと変えやがるから、そろそろショッピングモールの有用性を褒め讃えるターンがやってくると踏んでいる。

もっとキショいのは都市部と地方の教育格差やら、経済格差やら、人口一極集中やらをあげつらって、自分は恵まれた側にいるから地方の実情にもちゃんと目を向けなきゃ!みたいな反省ムーブしてるやつ。
あれなんか自分の住んでるところの優位性の確認作業する以上の意味あるか?あれ自分をモラリストに仕立て上げて賞賛を浴びたい以外の目的あんの?

さらに輪をかけてキショいのはそんなカスどもに阿って、自分も「お仲間入り」をしようとしている・地方出身者だ。地方の醜聞が話題になった時に「ワタクシの地元がすいません…へへ」みたいなゴマスリやってんの見てると、てめぇには少しくらい生まれに対してのプライドは持てねぇのかと問い詰めたくなる。
自分が枠組みや既成概念に縛られない人間か何かだと思い込んでんのか?都会のスタンダードに尻尾振ってるだけなんだよ。何も自由じゃない。そういうさもしさも含めて連中は見下してるんだよ。

そうやって道徳節を垂れ流した口で、今度は田舎を低い知性の側において見下し始める。タイミングは様々だが、特に地方蔑視が盛り上がるのは災害が起こった時、次に選挙の時だ。

能登半島の地震は記憶に新しいが、あのとき「成長性のない辺境に災害対策なんていらない」だとか、「都会に集団移住させろ」とかそういう言説が跋扈していたのを俺は忘れない (田舎の公共事業費の削減を要望しながら、災害が起こればインフラの復旧をさっさとしろと喚き立てる輩も意味がわからない)。

そういえば秋田県で熊の出没件数が増加し、その駆除に対して反対の声が寄せられたという話題の時も「そんな地域に住んでるのが悪い」とか言ってたやつがいることも俺は覚えている。タイムラインを覗けばそういう奴が福祉政策の重要性を訴えてたりするの何かのギャグか?自己責任論を器用に振りまいてるのマジで滑稽だわ。物価が高いだの、家賃が高いだの、子どもの教育費が高いだの、ごちゃごちゃ言ってる時に「都会から出れば良いのに」とか言われたら烈火の如くキレる癖にな。

害獣駆除反対が噴き上がるのはだいたい環境保護とか動物愛護の文脈なのだろうが、そういうやつほど人に(※)飼い慣らされた動物 (猛獣含む)の動画無限にRTしてたりするし、都会暮らしのくせに自然大好き!みたいなやつも多いのもなんかのギャグか?はっきり言って田舎の人間の方が自然との向き合い方には真剣だわ。
緑色の壁に囲まれた部屋でナショジオ見とけ。

(※)
ちなみに俺は犬猫は従属させられるから可愛がる、牛豚は美味いから食う、害獣は仇なせば駆除する、こういう人間上位/動物下位のヒューマニズムでやらしてもろとるんで、そこんとこよろしく。ペット産業は否定も肯定もしないが、公共の場や緊急時にペットを「家族」扱いする場合において批判的立場をとる (ペット産業部分的反対派と思ってくれて良い)。私的空間における「家族」扱いは主従関係から目を逸らした欺瞞ではあるが、それを含めての人間上位の関係であることを自覚していればいい (そこに自覚がないやつが公的空間での「家族」扱いを求め始める)。


そして選挙の際は自分たちの支持しない政治家が当選したとき、その地域の有権者を「学も教養もないバカ」だと罵る。これは「知性」の問題だから差別には当たらないんだそうだ。知的障害者を罵るときと同じようなことを言っているのはどうなんだ?
地方出身の政治家に対する「あの地域出身はね…」なんて言説も同様だ。

その土地に根付き、その土地で生きている人間が何も考えず、ただ慣習に従って生きていると本気で思っている。
そうやって地方の人間を数に還元し、情報に還元し、そこで育ったのだからそうなるはずだと決めつける。そのくせ自分たちは血の通った人間で、そういった冷たい所作とは無縁の素朴なヒューマニストだと言って憚らない。

俺はネットで道徳的な説話を垂れ流す奴らを全員信用していない。タイムラインがそんな言葉で埋め尽くされている奴こそを真っ先に疑う。
自分は思慮深く、他者を慮る想像力があり、決して人を貶めるようなことはしないと本気で信じていて、「個別の事例を属性全体の問題にすりかえて、排他的な言説を垂れ流すのはやめろ」と言ったその舌の根も乾かぬうちに、「これは地域の問題だから」、「これは事実に基づいているから」と、今まさに糾弾していた排外主義者と同じ理屈で特定地域への偏見とヘイトを垂れ流す。しかし、それは奴らに言わせれば差別ではないらしい。

曰く、「田舎者の知性のなさが悪いから」

曰く、「これは地域性の問題だから」

曰く、「前時代的な価値観を打倒するためだから」

曰く、「加害者が被害者ぶっているから」

曰く、「これは差別ではなく区別であるから」

「九州出身の人間はそこから一生出てくるな」という主旨の発言と、それが多くの支持を受けていたことを俺は忘れはしない。


それらしくもっともらしい理屈をつけて、こいつらは排除して“良い”、排除することが“善い”ことであると主張する。そういった理屈が過去どんな事態を招いたか歴史を振り返れば分かるはずだが、奴らはむしろその歴史こそを盾に取り、「お前たち田舎者こそが元凶なのだ」と迫る。

端的に言って想像力が欠如している。

他人に対しても、自分に対しても。お前らが日々、社会だの、道徳だのに考えを巡らせている (つもりでいる) ように、お前らが十把一絡げに断罪した地方の人々だって、考え、迷い、悩み、妥協と達成の日々を重ねながら生活を続けている。

そんな当たり前のことに一片も気づかない。
本気で自分とそして自分の意見に同調する「お仲間」以外の人間は、無知で、浅慮で、 道徳の欠けた奴だと思っている。
自分の垂れ流した言葉を見返してみるがいい。

「〇〇出身はこれだから…」

「田舎の悪習だ」

「そんな地域で暮らすと洗脳される」

そんな類の発言でお前らが道徳心を満たしている歪な在りようを、お前らが自覚せずとも俺が、そして頭ごなしに悪役にされた地方の人々は知っている。

繰り返すが俺は何より腹が立つのは、そんなお前らが何を血迷ったのか、地方の再開発や、伝統行事の廃止や、地域文化の途絶、災害の皺寄せを食らっているニュースを見れば、心を痛めたふりをするところだ。
面の皮が厚いにも程がある。そしてお前らは地方に暮らす人々を見下しながら、いや見下しているが故に、そこに根付いた文化・風習を簡単にノスタルジーの餌食にする。


『のんのんびより』にはそんな連中が喜びそうな「ノスタルジー」が満載だ。


川遊びなんてしたことないだろうヒョロヒョロ野郎が想像しやすい浅瀬の川遊び。あんな浅い川で飛び込みなんてしたら普通に怪我するし下手すりゃ死ぬわ。


のっぱらに仰向けで寝っ転がっててアホかと思った。鹿や猪のフンまみれになるぞ。


狸ねぇ、家の周り走り回っとるわ。そこかしこでフンするわ畑荒らすわマジでゴミ。
まぁ野良猫の方が腹立つけど。奴ら器用に窓開けたりして家の中まで侵入してくるから油断ならん。


鉄拳制裁はしない肝っ玉母ちゃん。
別に体罰肯定論者ではないし、しばかれたことなど2、3度あるかないかだったが、あのプチ家出回はアミューズメントポイント高かったわ。


生野菜詰め込んで海遊びに行かせてんのマジで舐めくさってると思った。
はいはい、ご近所さんと野菜の物々交換はありますよ。家にも鍵しないから勝手に入ってもきますよ (いうて玄関前で挨拶くらいするぞ?)。うちがまだ米作ってた時は米分けたりもしてたわ。


基本ガキに外遊びさせてんのマジでしゃらくせぇ。田舎のガキは野山駆け回ってんでしょってか?まぁね、そりゃ外ではいっぱい遊んだよ。
鬼ごっこした時に半袖半パンで雑木林突入して、虫刺されと漆の葉で全身かぶれまくったりもしたし、川でもバシャバシャ遊んだわ。

でも普通にゲーム機もってるやつの家に集合してこもりっきりで遊んだりもしたし、自分のパソコン使えるやつの家に集まってフラッシュ倉庫見たり、ニコニコ動画でMAD見てたりしたわ。
とにかく非文明的な暮らしを強調したいのな。
いやコンビニは遠いよ。娯楽施設と呼べるものもない。スーパーもとっくの昔に潰れて、買い物は隣のそのまた隣の町に行かなきゃいけない。
けど別に都会の連中も楽しんでるコンテンツを、周回遅れだとしても享受してたわ。


これアレか?都会だとすぐクレーム入って子供の外遊びが制限されてっから、責めて田舎では外で走り回ってるガキがいてほしい的なやつか?
最近は大人がすぐピーピー泣いて、子供が変に弁えてるキショい時代だから無理ないかもしれないな?


一条蛍とにゃんぱす達の間で示される文化的素養の差異。
服装のセンス、語彙の違い、音楽の趣味。
種島ぽぷら亜種は胸張ってJ-POP聴きな。邦楽バカにしてイキってるカスはわんさかいるが、そいつら基本的に洋楽聴きたての中学生レベルやから。


子供の数が少ないから学年が一緒くたにされた廃校寸前の学校 (お前らそういうの好きそうだな。廃校まで密着取材するドキュメンタリー好きそう)。
あのレベルの学校は吸収合併される (というか村落の規模に対して子供の数が釣り合ってない。その割に限界集落っぽいし、色々チグハグすぎる)。
俺の母校が合併する側で、『のんのんびより』の学校と同人数でもっと山奥の学校を吸収した。
合併された子達の扱いはなんとも侘しいものだった。ブルーハーツは正しい。田舎者たちが夕暮れ、さらに田舎者を叩く。

ちなみに俺の地元もガキの頃に早々に市町村合併で、群から市に属すことになり、学校名はさらっと「市立」に書き換えられた。
その日から今に至るまで、その市に対する帰属意識としての市民感覚は全く持ってない。
そもそもこっちで大雨が降っているのに、市の中心に行くと晴れていたりするくらいには住む環境が違いすぎる。

当然ずっと1クラス、クラス替えなどなく保育園も含めりゃ10年以上同じ顔ぶれで、まぁそれでみんな仲良しなんてことはなく、俺はモラルもクソもない同い年の奴ら全員カスだと思ってて、そういう態度を隠しもしなかったので、義務教育最後の方は「俺はお前らのこと嫌い、お前らも俺のこと嫌い、両思いやな!!」くらいのテンション感で、ニコニコギスギスしてたわ。


どこにそんな人手がある?と言わんばかりに整えられた田園。
普通に休耕地増加しまくっとるが?そこを雑草が繁茂しまくっとるが?今はかろうじて田んぼすく人いるから、まだ使われてる田んぼに害虫の被害はないけども、跡継ぎなんて当然いないので、もう今やってる人がいなくなったらおしまいですよ。

うちも昔は田んぼやってて、俺も手伝ったりしてたけども、最近は儲からんのでとっくにやってません。それでも草刈りはやらんとあかんのでね、毎年草刈り機回してますよ。

ちなみにガキが無賃労働させられるところはリアルでしたよ (あの規模の田んぼで手でちまちま植えるわけねぇだろ、コレはギャグにしてたけど。『シンエヴァ』ではずっと手で植えてて、あの無駄に発達したテクノロジーをどこで発揮すべきかも分からねぇのか?と思った)。

「子供会」という秘密結社がありましてね、オロナミンCと惣菜弁当だけで公園の草引きとか墓回りの掃除をやらされるんですね。大人は草刈機ブンブンですわ。それも俺が子供の時の話で、いまはもう少人数で草刈り機回して、除草剤ぶん撒いて終わり!!

