むじん
剥がれかかった朱をなぞると、そそくさと、蜘蛛が降りていく。鳥居の根元からは、苔が這い上がってくるようだ。
木漏れ日と呼ぶにはあまりにも心細い光が差し込むが、社は確認できない。一礼してから、一歩を踏み出す。虫の羽音が耳元でいっそう激しさを増した。木々の葉が擦れ合う中に、獣の不規則な息づかいと、予期せぬ来訪者への警戒が空気を震わせる。
拒絶、警戒、威嚇…その中に、微かに戸惑い、歓迎が流れ込む。
ー いらっしゃる。
木の葉、死骸、木の実、むき出しの石に足を滑らせながら、はやる気持ちを押さえて、私は歩を進める。社の輪郭が鮮明になった。予想通りだ。
社は既に、屋根が崩壊し、錠前が錆び落ちて、扉が半開きだ。
(遅くなってしまい、申し訳ありません)
紐が朽ち果てそうな鈴を鳴らすことも躊躇われたので、かしわ手を打って、目を閉じる。
ふいに、鈴の音が聞こえた。本坪鈴よりも、高い、微かな音。はっと顔をあげると、今度は、強く、鈴の音が聞こえる。
ー…この土地のものでは、ないの、ですね。
私が小さく、うなずくと…鬱蒼とした林には似つかわしくない強い風が、吹く。
ーわかりました。
(お待たせしてしまい、申し訳…)
ーあなたのおっしゃりたいことは、わかっております。でも、私は、ここを離れる気はありません。
(えっ…)
ー聞こえるのです。
(聞こえる?)
ー郷を、私を、思う人達の声が
(でも、その者たちが、この地へ戻ることは、もうありません)
ーわかっています。ですが、あの者たちの心や祈りが、この地にとどまっているのです。
ーわたしは、ここにいます。
またか…この地を巡るようになってから、何度目だろう。
都会では、時には喜んで、廃社を受け入れる氏神様もいらっしゃるのに。住む人のいない、この土地で多くの氏神様が、継続をのぞむ。
ーこの数年、悲しみが、恨みが、怒りが…和らいできているのです。それでも、諦めや祈りを受け取る場所が、あの者たちには、まだ必要なのです。
私は静かにうなずいて、デイバッグを下ろす。
(わかりました。では、せめて、その者達の代わりに祀らせて、いただけますか)
デイバッグから取り出した神具の音に、小さく、鈴の音が重なった。