まだ生き残ってる田んぼ
終わってる田んぼ
これはまだ管理がされてるやつで、すく前の状態
終わってる田んぼ2
これは放ったらかしのやつ
終わってる田んぼ3
これは曽祖父の代で開墾した不毛のちっせぇ棚田
水はけ最悪で底なし沼になっている
うちの管轄なので草刈りはやる
冬場の状態
1段目草刈り終了


2段目終了


こんな感じで俺が子供の頃はまだ田んぼや畑だったところは荒れ果て続けている。
釘を刺すが俺はこれにノスタルジーなど全く感じない。感傷にも浸らない。リアルタイムな出来事として粛々と受け止めている。

ちなみにこれはまだ買い手がついてなかったりするだけで、みんなもう使わない土地はとっとと手放したいと思っている。では買い手がつかず、国も県も買い取ってくれず、年寄りだけでは管理もしんどい、そんな不毛の土地を有効活用するにはどうするか分かるかな?

そうだね!ソーラーパネルだね!!

これはつい最近できたやつで防草してるけど、
どうせこんなもんすぐにボロボロになって雑草まみれになる
これは除草剤撒いてたりしてマシなやつ
終わってるやつ


まぁこんな感じで田舎の村のど真ん中にソーラーパネルが鎮座することになる。

ちなみにこれらは俺が散歩中に収めた写真で、県道沿いにずらーっと並べられたものもある。どこの会社が設置したかも押さえている。別に他意はない。だいたい東京の会社だ。もちろん他意はない。


田舎の人間が管理するのが難しくなっているのは農地だけではない。
『のんのんびより』ではあっけらかんと描写されていた山々だ。田舎あるある、山持ってるやつ。別に金持ちだからとかそんなわけではない。相続したものを仕方なく持っていたりするだけだ。でも結局使い道はないし、金食い虫だし、国も県も買い取ってくれない、そんな不毛な固定資産をどうするか分かるかな?

そうだね!!ソーラーパネルだね!!!

これは山の共同墓地の横にあるやつ
これは地元のお客さん宅から見える山にあるやつ
その2
その3


まぁこんな感じで小賢しく角度によっては山間に隠れるようにずらりと並べられる。ちなみにもっとあけすけに山肌をごっそり削り、ソーラーパネルのピラミッドみたいになってるやつもある。

まぁこれが観光商材としての価値のない地域における「田舎の風景」ですよ。
年々増えていっている。

勘違いしないでほしいが、俺はこれに対してかつての「故郷」を返せ!!などと憤っているわけでわない。
まぁ巷で叫ばれるエネルギー問題だなんだの、かかるコストはこうやって田舎に押し付ければいいと思ってんだろうなとは思うがね。クリーンエネルギー万歳!!

ちなみにうちの田んぼは人から借りている (管理を押し付けられている) ものがあるのだが、貸し手の人はうちに買い取って欲しいと常々言っていて、親父はそれをなぁなぁにやり過ごしながら、もう米を作らない田んぼの草刈りだけをやっている。

正直、草刈りも年々キツくなってきて、親父がダメになった時に俺1人で全部やるわけにもいかないので、俺の代になったらさっさと買い取ってソーラー業者に貸し出しちまおうと画策している。当然ながら田舎の人間もこの資本主義社会のステークホルダーなのだ!

ほんまSDGsだエシカル消費だ、インテリどものための雇用創出か食い扶持の奪い合いだろうとは思うが、こっちにも取り引きの余地があるならそれも良し。最大限利用させてもらおう。

ああ見たい見たい!!

ジジババだけでは維持できなくなった農地・山をソーラー事業者に売り渡し、にゃんぱす達は進学・就職して村には戻って来ず、残るのはソーラーパネルの在庫処分場としての価値しかない『シン・のんのんびより』がこの目で見たい!!!

なぁのんのんびより村の自治体ってそんな金あんの?

だから道路あんなに綺麗に舗装されてんの?

若い衆は草刈りやってんの?

一条蛍の親の仕事ってなに?転勤であんな綺麗な新築一軒家ってどういうこと?


あの駄菓子屋のお姉さんはこの先どうすんの?

あんたハタチやってねぇ。
俺いま25であんたと同じく田舎で家業をちまちまやっとりますけど先行き大丈夫そ?俺も結構やばいなと思って将来のためにいろいろやってるけど、そんな先の見えてる田舎の駄菓子屋と通販業者でこの先やっていく見通しある?
マジでキショい感じになってきた。

てかそもそも子供5人しかおらんのに駄菓子屋続けられるん?あの子らどうせこの村出てくで?
ちなにみうちの地元のはずれにも今年創業100年を迎える駄菓子屋があるけど、まだこっちは全校生徒もうじき100切るくらいやからさぁ (一発で特定できる特徴があるけどここでは伏せる)。

この歪な田舎観は『明日ちゃんのセーラー服』でも感じたことではある。
あの歪さも原作・アニメともに意図的に演出されたものだ。
こちらの方の評に俺も概ね同意する。

あれの本質はゲーテッドコミュニティにおける上流階級の戯れで、庶民派っぽく描写されてる明日ちゃんも、無限に清廉な人格者として神格化されることで、その他のお嬢様たちとの階級差に伴うズレをうやむやにしている。あの雨漏り描写のとって付けた貧乏アピール感はすごい。
築50年越えの我が家はもうあらゆる場所で雨漏りして、屋根ってなに?って感じだが。

あの世界で一番空虚で非人間的なのが明日ちゃんだ。
どこまでも偶像で、どこまでも神聖視される無垢の象徴。その異常なキャラクターにまかせて突っ切れば良かったのに、明日一家のエピソードで父親が出てきて、急に「子供らしさ」アピールが始まって俺は結構落胆した。
明日ちゃんの持つ、突き抜けた善性を振り撒いて他のキャラが抱える卑屈さ (それだって大して醜くもない美しい悩み) を浄化していく聖人という魅力が、突然ぬるい円満家庭ストーリーに回収されてしまいその神性はひっぺがされてしまった。
度重なる公会議で三位一体説をゴリ押ししたアタナシウス派の気持ちがこの時分かった (曲解)。


これマジでずっと思ってることだが、ある種の田舎趣味者による、田舎を一種のゲーテッドコミュニティとしてみなして、そこにしょうもない孤独趣味を見出そうとする感じがウザすぎる。
人混みから遠く離れて山奥の一軒家で、本に囲まれて、自然を眺めながら、静寂の中で孤独に浸り…みたいな押井守が言うところの「クソインテリの妄想」。実際に暮らし出したらすぐに「アレもない!コレもない!」って言い出すのが目に見えている。それを本心では気づいているから、都会住みの癖に物質主義を嫌うポーズをとる奴ほど田舎に移住などしない。『Fake Plastic Trees』聴いてウジウジしとけ。

それこそ、宮崎駿なんてその典型例ではあるが、東京生まれ東京育ちのボンボンのあのジジイは、流石に伊達でインテリやってないから、『となりのトトロ』でサツキに見放されたメイが大泣きするシーンで、田舎の静寂が窮地にあってなんの慰めにもならないことをきちんと描いていた。だからカンタがあの場でメイの側にいるわけだ。

こんなん『くまみこ』の方が何百倍もマシだ。
あれは田舎の負の側面を露悪的に茶化す文脈で描いたものではあるが、『のんのんびより』の薄っぺらな接待キャラクターたちよりも、よっぽど生き生きと田舎に暮らす人々の喜怒哀楽を描いていた。なんかアニメだとよしおのキャラが改変されて炎上したらしいが、知らんそんなもん、原作読め。

別に『リリィ・シュシュのすべて』みたいな閉塞感こそが田舎なんだよとは言わない (アレもアレで「因習村」パッケージみたいなところはある)。

田舎は別に「のどか」なだけでも、「のんびり」なだけでもなく、普通にやることいっぱいあるし忙しいって話がしたいわけ (あとお前らが色々せっかちすぎるだけ)。そしてそれは共同体の寄せ集めパワーでなんとか回してたりするって話なんよ。みんな仕事の合間縫ってやるんだよ、自分らで。だから基本便利になることに越したことないわけ。
お前らがたまに「不便」を味わうために田舎は存在してないんだよ。

それにさぁ大抵のジジババ連中は田舎から若いのがみんな出ていくことも、あとは滅びを待つだけなのも受け入れてんだよ。うちの村なんてもう年寄りだらけだけど、若いのを村に閉じ込めようなんて1ミリも思ってない。みーんな好き勝手に出てってるよ。俺は留まることを選んでるからここにいるってだけ。

こういうのもお前らにとっちゃ自己責任なんでしょ?
でもさ、ネットで喚くだけのお前らと違って引き受けてるもんがあるんだよ、こういう地方の人間には。正しく自己責任を遂行してるわけ。


ずっと田舎の話をしても芸がないので、ここで「アニメの話」を少ししよう。
俺はこの『のんのんびより』や『ゆるキャン△』などに代表される、写実的な志向のもとに自然を描く背景美術が好きではない。

単に情報量のかさ増しをしているように感じるし、リアルに寄せようとすればするほど、そこから抜け落ちた、あるいは省かれた情報が浮き彫りになって却って不自然に感じるからだ。

その上で記号化されたデザインのキャラクターが動作するチグハグ感は、近年のアニメ全般に言えることだ。俺はそういうものよりもあらかじめディティールの省略された背景、キャラデザとデフォルメの抽象度があった背景が好みだ。

あと単純に山だの川だのは腐るほど見ていて、その美しさと畏敬も身に染みているので、あくせくディティールを詰めて、その上フィルター処理で美化してなお、リアルには追いつけない背景を見ても感動できない。

そういう意味では都市の風景を徹底的に美化してみせた新海誠は、この過度な自然美化に対するカウンターを担っていたと思う。あの光源をやたらめったら配置して、さながらミラーボールのごとく東京のビル街を美化してみせたのは、一種の異化効果としてあの人工的な風景の別の一面を引き出していたと思う。

生粋の東京出身者には、『君の名は』がことさら不自然に見えたことだろう。俺がこの『のんのんびより』(を含む”自然豊かな“田舎美化アニメ) の背景美術にまったくしっくり来ないのと同じだ。


さて、田舎の話に戻ろう。

俺の村の伝統行事であった秋祭りは人口減とコロナの煽りを受けて消滅した。

播州には太鼓を乗せた神輿 (「屋台」あるいは 「やっさ」という) を大人数で担いで地域を練り歩く秋祭りがある。うちは山奥の端っこも端っこの小さな村で、保有する屋台のサイズは小さい。ただ太鼓のサイズは大きく重い方でそれを乗せた神輿を担ぐ際にはかなりの人手がいる。

神輿に乗り太鼓を叩く「乗り子」は、村の男子が体のサイズを考えて小学生から選ばれ、祭りに備えて2、3週間ほど前から屋台蔵で、実際に屋台に乗って太鼓を叩く練習をする。

狭いスペースに座布団をしいて、太鼓を四方で囲む。地域にもよるがうちは乗り子を4人乗せる。成長の早い子なんかは足を自分のスペース入れようにも難しいので、どちらか一方の乗り子のスペースに足を組み入れる。足を組み合って太鼓を固定するようなイメージだ。

俺は小学1年生から6年生までずっと乗り子をやっていた。
それまでは4年生以降の高学年の子が乗るのが慣例だったが、俺の幼いころから子供の数は減りつつあり、また自分の子共に乗り子をさせたくない親もいた関係で、俺とそして弟2人は計6回乗り子をやった。

俺に至っては小学校に上がる前から、練習期間中は屋台蔵の前に積んだタイヤを太鼓に見立てて練習をさせられていた。正直しんどくて嫌だった時期もあった。けれど、祭りの時期は決まってワクワクしたし、その日は村の外に出ている若い人らも帰ってきて、その時期にしか会わない兄ちゃん姉ちゃんとの交流も楽しかった。

俺が4年生の年に、俺と2つ下の弟以外の乗り子全員が喪中だったことがあった。

村の慣わしで喪中の子はその年は屋台に乗れないので、結果的に乗り子は俺と弟の2人きりだった。いつもであれば乗り子は必ず5人以上いた。体力のない子も考慮して交代制をとっていたのだ。

俺と弟はなまじ体だけは丈夫だったので、交代制があった時でさえそこまで交代は取らなかったが、しかし祭り本番を全通しでやるのはかなり疲れる。まして弟はまだ低学年だった。

祭りは2日かけて行われる。宵宮と本宮。宵宮は正午から半日、本宮は朝から1日かけて行う。
その間交代は一切なく、休憩を挟んでも屋台から完全に降りることはない (乗り子は祭りのあいだは地面に足をつけてはいけないため、休憩はブルーシートをしいた上でとる。トイレに行きたいときは人に頼んでおぶってもらって移動し、休憩場所になった家のトイレを使わせてもらう)。

俺と弟は別にそこまで不満はなく「2人だけでやるんはさすがにきついなぁ (笑)」と、冗談まじりに愚痴る程度で、祭り自体は滞りなく2日とも終わった。
流石に疲れたが楽しかったし、子供の体力は無限大なので、終わった後も他の子達と遊ぶくらいは余裕があった。
ただ祭りが終わったあとの打ち上げの時間。神社の前の駐車場にデカいブルーシートをしいて、担ぎ手の兄ちゃんやおっちゃんたちが酒とつまみでワイワイやっているとき、俺の親父は村の自治会の役員となにやら話し込んでいて、俺はこっそりとその話を盗み聞きした。

親父は泣いていた。他の役員はまぁまぁと宥めている。
「なんでうちの子らがこんだけさせられなあかんのや!」と、親父は悔しさに震えていた。

慣わしとはいえ、まだ小学生の息子2人がぶっ続けで乗り子をさせられたことに親父は憤っていた。練習期間中も祭りの最中も、親父はそんなこと一度も口にしたことはなかった。子供は楽しんで祭りに参加しているから水を差したくなかったのだろう。それでもいくらなんでもこんな対応には完全に納得してはいなかったのだ。俺はその時親父が泣いていた理由をすぐに理解したわけではなかったが、時が経つごとに親父の悔しさを身に沁みて理解していった。

5年生にあがり喪中を終えた子たちも参加できるようになった。
その年に、庄内の格村の屋台を集めて中学校のグラウンドで「屋台練り」をしようという案が出た。

例年通りであれば隣村との屋台練りはあるものの、ほとんどが自村で祀っている神社で最後の練りをやって終わりだった。
うちの村では中心地にある樹齢700の大杉を神木とする八幡神社で、大杉の周りを屋台を担ぎ上げたまま練り歩く (かつては2本あって夫婦杉と呼ばれていたが、91年の台風で東側の一本は倒れてしまった。倒れた方は幹の一部を切り出して祀っている)。

いつも通りであれば遅くとも午後3時かそれくらいには主だった行事は終了するが、中学校のグラウンドに集まるともなれば、移動時間もこみで4時間近くは追加で行わなければならない。当然、村からは不満が出た。案を出したのは別の村の自治会だったが、当時うちの村の自治会長は小金持ちの考えなしだったため、さらっとうちの村も参加すると言ってしまったのだ。

例年以上に体力を使うことが予想され、乗り子の数ももう少し必要だという話になった。
その年の男子では俺がただ1人の最年長者だったため、下の子らを引っ張る立場にあったわけだが、「乗り子」をさせたくない親や、そもそも「乗り子」をやりたくない子もいたため、人員不足問題はかなり揉めた。
ところが、その不足はあっさり解決する。
「女子も乗せたらええんや」という鶴の一声で、俺の同級生2人と1つ上の6年生の計3人の女子が乗ることになった。
別に女子禁制などという偏屈さを持っている人もいなかった上、その子らもずっと「乗り子」をやってみたかったようで、俺の乗り子最後の2年は女子も乗ることになり、それ以降は女子が乗り子をやることは当たり前になった。

びっくりしたのは俺が若干嫌々やっていた乗り子を、その子らは「もっと早くやりかった!」とめちゃくちゃノリノリでやっていて、祭り本番の日でさえ交代を拒否するほどであったことだ。そんな感じで俺の乗り子は終わり、中学に上がってからは今度は「担ぎ手」になって祭りに参加した。ほんとうに楽しかった。

でも高校に上がってからは俺も祭りからは次第に遠のいて、人も減り、子供も減り、もともと小さかったうちの村は学校での「屋台練り」も参加しなくなり、そしてコロナが流行って秋祭りはなし崩しに終わった。

なぜこんな話をしたかお前らには分からないだろう。
お前らかしてみればこれは閉鎖的な村社会の因習であり、滅ぶべくして滅んでいったイニシエーションの1つだ。

お前らに言わせればこれは、野蛮な田舎者たちによる悪習の証左であり、俺の親父は慣習に屈した腰抜けで、嬉々として屋台に乗った女子たちは村社会に洗脳された被害者で、そして俺もそんな田舎の悪性の権化の1人だろう。

だが1つお前らの勘違いを正すとすれば、これはノスタルジックな出来事では断じてない

あの時の「今ここ」で起こったことであり、いつでも実感を持って思い起こすことのできる我が事だ。詳細こそぼかしはしたが、俺はあの時のことをすぐに、具に思い出すことができる。
頭で想像した感覚ではない、身体が覚えている熱や重さや痛みや傷であり、今の俺へと地続きになっている身体化された歴史だ。

そして今現在も俺の故郷は変わり続けている。
お前らはそれを「風化」だの「衰退」だの「前時代の遺物」だのにパッケージングしないと認識できないだろうが (そしてそれらはまるっきり見当違いだ)、俺にとっては全てリアルタイムな出来事だ。ノスタルジーに括られるものなどどこにもない。

お前らはそういう根っからの”異物”には敏感だから、俺のような田舎者の所作を簡単に見抜き、ゴミでも扱うように見ることだろう。
それで構わない。お前らの道徳、お前らの普遍主義、お前らの慣習に頭を垂れるくらいであれば、俺は「粗野で下劣な田舎者」でまったく構わない。お前らの設定する「正しさ」に適う振る舞いを取らなければ、社会で認められないというならば、それで全く構わない。

お前らは田舎を「異質なもの」としてしか捉えられない。
それはお前らが自らの普遍主義を信じて疑わないその傲慢の裏返しでもある。
お前らが田舎を蔑み、アパルトヘイトさながらの排外思想をあの手この手で正当化する詭弁を垂れ流しがら、たまたま目についたニュースで地方の「デントウ」や「ブンカ」の消失を嘆き、資本主義の経済合理性を批判するとき、お前らには一切合切の思想はない。

だいたい、「デントウ」や「ブンカ」を強固に保持しようと努める人間が、なんでてめぇらのスタンダードに合わせてくれるやつだと思えるんだ、アホか。
都合が良すぎるわ、少ないリソースでなんとかやりくりしてる地方に、「そのままの姿」を維持させて、価値観はアップデートしてくださいってか?

その人間を形作る構成要素を、プラモ感覚で部分的に取っ替えが効くと思い込んでるところが、お前らの人それぞれの生活環境に対する貧困な想像力を物語っている。

俺はここで生まれ、ここで育ち、ここで暮らすことの限界と恩恵を身に沁みて感じながら自分の立脚点を確かめている。幸せだったこと、最悪だったこと、傷ついたこと、傷つけたこと、全部ひっくるめて抱え込んで生きている。

自分だけは清廉潔白でいられると思い込んでいる恥知らずにはならない。
自分の罪を自覚し内省するふりをして、その罰は誰かに肩代わりさせようとするようなカスにもまたならない。

俺は俺の意思でここにいるし、ここにいることを善しとしている。
それは負け惜しみでもあるし、結局自分がここから脱出できなかったことへの辻褄合わせでもあるが、しかしここで身体を動かし生活することを改めて認識して、初めて俺は生きていることを実感できた。俺は初めて「故郷」を持つことができた。
俺はこの循環の輪から外れることはない。ここで生きてここで朽ちていく。

循環の外へ脱走しようともがいているふりをしながら、その恩恵を白々しく受け取っているお前らには分かるはずもない。

俺は、誰かがやらねばならないこと、他の誰かがやりたがらないこと、そんな仕事で手を動かす人や汗を流す人を、その人が例えどんな思想信条を持っていようと、仮に俺と徹底的にソリが合わない人間であろうと、ただその一点のみで無条件に尊敬する。そういう人たちがいるおかげで世の中は動いている。

お前らはそのネットにポチポチと放流した言葉がまるで世界に影響を与えていると錯覚しているが、実際に世界を変えているのは手を動かす人々だ。お前らがネットに吐き溜めた言葉の累積が人を動かしたことを「世界を変えた」と宣うのであれば、それはお前らの糞尿がごとき言葉の後始末を誰かがしてくれたからに他ならない。言葉“だけ”で何かやったつもりになっている奴らを俺は心底軽蔑する。

だいたいお前らだって日がなずっとネットに張り付いてるわけでもあるまいに、ブルーカラーでなかろうと仕事で肉体をそれなりに行使するだろうが。その時にお前らは自分が手を動かしたことで何かが変わったことをなにも知覚できないのか?
誰かが手を動かしたことがもたらした変化を感じられないのか?

それともお前らにとっては、お前らのイデオロギーの達成の果てに起こることだけが「変化」であり、それ以外は何も意味のないことだと思っているのか?抜本的な社会変革に限らない、身の回りの些細な変化はお前らにとっては無意味か?

お前らは敵を叩くためなら簡単に「敵の理屈」すら利用する。飽きたらすぐに使い捨て、次の日には真逆のことをほざいてのける。当事者性を都合よく使い分け、「社会」という抽象、その指し示す範囲を実に巧みに切り取って利用する。

突き抜けて利己的なくせに人を思いやるふりをし、ルールを嫌うくせに他人はルールで縛ろうとする。その時その時の不快感だけが行動指針であり、自分が他人のために何ができるかなんて本当は毛ほども考えたことがない。

お前らが「弱者」として認定する人々は、お前たちの主張を押し通すための大義名分であり隠れ蓑だ。そんな自分の欲望に多少なりとも自覚はあるのだろう。あるいは気づかないふりをしているのか。ともかくこれは「世のため人のためだ」という盾を持ってようやく、安心してお前たちはその隠れた欲望を「主張」として口にすることができる。

しかしその「弱者」が自分の望むの形の「弱者の振る舞い」をしなかったり、あるいは当の「弱者」の主張が自分の利益を脅かすものであればすぐに切り捨てにかかる。障害者や病人に対するお前らの二枚舌にはまったく感心させられる。
お前らが今日「弱者」のために燃やした義憤は、別の「弱者」への抑圧となって降り注ぐ。


俺は欲望のままに生きている。
望んでここにいるし、望んで地域社会に貢献している。

田んぼの畦道、山沿いの空き地、川の土手などを害虫と獣との緩衝地帯を築くために、動ける者たちで毎年草刈りをする。人間の領域と、野生動物たちの領域、その線引きをきっちり守るために必要なことだ。


これはうちの裏にある空き地の草刈りの様子
刈った草は一箇所にまとめ、つぎに除草剤を撒く
これはまだマシなほうでタイミングを逃すと伸び放題で大変なことになる
鹿も猪も平気で降りてくるからフンや掘り起こした跡がそこかしこにある


これは冬場の河川掃除の際の草刈りの様子
夏はもっときつい
法面をあらかたやってしまう
俺がガキの頃はヌートリアが巣を作りまくっていた


夏場になればこの有様
清流なんてありゃしない
流れが見たけりゃ増水したときにでもどうぞ?


放っておけばあっという間に膝の高さを超えて繁茂する雑草。完全防備でも隙間から虫に刺され、首筋にヒルが食いついていたこともあった (マジで最悪)。俺は特定の植物に対してアレルギーを持っているから、注意して草刈りに望んでも作業を終えれば決まって背中や腹に斑状の発疹が出る。

用水路のドブさらい、川沿いの道に連なる並木の枝打ち、腐食した部分の伐採、全部一銭にもならないがやる。休日は返上することになるがうちは零細の造園業だ。忙しい時期でもなければ休みは充分取れる。夏は忙しい上に草刈りもしなければいけないから地獄だが。

これは用水路のドブさらいをしている際に、溝に詰まっていた狐の死骸
役場に届け出て処分してもらった


そうすることでこの村の皆に危害が及ばなければそれでいい。
俺が「そうしたい」からそうする。結果的に利他行為が達成されればいいのだ。誰のかのためなんて二の次で、全部自分のためだ。


俺が小学生の頃、山沿いの道路で倒木の下敷きになって、まだ幼かった弟の友達は死んだ。
管理もままならない里山ではそういうことが稀に起こる。
俺の村よりももっと奥の地域で起こった不慮の事故であった。

自然は人に対して決して優しくはない。
一度そこに分け入れば癒しもクソもない。「自然で癒される」とかいうやつは自然をただ額に飾って鑑賞しているに過ぎない。

こうやって道路沿いは支障木や倒木、土砂の対策のための法面工事が必要だ
お前らの嫌いな“無駄金を使った”公共事業だよ


これは工事される前の状態
これ見て緑豊かで良いねぇとか言ってるやつが田舎を適当に語りやがる


これは曽祖父の残した不毛の田んぼにつながる畦道沿いにあった今にも倒れそうな松の木
後日きっちり伐採された


去年の暮れ頃、村のゴミ捨て場裏の樫の木が朽ち折れて、ゴミ捨て場を叩き潰した。
早朝のことであったため人的被害はなかった。
腕の立つ者でゴミ捨て場を修繕する。

幹が完全に腐っていて、冬の強風に煽られとうとう折れた


東京の明治神宮外苑の並木を伐採するというニュースが流れてきた。
どうしてそんな一部地域のローカルニュースが、日本全国の一大事のように報道されるのかはほとほと分からないが、俺は正直鼻で笑った (メディアはいい加減、東京の問題を日本全国の問題にすり替えてばら撒くやつやめろ。地方は地方の問題として完結させたがるくせによ)。

あれを「森」と称して、守ろうという人々の運動があることもそのニュースから知ったが、あんなものはとうてい森とは呼べない。しかし、それでも木は木だ。命ある限り成長するし、そして成長するということは終わりもあるということだ。

人が暮らす場所に強制的に移された自然は人の手で管理しなければ、あっという間に人の営みにあだなしてくる。どうやら彼らは「自然」というものはほっといても、自分たちの生活を脅かさず勝手に自らの領域を弁えてくれると思い込んでいるようだ。
管理には常にコストが伴う。誰かの手によって「人が楽しめる自然」は維持されている。そしてそれは立派な仕事であり、対価が支払われるべきだ。そういった肉体労働者に対しての軽視が進めば当然コストカットの名の下に、そもそも元から無くしてしまえという話になるのは当然だ。

しょうもないことに普段そんなこと気にも止めていないだろうに、「先人が守ってきた〜」とか「文化の継承が〜」とか謳い文句にしてるのも白々しかった。持て余したナショナリズムの発露か?あんなんパチモンの人工林なんだからもっと唯物的に考えたらいいだろ。あの外苑の成立過程を踏まえたらそれこそ前時代的な負の遺産じゃないの?今は令和なんだからもっとフレキシブルに考えなきゃ。

田舎の伝統や風習に対しては前時代的だの野蛮だの抜かしてきやがるくせに。
お前らは都合の良い文化の選り分けをしたいだけだ。文化の優生思想とでも言うべきだな。
S3計画みたいなことを政治権力が現実でやり始めたら喜んで支持しそうだ (今だって平気で土着文化の断絶を希求する声は上がる)。


倒木で亡くなった子の葬儀には参加した。
田舎では人死にの話はすぐ駆け巡る。まぁ大半は年寄りがその最期を迎えたといういつもの話だ。集まりではきまって「〇〇ちゃんいつ死んだやっけな?」「俺らももうじきやでな(笑)」と話題になる。
空き家がどんどん増え、そこを雑草が埋め尽くす。

だが時折、まだまだこれからだという人が死ぬ。幼馴染の父が脳梗塞で急逝した。クラスメイトの姉が自死した。その度に話題は駆け巡り、俺は葬儀に参加する。俺は10代のうちに老若男女問わず、狭い社会でまさに儀式化された人の死を何度も見てきた。無駄に各宗派ごとの多様なお経を聴いた。


俺はこの『のんのんびより』(とシンエヴァの第3村パート) で喜んでいるやつ、なんの生活実感も持たずに田舎を理解した気でいるやつは、軒並みフェイク野郎だと思っている。仮にそいつが田舎出身だったとしても、それは田舎を都合よく忘却できているからにすぎない。お望みならばすぐに思い出させてやる。

ノスタルジーとは生きた過去にこそ宿るものだ。
都市に生まれた者には都市に暮らした過去にこそ、田舎で生まれた者には田舎で暮らした過去にこそ。都市と田舎の間にあるグラデーションのなかにも過去はある。
最初から存在しなかった「過去」を捏造して後ろ向きに歩くような人間が、どうして今を懸命に生きる人の足を引っ張ることができる?

もちろん俺にだって「望ましい過去」を欲する欲望はある。

メロンブックス通販の送料が高いのはまぁ仕方ないとはいえ、近くにアニメ・漫画専門のショップがあったらなぁと思わざるを得ない。てかそもそも普通の書店がない。なんか「地方の書店の品揃えがカス」みたいなことほざくインテリがいるけど、知るかボケとしか言いようがない。都会の恩恵を黙って享受しとけ。

読みたい本がどうしても高いから図書館で借りようして、蔵書を検索しても市内にあるどの分館にもなかったとき、これが都会であればすぐに取り寄せられたのに…と思ったりすることもある。

気に入ったミュージシャンを見つけて、ライブ嫌いの俺にしてはほんとうに珍しく「ライブに行きたい」と思ったところで、結局は都内の箱だけの催しだったりする時、やっぱり田舎じゃライブ文化には易々と接続できないなとどうしても思う。

普通に羨ましいよ。
アニメの原画展とか、作家の個展とか基本的に都心だもんよ。
声優イベントとかは行きたいとは思わないけど、現地で同じコンテンツを好きな人たちと盛り上がったりできるのって楽しいんだろうなって普通に思う。そこで友人ができたりして語り合ったりとかするんだろうかとかね。俺は現状1人でコンテンツを楽しんでるし、アニメの感想もこうやってぐだぐだと長ったらしい文章を吐き出すくらいしかない。

普通にガチの熱量でアニメ見てる友達が欲しいね。特に映像に詳しいオタクならなお良い。色々教えて欲しい。1カットずつ一時停止して、「このレイアウトの平坦さがさぁ…」とか、「やっぱこの撮影処理嫌いだわ」みたいな話してみたい。なんかネットで孤独アピールしてるオタクどもがオフ会とかやってるの見ると「結局てめぇら馴れ合うんかよ…」とかたまに思っちゃうけど、いやいや普通に羨ましいよ。

こんな通俗的な欲望さえ満足に叶わない。
だがここで暮らしている以上、ここで暮らすことを選んでいる以上、それは甘んじて受け入れている。だからこそ俺はここでの暮らしを如何に面白くするかを考える。

俗世に簡単にアクセスできる位置にいながら、俗なものやたら忌避するやつがいるが、あんなものは単に優越感に浸るためのポーズでしかない。消費社会を糾弾しながら、そいつらは「消費」を満足に行えない田舎に居を移さない。

何にでもアクセスできるくせに「敢えて」それをせず、ジジイの隠居生活みたいなのを誇る若いのがいるがあれこそ卓越化の最たるものだろう。
俺は「ミニマリスト」とかいうファッション倹約家が嫌いだ。田舎でミニマリズム遂行できるわけねぇだろ。まず車が要る時点で詰んでる。
あんなもん都会の物量と流通におんぶに抱っこのライフスタイルだ。

そういう奴が「田舎には文化がない」とか、「セックスとパチンコしか娯楽がない(仮にセックスとパチンコしかなかったとしてそれの何が悪い?)」とか、「マイルドヤンキーは学歴ないのに (訳:バカで何も考えてないから) 幸せそう」とかほざいてるの見てると、てめぇの文化的素養が下駄をはかしてもらってるって自覚はねぇのか締め上げて問い詰めたくなる。ぶくぶくに肥えただけの舌で偉そうなことを口走りやがって。
そもそも田舎にはちゃんと文化があるし、単にお前らのお眼鏡にかなわないってだけの話だろうが。そしてその審美眼は腐っている。

ここまで書いて、最近 (いうて去年) ようやく読んだ『HUNTER×HUNTER』に出てくるキャラで唯一嫌いなやつがいることを思い出した。
『HUNTER×HUNTER』自体はとても面白くて、バトロワゲーム的な感性でキャラクター同士のドラマを組み立てるから、特段誰かに感情移入しなくても楽しめるように出来ていたのが大変良かったのだが、キメラアント編の終盤に出てくるディーゴ総帥 (本物) にだけはガチでムカついた。こいつぜってー『のんのんびより』見てる。

キメラアント編は人間側も蟻側もみんなそれぞれ、野望なり使命なりにしがみついて必死こいて生きてるのに、こいつときたら隠遁生活で質素が1番みたいな面しやがって、お前のその畑どうせ駒使いにやらせとるやろ。
あの詩めっちゃ嫌いやわ。なにが「命など陽と地と詩とで満たされるほどのものなのに」じゃボケ、裏山に身ぐるみ剥いで捨てたろか。

あんなもん幼稚な大衆蔑視でしかなく、自分はその他有象無象とは違うのだという、しょうもない自己顕示以外の何ものでもない。俗世で這いつくばって生きることから逃げ出しただけのくせに、偉そうに講釈垂れるような身分になったつもりでいるのが甚だ滑稽だ。

メルエムはあの影武者よりもまず真っ先にこいつを抹殺すべきだった。あの影武者もクソ独裁者ではあるが、暴君と罵られても国家の長に居座ることから逃げることはしなかった。本物はそれすら放棄してるんだから余計にタチが悪い。


持ってるやつの説く「清貧」ほど白々しいものはない。
だからのんのんびより村の駄菓子屋の姉さんよ、あなたは絶対にそんな野郎と一緒になってはいけない。

代替不可能な価値があると嘯きながら、その信念を託した対象が意に沿わぬ振る舞いを見せたら、簡単に切り捨てることができるような、他人を踏みつけていることに無自覚で、むしろ自分は他人に迷惑をかけていないと思いこんでいるようなヘナヘナ野郎は、自分も他人も幸福になどできない。そんな奴とくっついても無い傷を舐め合うだけで発展などない。

そんなクソ野郎よりも、ものごとを必要/不必要に分けられて、あなたのことを「家族だから」というだけで無条件に助けることのできる、理屈と人情の切り替えができるそういう人を見つけてほしい。
駄菓子屋の姉さん、あなたは強い。「故郷」に根差し強かに生きることを知っている (俺はこのアニメで駄菓子屋の姉さんくらいしか好きになれない。あとセリフを全て抹消された兄貴。田舎はデカい音出せるという利点をフル活用してるところは良かった)。

ノスタルジーに浸ってるようなやつは、一見すると傷や痛みを抱えていて、それ故に他人への優しさを持ち合わせているように思えるかもしれないが、実態は自分が傷つくことも他人を傷つけることも恐れて、何もしないことが正解だと思い込んでいる臆病なカス野郎だ。

間違っても孤独趣味のフニャフニャサブカル野郎や、社会不適合者のフリをしてるインテリ野郎なんかに騙されないでほしい。
何にもないような顔をして何でも揃えられるそいつらは、決して自分の持っているものを他者に分け与えたりはしない。むしろあなたに求めるだけ求めて、不満ばかりを口にすることだろう。


さて、俺は我が家代々の家業である植木屋(造園業) をやっている。

今は祖父がまだ動けていた頃は3人だったが、今は親父と俺、2人での作業だ。

ちなみに長男だから仕事を継げ!!みたいな家督制度のような縛りは一切ないし、俺もそれに縛られているつもりもない。むしろうちは田舎の零細なので事業の先行きも怪しいし、夫婦共働きでなんとか回しているわけだから、親は子供にはやりたい (できれば儲かる) 仕事をしてほしいと思っているし、実際、俺の弟2人はそれぞれ田舎を出て行き別の仕事に就いている。

俺が今この仕事をしているのは、10代終盤にパニック障害を起こして引きこもりの期間があって、社会復帰も兼ねて親父の仕事を手伝い始めたのがきっかけだ。

あんなにやりたくないと10代の頃は思っていたのに、いざやってみればやりがいもあるし、何より黙々と作業をすることに性格が合っていた。黙々とできるので確定申告は完全に俺の作業になっている (めんどくさいが)。
何から何までおんぶにだっこの出来の悪い兄だと常々思っている。
弟たちには本心から誰よりも幸せになってほしい。

仕事は主にお客さん宅のお庭の手入れだ。
基本的には剪定作業がメイン。時折、寿命や病気でもたなくなった木の伐採もする。芝生を敷いたり、ブロック塀の補修、石段を設置することもある。たまにだが道路工事の障害になる塀の撤去や、工事範囲に被っている庭の一部を削ることも任される (今年入って1番きつかった仕事だ)。

ブルーカラーと括られる職業の中では、重作業は少なめなので体力的には楽な仕事だと思う。ただ基本的に外、かつ高い場所でじっと作業することが多い。
夏場は直射日光を延々浴びながらになるからその辺は相当きつい。空冷服は必需品だ。

仕事のつては祖父の代からの繋がりで得たお客さんとの信頼関係で成り立っている。いろんなお宅にお邪魔することになるがその様相は様々だ社長さんの豪邸 (当然庭もでかい)やら、お爺さんの代からの庭を受け継いでる家やら、新築の小庭やら、まあ色々。ただやはり高齢者のお宅が多い。
旦那さんが遺したお庭を大切に残しているお婆さんや、うちより山奥でデイケアのお世話になりながら2人で暮らしている老夫婦、お姉さんがずっと入院している妹さん、そういうお宅にお邪魔してお庭の手入れをさせていただく。

午前、昼食、午後の3回にわけて休憩を挟む。
その時はお宅に上がらせてもらって、お茶をいただくこともある。そういう時はお宅のお爺さんお婆さんとお話することもしばしばだ。
みんなこんなシャバい若造に対しても横柄に接さず、下手くそな世間話に相槌打って笑ってくださる。

息子さんがなかなか帰って来れなくて「向こうも忙しいからしゃあない」と笑うお婆さんを見て、俺はなんと言っていいか分からなくなる。
お姉さんが入院されたお宅は一昨年にはまだ姉妹2人で同居していた。仲の良い姉妹だった。

みんな必死になって生きている。
お前らのように難しい横文字やら抽象概念やらをこねくり回し、本やら論文やらを根拠に議論するようなことはしていないが、自分にできることを精一杯やって生きている。

俺はそこではお話を聞くことくらいしかできない。結局、仕事で訪れているだけでそれ以上の交流はない。

仕事のお礼にお菓子を持たせてくれたり、「お酒飲める?」(親父は下戸だ) といって缶ビールの詰め合わせや、時には高そうな一升瓶をいただくこともある。「来年もよろしくねぇ」と帰り際に言ってくださる時、「こちらこそよろしくお願いします」と返すが、果たして来年もあるのだろうかとよぎったことがないとは言えない。


ネット上では高齢者への風当たりは強い。

確かに今の若者が負債を背負わされている世代だというのは、同じく若者である俺にもわかる。だが災害が起こった時、その土地に根付いて生きてきたお爺さんお婆さんの気持ちを無視して、「金の無駄だから都会に移住させろ!」と喚く連中を見た時、俺ははらわたが煮え繰り返った。

現実をストラテジーゲームか何かだと思っているのか?

盤面が用意されていて、キャラやオブジェクトをタップして好きなところに配置するように局面を動かせるとでも?物理的な制約はもちろん、居住・移転の自由は地方の人間にだってある。田舎で暮らしている人々はそこでの不便も全部引き受けて懸命に生きている方が大半だ。マジで舐めるな。

俺の父方の祖父母はまだ健在だ。
じいちゃんは今年91歳で、両杖ついて歩いているが、まだまだ足腰は元気で、畑にも出るしトラクターも運転する(無理はやめろとばあちゃんも俺も言っている)。

小学生の頃には曽祖母もまだいた。大正元年生まれで、九州 (鹿児島だったはず) から嫁いできた。俺が中1の時、99歳で往生した。俺は大変なおばあちゃんっ子で、ばあちゃんにもひいばあちゃんにもとにかくよく懐いていた。

特にばあちゃんは初孫の俺をとにかく可愛がってくれて、幼い俺をチャリの後ろに乗せて田舎の1時間に1本のバス停まで行って、そこから市街の映画館によく一緒に連れてってくれた (そこで見た映画は「低俗な娯楽映画」とお前らがバカにするようなものばかりだったが)。

俺がポップカルチャーへの関心を強く抱くようになったのは、ほぼばあちゃんのおかげと言っていい。ばあちゃんが映画館に連れて行ってくれなかったら、今の俺の趣味であるアニメと音楽はなかった。

ばあちゃんは皆から「姐さん」と呼ばれ慕われていて顔が広く、うちには〇〇(苗字)のおばちゃん、〇〇(苗字)のおっちゃんと呼ばれる人が度々訪れて、「姐さん!こないだねぇ…」と、世間話やら野菜を持ってきたりやら、たまに俺にも小遣いをくれたりとうちはとにかく賑やかだった。親戚繋がりも多く、色んなところに〇〇のじいちゃん、ばあちゃんがいる。総出で集まることはほとんどない。誰かの葬式の時くらいだ。もう訪れる人も少なくなった。

母方の祖父母はもういない。
母方のじいちゃんは大変な酒飲みで、帰省 (田舎から田舎へ) の際には近所の友達みんな集めて、鍋やらBBQやらをやってわいわいするのが好きだった。器用な人で、正月になると俺達兄弟や従兄弟のために凧や独楽を作ってくれて一緒に遊んだ。
母方のばあちゃんが認知症になって、もう誰の顔も分からなくなってもずっと寄り添って最期まで一緒にいた。

ただやはり自身も不摂生が祟って最後は寝たきりになってしまった。
定期的に病院へ通い、着替えの補充、声かけ行っていたが、もうろくに返事もできなくなった。
ちょうどその時にコロナが流行り、面会の見合わせが取れない中、ベッドの上で亡くなった。


ばあちゃんがふと「寝たきりになって迷惑かけるんは嫌やから余計な世話はせんでええよ」と、もしもの時の延命治療を拒否する旨をやんわり伝えてきたときの気持ちがお前らに分かるか?

じいちゃんはまだ自分はバリバリ動けると思っていて、若かった頃の勢いで家のことを色々とやろうとするが、あちこちガタがきているのは否めない。けれどじいちゃんがやってることを俺が全部肩代わりすると露骨に元気をなくすので、バランスを見極めつつ負担を減らす。風呂掃除は半ば競争のようになっている (俺が先に終わらせてるのに、まだやろうとするから止めに入る)。

じいちゃんは空襲を生き延びた人だから肝も座ってるし、自分のことは自分でやる!という気概が強い。だからこそ無茶はしてほしくないのだが。
そしてじいちゃんが俺や他の家族を蔑ろにしたことなど1度たりともない。

世の高齢者全員が若者を食い物にしようと思っているわけではない。

もちろん、こんなものは俺の個人的な思い入れでしかないし、「ジジババに抑圧された!」という連中からすれば知ったことではないのだろう。だが敢えて言わせてもらうが、俺だってお前らの苦しみなど知ったことではない。

被害者根性を拗らせて、憎悪の対象を無際限に広げ、味方だった筈の人間すら傷つけ、ちょっとでも気に食わない思想をのぞかせたら仲間割れをする、そんなやつらの価値観になぜこっちが阿る必要がある?

俺はじいちゃんばあちゃんがいくら時代錯誤なことを言ってきたとしても、変な思想にかぶれたとしても困っていたら助けるし、倒れたらいの一番にかけつけるし、葬式ではわんわん泣くだろう。

俺が引きこもっていた時に見放さずに、当たり前のように飯を持ってきて、クソ暑い草刈りから帰ってきたらおにぎりの山を用意して待っていてくれる。それだけだ。それだけのことで俺は全部を許せる。

今は勘当同然の叔父が俺を殴ってきたことがあった。
その時も俺は幼い頃に一緒にゲームで遊んでくれたことや、ギターのスコアを買ってくれたことを思い出して、どうしようもない気持ちになった。怒りなんて湧くこともない。
抵抗した際、俺はもう叔父より力が強くて身体にはなんの痛みもなかった。本当にただただ虚しいだけだった。


こういうことがお前らには分からないか?

自分の理想や思想だけが全てで、気に食わない相手は全部排除するのか?

それが自分の友人だったり家族であったりしてもか?

誰かに施しを受けたりしたときに「ありがとう」の一言くらい言わないか?

もしかしたらその相手はお前の嫌いな思想の持ち主かもしれないが、それでもその「行い」に対してくらいはその教条的な矛を収めたりはできないか?


あまりにも観念的すぎる。

実際に体を動かして、感情を通わせて、そんな営為が一切ない。イメージだけで組み立てられ、イメージの中でしか解決を見ない言葉がどこもかしこも溢れまくっている。身体性の希薄な観念論者には何を言っても無駄だろうが。

結局のところ単なる嫌悪感が先立っていて、でもそれをそのまま吐き出すと「正しくない」と怖がってるだけなんだ。
そこでその場その場で説得力を持ちそうな言説を継ぎ接ぎしてその感情を正当化しようとするから、意味わからん思想キメラが出来上がるんだよ。

だからいずれ統合が取れなくなって精神が不安定になるし、表面上は同じ思想を掲げている者同士でも、そもそもの認識にズレがあるから内輪揉めが始まるし、挙げ句の果てに「お前らは自分たちとは違う!」つってついさっきまで味方だったやつを敵認定し始める。回りくどいことせずに、自分を主語にして素直に好きなもんは好き、嫌いなもんは嫌いって言え。

お前らがその思想に対して実存を全ベットする背景にあるのが、己の立ち行かない人生設計なのか、自己愛の欠損なのか、自我の肥大化なのか、コミュニケーション不全なのか、あるいはその全てなのか。なんにせよ簡単に無謬性に溺れ、選民意識に染まり、自分の掲げる思想や理念が自明に正しいものであると振る舞うその所作は、お前らが掲げるそれの品格を著しく落としているし (そのくせ「品」にやたら厳しいよな、鏡見ろよ)、そこから放たれる言葉にはお前たちの「お仲間」の明後日の方向を向いた義憤心を満たす以上の影響力はない。

お前らが、難しい本なり、偉い学者なりの威を借りながら垂れ流す言葉より、うちのじいちゃんが畑の土に振り下ろす鍬の一振りの方がよっぽど世界を変えている。最初は形の悪かったキュウリやトマトも、年を追うごとに良くなっていった。

お前らには分からないだろう。自分の手で何かを作り出すことの尊さや、それが誰かに喜んでもらえることの素晴らしさを。そうやって自分の思想に適うかどうかで全部をジャッジするような奴らには一生分からない。分からなくていい。


ただお前らに感謝している部分もある。

散々っぱら閉鎖的だの排他的だの前時代的だのと、言われたい放題の田舎ではあるが、そう言うことを言っている連中ほど自分たちの言い分に従わない者を阻害し、内輪で固まって自分たちの論理を反復し続けている。

インターネットはそういう「田舎根性」が、田舎者に限らず誰にでもあることを証明してくれた。今や最も村社会を体現しているのは、皮肉にも人種性別関係なく大勢に開かれたインターネット空間だ。
デマも中傷も、田舎の井戸端会議のそれの比ではないくらい、むしろ小賢しい言葉でもっともらしく吹聴されまくっている。物理的な閉鎖空間がなくとも、人間は言葉だけで隔離空間を創造することができる。


正直俺も村の外に出た時に、自分の所作や考え方が、地方都市の人々とすら噛み合わなかったことにコンプレックスがなかったとは言えない。
俺もまた小さな世界の中で、自分はまともな人間だと思い込んでいたわけだが、一歩村の外に出てみれば、自分も単なる「田舎者」でしかなく、かなり落ち込んだこともあった。

『くまみこ』18巻108話より抜粋

俺はこの時のまちの気持ちがよくわかる。まちが高校で出来た友人を村に招くことを躊躇するシーンだが、俺も全く同じシチュエーションを味わった。高校で出会った明らかに育ちの良さそうな友人たちが、「家遊びに行っていい?」と聞いてきた時、俺は全力で断ったものだ。「無駄に遠いし何にもないから来る意味ない!!」と言い張ってどうにか誤魔化した。今は全くこんなこと思わない。どこのどいつだろうが田んぼと休耕地とソーラーパネルの故郷を案内して、「ええとこやろ (ええとこって言え)」って圧力をかけまくる。
静かで空気も美味くて山の稜線を眺めながら歩くだけで気持ちいい、ほんまにええとこや。


だがどうだろう、ネット上ではおそらく俺よりも学もあって、教養もあって、割りの良い仕事に就いているであろう連中が、狭いインナーサークルのなかで自己愛撫と他者嫌悪を延々繰り返している。

その欺瞞に薄々勘付いている者もいるが、自分は狭い世界に閉じこもっている奴らとは違うと本音では思っているのだ。なんてことはない、ネットに溢れている分断の殆どは同族嫌悪の衝突でしかない。
俺はそれを見ることができて安心できた。お高くまとまっていてもお前らも同じ穴のムジナだ。

俺はこれからも俺のできる範囲で人を助け、俺の生活を守る。
社会問題については実に巨視的な考えをお持ちのくせに、隣人さえまともに包容できない連中と俺が関わることもない。お前らだって願い下げだろう?それに当のお前らが進んで似たもの同士で集まり閉じこもってくれるのだから、こちらとしても避けやすくて大変助かる。

まぁ安心してくれ。
遅かれ早かれ殆どの地方・田舎はこのまま行けばいずれ消滅する。すでに俺の村も俺をのぞいて若者は殆ど外に出て、年寄りのカウントダウンを待つのみと言ったところだ。

地方消滅のその時には都市圏に供給される人間も減って、今は元気に騒いでいるバカどもが、みっともなく悪あがきするジジババになっていることだろう。下の世代からの突き上げも待っている。道徳ヅラした植民地主義者どもも化けの皮を脱ぐことだろう (というか現にそうなっている。自分たちにとって、都合の良い弱者を選別したかっただけなのだ)。

それが決着だ。

俺はその時を見るまで這いずり回ってでも生き延びてやる。
そこそこに恵まれているくせに悲観的で、自己憐憫に浸ってちゃっかり生きているようなやつとは違って、俺は120%人生を謳歌する努力をして、それなりの暮らしも手に入れてやる。

学も金もないが五体満足で体は動く。こうやって無駄に文章を書き連ねる程度には頭も回る。俺はしぶとく生き残って、お前らがジリジリと自分の首を絞めながら、延々と他人を見下して自尊心にしがみつく様を眺めていてやる。


俺の“のんのんびより”


呪詛はあらかたばら撒いたので、俺の中の故郷の負の部分も吐き出してしまおう。

俺のクラスには障害を持った子が3人いた (1人はすぐ転校した)。
その中に中度の知的障害の男子と、脳性麻痺で全身が不自由で車椅子の女子がいた。基本的にはその子たちは支援学級にいるので、教室で関わることは少なかったが、それでも合同で授業が行われることもあった (だいたい「道徳」の時間だ)。

田舎のクソガキどものモラルなどたかが知れているので、まぁ酷い「差別発言」を耳にしまくった。本人に聞こえるようなところで言っても、どうせ理解できないだろうなんて態度で侮蔑が飛び交いまくっていた。

俺はマジでそういうクラスの連中を心の底から軽蔑していて、ことあるごとに「死ねばいい」と思っていた。そういう態度を一切隠さなかったので、いや隠していても全然漏れ出ていたので、年を追うごとに亀裂は深まっていった。
その時の俺は自分以外の人間は全員クズで、俺だけがまともな人間なのだと、そういう自尊心の保ち方をしていた (もちろん善良な子もいるにはいたが、俺の視野は狭量を極めていた)。

車椅子の子が階段を昇降機で上がるところに出くわすと、俺は率先してその手伝いをした。段差があったら養護教諭と一緒に車椅子を持ち上げたりした。知的障害の子が中傷されているのを教師に伝えることもあった。
そうやってモラリストぶることで、俺はあんなクズどもとは違うと、そしていつかこんなところは出ていくのだと、そうやって自尊心を保ちながらずっと過ごした。今思えばただのポイント稼ぎだ。本当に弱者の身を案じていたわけではない。憎たらしい奴らと自分を差別化するために俺は弱者を利用した。

産業廃棄物処理場を建設するという話が持ち上がった。
俺が中学2年。東日本大震災の翌年のことだ。
すぐさま反対の声が上がり、あらゆる道に処理場建設反対の文字が刻まれた旗が立ち並ぶ。だがその時の俺はこんなクズどもしかいない田舎など、ゴミ捨て場にされれば良いとさえ思っていた。結果、処理場は建たなかったが、今やあちこちソーラーパネルだらけだ。


故障してディスクを吐き出さずバイオハザード(無印)しかできなくなったPS2を、会うたびに「売ってくれへん?」と持ちかけてくる近所の兄ちゃんがいた。お前らのいうところの「マイルドヤンキー」さながらの風貌をしている (鼻ピアスに色の抜けかけた金髪)。

ハードの改造が好きな兄ちゃんで、俺がPS2がぶっ壊れた話をすると嬉々として交渉を持ちかけてきた。俺の持ち物ではなかったのでそこは断ったが、会うたびにニコニコ話をしてくれてめちゃくちゃ気さくな兄ちゃんだった。お前らには言わせれば、口の悪い下品な田舎者かもしれないが、きっちり仕事もするし子供にも優しい「普通の人」だ。その兄ちゃんが秋祭りの日の休憩中、俺の進路について聞いてきた。

その時の俺は地元からとにかく距離を置きたくて、20km近く離れた高校にチャリで1時間以上かけて通っていた。交通費の節約もあったが、今思えば10代の体力にもの言わせたバカの通学だ。

「おっちゃん (親父) の仕事継ぐんけ?」と兄ちゃんは聞いてきた。その時期の俺はまっぴらごめんという気持ちしかなった。だから地元の連中が行かない高校に通ってたってのに、そんなことを聞かれて俺は内心イライラしていたが、「いややわ、もっと儲かる仕事したいもん」と笑い話にしてやり過ごそうとした。

兄ちゃんは「この村の男は、みんな鳶か植木屋になったらええねん」と笑っていた。
正直、この時の俺は彼を軽蔑していた。勝手に他人と己の限界を定め、その枠で収まることを良しとする感性に思えたからだ。当時の俺が地元の連中 (自分の村以外の奴ら) を心底嫌っていたからなのもある。こんなところはさっさと捨てて出て行ってやるという気持ちしかなかった。俺は今その時のことを猛省している。

今、その仕事をやっているからというのもあるが、彼の発言に至るまでの環境、過程を一切考慮せず、「彼の限界」を勝手に決め込んでいたのは俺の方だったからだ。

奇しくもいや必然、今まさにネット上で自分の矮小な自尊心を満たすために、地方に暮らす人々を大雑把に悪魔化して低い知性へと位置付け、見下している連中と同じ所作を、俺も10代のころやっていたことになる。
俺の今の怒りは、いい歳こいてそんな自尊心の満たし方しかできない連中はもちろんのこと、過去の自分にも向けられている。


俺の村には週に1回ほど、学校が終わると村の自治会館の小会議室に子供達が集まり、交代で学校の教師がやってきて、一緒に宿題をやったりちょっとしたレクリエーションをやる謎の時間があった。
他の村では行われていない、俺の村にだけあった謎の時間。

ちなみに小学生と中学生でグループは分けられていた。
小学生は「つくし学級」、中学生は「ひまわり学級」だ。

ここでピンと来た人がいるかも知れないが、少し待ってほしい。障害者特別支援学級をそのように呼称することは知っているが、障害者支援のための学級活動ではない。俺含め、村の子供達は支援学級が必要な人間ではなかった。

だいたい水曜か金曜、小学校であれば4時限目のあと、中学校であれば5時限目のあとくらいにその学級は開かれた。
小学生の頃は何も分からずそこに通っていたし、学校が終わった後、村の幼馴染みたちと集まってワイワイしながら勉強をしたり、時にお菓子作りをしたりしたものだ。先生も学校にいる時よりもフランクで、ほとんど友達みたいな形でレクリエーションに取り組んでいた。

中学校に上がってからは人数がぐっと減る。
元々少ない子供の数から3学年抽出されればそりゃ少数も少数だ。
俺と同い年の幼馴染み2人、そして幼馴染みの弟たち。休みがちなやつを除いてだいたい5人くらいが、毎週1度の夕方に自治会館に集まって授業の復習や宿題をやった。

年度ごとに開級式と閉級式があり、その都度小中合わせた教師陣と何やら教育委員会のお偉方が来たりした。
マジで俺は何の疑問も持たず、ただ村の子らと一緒に過ごせる時間が楽しくて、その学級にはずっと参加していた。たまに「なんでここだけあるん?」と親に聞いたこともあったが、親は特に何も教えてくれず、言葉を濁すだけであった。

中学3年、最後の閉級式。
その時はいつもと様子がちがった。いつもの教師陣と教育委員会の面々に混ざって、知らない恰幅の良い30代後半くらいの男がいた。もっと歳はいってたかもしれないが、記憶が定かではない。だがずっとニコニコしていて、雰囲気も溌剌としていたから年齢よりは若く見えていた。

いつものように閉級式の工程を執り行い、最後に『Believe』を斉唱して終わる、そのはずだったのだが、その見なれない男が突如名前を呼ばれ、最前列の座布団に座らされた子供達の前に立った。

その男は軽く自己紹介をして、俺らの年間の活動に対して中身のない褒め言葉をあらかた述べると、突如身の上話を始めた。
曰く、その男の出身は「同和地区」と呼ばれる被差別地域だったということ。
その男は身の上話の際、「どーわでは」とか「どーわ出身やと」とか、とにかく話の最中に何回も何回も「同和」というワードを繰り返し、自分が耐えてきた苦難をニコニコしながら語った。その最中、俺はその状況が意味するところが全く分からなかった。

なぜ、この男は急にこんな話を始めたのか。

なぜ、この学級の閉級式でこの話が始まったのか。

なぜ、俺たちにこの話を語り聞かせるのか。

しかし理由は自ずとわかった。
男は話の最中、出身を「同和」としか言わず、その地域の具体名は明かさなかった。
その男は自分がいかにその苦難を乗り越え、そして今も苦しんでいる人々のために活動しているということ誇らしげに、その張り付いたような笑顔で語った後、最後の最後にその出身地名として俺の故郷の名を口にした。

ここで大体の辻褄が俺の中で整合した。
要するに俺の故郷はかつて「同和地区」「部落」と呼ばれていた被差別地域で、この放課後学級は本来、その男がいうところの部落差別への抵抗を謳った「解放学級」だったのだ。
しかし、その瞬間まで俺や幼馴染み達がそのことを知らなかったように、部落差別は少なくとも俺の住む地域では風化していた。俺も生まれのことで何か言われたことはなかった。それは今に至るまで一度もない。

おそらく昔は「解放学級」としての機能がちゃんとあって、村の子供達に「部落差別」の歴史を教え、「お前達は虐げられた者達の子孫である」という同胞意識を植え込もうとしていたのだろう。しかし、俺の子供時代にはそんなものはとっくに風化してしまい、「解放学級」としての存続が難しくなった。
そこで食い扶持を無くしたくない活動家連中のために、放課後の自主学習みたいな体裁だけ整えて「つくし学級」とか「ひまわり学級」とか、そういう支援学級としての形を無理やり残したのが、あの放課後の時間だったのだ。

俺は、それを聞かされた当時、今まで俺が無邪気に村の子達や先生たちと楽しく過ごしていた時間は何だったんだと、とてつもない空虚に襲われた。
全ては自分の利益とおまけみたいな道徳心を満たしたい大人達のための、弱者を使ったお人形遊びでしかなかったのだ。
幼馴染み達はその話を聞いてどう思ったのかは定かではないが、何ともないような顔をしていたのも余計にその空虚を加速させた。

俺の住む地域の歴史にそのような事実があったことは認めよう。
だが、今になってそれを後出しで知らされ、「これからはみんなも弱者の業を背負って一生懸命生きてください!」みたいなことを言われても、こっちは今の今まで村の子らとぎゃーぎゃー遊び、家でWiiリモコン振り回してたようなガキだったのに、なぜ急にそんな歴史の代弁者のような役割を背負わされなければいけないのか?

俺は都合の良い「弱者」を選別するやつも嫌いだが、「弱者のナラティブ」を背負わせようとしてくるやつはもっと嫌いだ。どのみちそんなやつは暴走した被害者意識で、手当たり次第に「己の正しさ」をぶつけまくる怪物になる。

俺は今ここで生きていることに何の負い目もない。
どこまでも強かに、図太く貪欲に生きていく。そして助けられる範囲で人を助ける。

こちらの記事で俺と同じように「解放学級」の当事者だった方の思いが綴られている (現在は有料記事となっている)。
こちらの方は俺のような騙し討ちではなく、しっかりと「解放学級の教育」をされたそうだ。しかし、当然この方の故郷でも「部落差別」は風化していた出来事だ。

突然「弱者のナラティブ」 を背負わされ、「あなたは弱者の歴史の一部なのだ」という常なる劣等意識を植え付けられる。それは今まさに逆境を跳ね除け、強くあろうと必死に生きている人々へのこの上ない侮辱だ。

そして今、ネット上で噴き上がる「弱者」をめぐる議論の大半は「救われるべき弱者」のポジション争いでしかなく、その最終目的のほとんどが遥か歴史より連綿と続く強者からの庇護の獲得であり、そのためのアピール合戦が無限に続く地獄だ。それには当然「切り捨てられても仕方ない弱者」の選り分けも含んでいる。
そこに弱者への理解を示すフリをした強者が、代弁者気取りで自分の道徳性のアピール合戦をする。それに絆された者たちが一時の高揚感に沸き立つ。自分がそういうポピュリズムの一翼を担っているつもりさえない。

自分自身が強くなって、余裕ができた分せめて身近な隣人は助ける、という殊勝な考えはどこにもない。 なんなら強者が弱者のフリをしている有様だ。

俺は強くありたい。
今の俺は無力な若造でしかないが、家族や友人、ご近所さんくらいには何の遠慮もなく手を差し伸べられるくらいには強くなる。


俺は「彼」の手をとりたい


都会vs地方の話題で一際盛り上がったトピックがあった。

まあ散々な叩かれようだった。

東京生まれ東京育ちの彼の、田舎に対する認識の浅さや、甘ったれ根性もあるが、しかし俺は彼のことを責めることはしない。

なぜなら彼は自分が元いた環境がどんなものだったのか、それが自分にもたらしてくれていたものを、田舎を通してではあるが実感し、認識を改めることができていたからだ。

特に以下で引用する彼の述懐は、『のんのんびより』なんぞで喜ぶフェイク孤独趣味人間には捻り出せないものがある。

地方に住んでいると、駅までちょっと出かける、というのは遠足みたいな準備と気合が必要になってくる。

明日は何時に家出て駅まで行って、そこから~時の電車に乗ってでかける、といったようにだ。

東京に住んでいたら、休日に時間を気にする必要なんて全くと言っていいほどない。終電逃しても最悪タクシーがすぐに拾えるし、どんな時間にバス停や駅につこうがすぐに乗車できるからだ。

東京の場合は、財布とケータイだけもって適当にぶらぶら歩きつつ思いのままに東京タワー行ったり新宿で買い物したり美味しいラーメン屋とか書店で思う存分休日を楽しめる。

コンビニも近いからちょっとビール飲みたいなと思ったら思ってすぐに家出て買いに行ける。

それが田舎では全くできない。

だけど、田舎の周りが田んぼだらけのアパートの一室でゲームやったりネットサーフィンやっていると、孤独感が本当に半端ない。東京に居たときとレベルが違う。東京の外で生活したことがなかった俺は、これが一番堪えた。逆に、東京にただ住んでいるだけで孤独感がほとんど無かったというのは新しい発見だった。実家が近いとか、地元の友人にすぐ会えるからとかじゃなくて、人が多いところにただ住んでいるというだけでこれほどまで孤独を感じないものなのかと再発見した。日中に玄関から出れば東京だと絶対人間に出くわす。ママチャリで買い物してる奥さん、学校帰りの子供、スーツ着たサラリーマン、作業服した作業者、とにかく人間がいる。


対して田舎は本当に人がいない。外に出ても出なくても人がいない。部屋の中で心臓痛くなって倒れても助けは呼べないだろう。俺はアパート住まいだが、隣の部屋は空き室で、数室離れたところによくわからん人が住んでるという感じだ。俺がゲーム中にくらっと来て倒れても誰も気にかけちゃくれないだろう。地方の田舎の、新幹線から見える工場に勤めてる若造が、周りが田んぼのアパートの一室で倒れて苦しんでるなんて、誰にとってもどうでもいいことに違いない。そういう絶望的な孤独を、田舎では強烈に実感することができる。それはインターネットやアマゾンでは全く埋め合わせることができない。

お盆休みに実家に一週間ばかり帰ったが、田舎暮らしには何の意味もないことをさらに実感することになる。

何しろ何もかもが最高なのだ。

UberEatsとか、なんだよこの便利なサービスは。外出しなくてもレストランのメニュー注文できて自宅で食えるとか神かよ。

図書館はそこら中にあるし、本屋もまだまだたくさんある。ふらっと気軽に家から出て本屋で立ち読みしたり気に入った本を買って喫茶店で3時間くらいコーヒー飲みながら読書したりとか、最高かよ!!

映画館も多くて、プロスポーツ観戦もちょっと気が向いたらすぐに行ける。ラーメン屋も地方と違ってめちゃくちゃレベルが高い。

「生き物のようにぐにゃぐにゃ生きて動いている街」のど真ん中に自分がいるということがどれだけ楽しく活気に満ち溢れている状態なのかとても強く実感する。

太字で強調したのは、彼が彼の故郷である東京のアドバンテージを如実に実感している部分だ。

全体的に共感できる要素は薄い。
特に2つ目に引用した「人が多いところ〜」云々はまぁ共感し辛い。

俺にとっては「人がいない」ことがそもそも標準であるため、たまに大勢の人間がわらわら集まるところに行くとシンプルに息苦しくなる (心象の比喩ではなく呼吸がマジでし辛い)。
だが、都会で孤独趣味決め込んでるようなやつはこういう認識は持てないだろう。「孤独を尊ぶ遊び」に興じていれば「近所付き合い」もできねぇだろうから、本当に人のいない田舎に放り込んだらガチの孤独で発狂するはずだ。


だが、1つ目と3つ目の部分は、俺が実際に東京に滞在した際にも実感することのできた明確なアドバンテージだと思う。

田舎では車移動は必然であり必要だ。
だが東京というのはすごいもんで、公共交通機関の発達具合は想像以上のユーザビリティがあった。ホスピタリティは最低最悪だが。とにかく人間が多すぎる。満員電車に出会した時なんてマジで「移動」じゃなくて「輸送」だと思った。ゲロ吐くかと思ったわ。

なんなら電車使わんでも歩きで全然ええやんと思うくらいには、その辺になんでもある。俺が歩くのが好きだからと言うのもあるが、それにしたって東京の中心部は歩いて大抵のものにアクセスできる。
これは俺の趣味の問題だが、まぁ魅力的だと思ったのは楽器店の充実度だ。お茶の水のギターショップ集合地帯は天国かと思った。なんならそこで勢いで1本買ったくらいだ (安物だがいい買い物だった)。

しかもこれは中心地に限らない。
俺は今は疎遠の友人宅に泊まらせてもらっていた。そこは埼玉との県境にある町だったのだが、そこには歩いていける距離に、書店もあるし、それなりの飲食店もあるし、業務スーパーだってあった。
田舎なら車を飛ばして市街地に出にゃならんところを、全部歩きで完結させられることにビビり散らかした。そりゃあこんだけ便利な生活に浸かりっぱなしなら、田舎に来たら何もないと感じても仕方ない。

とはいえ、俺は東京の中心地をしばらく歩いて情報酔いし、友人宅でその日のうちに頭に叩き込まれた情報が反覚醒状態でフラッシュバックしたくらいには、東京に適性がなかった。確かに便利ではあるものの、正直住みたいとは思わない。
ギターをカスタムオーダーしてくれる店が池袋にあるようなので、いつかそこに行くためだけにまた東京に訪れることはあるだろう。

とにかく、彼はきっと『のんのんびより』を見てもこれはフェイクだし、これを見て田舎を理解した気になるやつもフェイクだと思うはずだ。
彼は残念ながら「田舎の文化」を認識できなかった。それが彼のハビトゥス (こういう横文字概念使う時のしっくり来なさはすごい) とかいうやつのもたらした彼の限界なのだろうが、少なくとも彼は敬虔なる「消費者」としての立場をわきまえた謙虚な人だ。田舎にてめぇの頭の中だけの旅情だの風情だのを勝手に求める、肥え太った感性の人間よりは高潔だ。


さて、見出しで手をとりたいと言った「彼」とは東京出身の彼ではない。

このエントリーに噛みついた稀代の文豪である「彼」のことだ。

こちらには大いに共感した。
しかし元エントリーを憎む気持ちにではない。「彼」のやるせなさ、故郷を思う愛憎にこそ俺は胸を打たれた。

そうなんだよ 田舎って地獄なんだよな

内面世界を十分に発達させた大人が飛び込んだって地獄なんだよ あれだ 夜にカーテンを開け放つと部屋が暗く感じられるやつだ

部屋の中は実際けっこう明るいはずなんだが、夜の暗さに呑まれちゃうんだよな そういうことなんすよ お前が東京で育んだ豊かな生活をよ、田舎の虚無が侵食するわけでしょう

正直ちょっと小気味がいい いや、ちょっとどころではない クソざまあみやがれ!

いやそれは別にいいんだけど、俺はガキの頃の話がしたいのだ 大人ですら敵わない田舎の絶望的な空虚に、子供の頃から浸って育った人間の抱えるどうしようもない憎悪に少しでも思いを馳せてくれ

わかるか?

お前にとっての地獄が俺にとっての産土、故郷、そのようなものなわけですよ

俺だって嫌いだよクソ田舎 でもまあそこで育ってしまい、脱出にも失敗した以上、心情としては肩入れしたい

できねえ〜ッ できねえんだ ゴミだから

俺はすぐにでもネットの壁を飛び越え、「彼」を抱きしめてやりたい気持ちでいっぱいになった!!そうだよな。どうにかこうにか故郷を肯定しようとして、でもできない。分かるわ。本当によく分かる。
俺にもそんな時期があった。

俺はあまり人に共感を寄せることを良しとしない。
人の苦しみはその人だけのものであって、それを全部自分ごとのように受け止められると思いこむのは傲慢だ。ネットには「共感力」とかいう意味わからんワードを振り撒いてエスパーを気取るやつがわんさかいるが、類推できるのはその人の置かれた状況までであって、共感で得た感情に関してはどこまでいっても「勝手にエミュレート」しただけの紛い物だ。
だが、どうしても、この慟哭には「わかるってばよ…」にならざるを得ない。

願わくば「彼」にはその憎しみを大切に大切に持っていてほしい。
「彼」が憎む相手が仮に反省したとて、口だけの共感を寄せてまた「彼」を失望させる。連中は言葉を紡ぐことに関しては虫唾が走るほど得意なのだ。奇妙なレトリックをあの手この手で差し挟み、それっぽい「理解」を示して、そしてそれっきりだ。何もしてはくれない。
「ここ」に来て一緒に汗を流すことも、手を動かすことも一切しない。ネットに向かってポチポチともっともらしいことを延々言い続ける言葉の機械だ。

だが安心してほしい、俺がいる。
俺が、そして俺のように「故郷」で懸命に生きている人間がたくさんいることを、どうにか「彼」に伝えてやりたい。身体性に根差し、手を動かすことの尊さを知っている人々が、言葉“だけ”の人間には何もできやしないということを知っている人々が確かにいるのだ。だから安心してほしいのに、それなのに、こんなにもどかしいことはない。

顔も知らない、下手をすればただの創作かもしれないその文章に、それでも俺はこの言葉の向こうにいるであろう「彼」と良き友人になりたいと思ってしまった。残念ながら今の俺は無力な田舎の若造でしかない。だから俺の言葉は彼に届くことはないだろう。言葉は本当に無力だ。こんなものを真顔で信じられるやつの気が知れない。
“思いを馳せて“もそれは思っているだけで、「彼」の現実に1ミリたりとも変動をもたらさない。形にしなければそれは自分の中で起こっているだけの観念的なさざなみだ。「彼」と直接出会い、話し、手伝えることがあれば手を貸す、ここまでしてようやく俺は彼を”思いやる“ことができる。ただ匿名の相手にそこまでやるとただのストーカーなのでそれは迷惑極まりない。本当にもどかしい。

「彼」は今いくつなのだろう。文章の端々からおそらく若者であることは伝わる。
俺と同年代か少し歳上だろうか。
田舎に残った、残らざるを得なかった若者として、「彼」と痛みを分かち合い、そしてこれからの人生を祝福してやりたい。「彼」にとっての「故郷」が、「彼」を「彼」たらしめる血肉でもあったことを、それに気付くことができれば案外どうにでもなるのだということを、そんな切なくも力強い事実が、「彼」のこれからを支えてくれることを切に願う。



おわりに


散々呪詛をばら撒いたが、もう金輪際こんなことはしたくない。
ここまで喚き散らして説得力皆無だが、アニメにブチギレるのって時間の無駄すぎるしバカすぎる。

世の中にはもっと面白いアニメがいっぱいあるし、『のんのんびより』だけに固執してもしょうがない。

同時にネットに溢れる地方蔑視にいちいち目くじらを立ててもしょうがない。
奴らはどのみちネットの隅っこから、自分の属するインナーサークルから出てくることはない。こちらはこちらで助け合いながら粛々と生活をこなしていく、それだけだ。

じゃ、俺は『アリスさんちの囲炉裏端』でフェイク田舎おねショタ楽しんでくるから…。


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