目隠しに気づいている
私は気づいたら自分の本心に目隠しをすることがとても得意になっていた。
私がいいと思うことより、あの人がいいように見てもらえる方を私なりに選択してきたから。
だから、私がこうしたい より、 あの人はどう思うかな?と、私のことなのに、判断の基準にあの人を思い浮かべていた。(今、思い出すと、全てをあの人のために選択してきたわけではなかったけれど、私の心底にはあの人の存在は大きかった)
驚く話なのだが、20歳を過ぎるまで私は自分の望むような髪型をしたことがなかった。
成人式を前に勝手にボブにしていいんだろうか、
と内心怯えていた。
他にも似たような話はあるけど、それはまた機会があったら…。
今思えばだが、あの人を気にすることなく自分の好きなように選べばよかった。顔色を伺ってはいたけど、その手は私が大学生になってから、ほぼ離れていたんだと思う。
でも、私は気づかなかった。
簡単なことやあの人があまり関わらないんじゃないかと思うことなら、私は選択の半分は私のための選択をするようになった。
けれど、やっぱり心底にはあの人がいるんだ。
恐ろしいことに、幼い頃から擦り込まれた私の世界を形成してきた思考がなかなかとれない。
あの頃はあの頃。過ぎた過去で、今とは大分違う。
大袈裟だけれど、生きているのが辛かった。
誤解のないように言うと、友達を作るのも一緒にいるのも得意ではなかった。1人が怖かった。けれど、いじめられていたわけじゃない。
入院しないといけないほどの病気を抱えていたわけじゃない。
でも、私にとって、自分を生きることを諦めた時間が長かった。
自分の中に生まれる矛盾の答えを誰にも聞けず、
自分の味方は自分だけ と助けを求められなかったあの時は私にとって、私は、ただの黒歴史。
自分をコントロールできず、みせる自分と中身の誤差にただただ苦しい時間だった。
嫌なやつになっていた。 自分の中に溜まった毒の出し方を知らなかったから、いつの間にか私の容器から溢れて漏れだした。
自分が嫌なやつになるのを止められなかった。
私が‘求められている‘私’でいないといけないのが苦しかった。(本当にそうでなければいけなかったのかは、今でもわからない。ただ、当時は何かが私にそう感じさせていた。そうしないと生きてはダメな気がした)
得意ではないことだけど、バレないように必死で繕うだけのニセモノなのに。
まるでホンモノかのように振る舞う無駄に高いプライドも、全部全部。
大嫌いだった。
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私は幼い頃から本が好きで、それに救われた。
ダメな私がダメを隠さず、そのままで生きていい。
そう思えるようになるまで、時間がかかった。
高校生のいつ頃かから、図書館に通うようになった。
たくさん、本を読んだ。
考え方を学んだ。
大学生になってからも図書館に通う。
回数は多くもなかったけど。
20歳を越して漸く、私は‘私’になりたいと思った。
誰かのため、ではなく、私が私の人生を生きたいと思った。
本が私に教えてくれた。
私の狭く偏った思考に光を差した。
独裁的に支配されていたかのような私の心に、小さな世界でのみ生きていた私に、広い世界へと繋がる道があることを教えてくれた。
こういう考え方があっていいんだ。と。
でも、とても大変だった。今まで私は本来の自分に目隠しをしていた。
私が言うことは全て間違いだと。
間違いはしちゃいけないんだと。
そう言われてきた私は、小学生の早い段階で、自分の意思を伝えることを諦めていた。
自分 ではなく、求められる自分になることに必死だった。
私のままでは、きっと、また否定される。
そうやって、少しずつ消してきた‘私’の戻し方をどうしてわかるだろうか?
それでも、私の意思が必要なときがくる。
わたしにはわからなかった。
わたしは何になりたかったか。
何が好きだったのか。
どう人生を生きていきたいのか。
考えることを放棄してきた私には、難しかった。
でも、好きはどの時代でもあった。
それを辿ればいいと思った。
実際に、チャレンジしては、想像と違ったり、私が本当にできるのか?と無駄に心配して終わったり。
こういう道を辿ればいいんじゃないかと、一見良さそうな道を思い浮かべることはできた。
でも、それは、誰からみてもまあ悪くない道ってだけで、本当に私が行きたい先なのかと言われたら違う。
無難を選ぼうとしてみたはいいが、わたしには頑張るための気力がもうなかった。
私の意思は拒否をした。
20歳を超えてから、少しずつ自分の声に耳を貸すようになって、私は閉じ込めていた私が少しずつ小さな世界から出てこようとしていることが嬉しかった。
私は漸く、‘得ようとしている私’のワガママを少しずつ聞くようになった。
その私が言う。
「私の生きたい先は、そっちじゃない」
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私が私になろうとして、5年。
私が何処へいきたいのか。
まだまだ私は先がみえない。
それでも、
小さい頃、何も考えずに好きだったおもちゃや好きだったことを私は最近になって徐々に思い出している。
中にはその夢を目指すには遅いこともある。
それでも、久々に会った小さな私が懐かしく感じて、嬉しかった。
「そうか。私はそれが好きだったんだね。
私にもちゃんと好きなものやことを前面に出していた時期がちゃんとあったね」って。
抱きしめたくなった。
好きになった夢を抱きしめていた小さな私も、苦しさを抱えながら必死に大人に自由になることだけを求めていた小さな私も。
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自分の人生の責任は誰かに押し付けることはできない。と嫌でも思い知らされる。
自分がとらねばならない責任。
たとえ、自分の本当の意思でなくても、誰かから選ぶように言われた選択であっても。
第三者からみても、
結局は、私が選んだ道 になってしまうんだ。
選択を促した者は忘れてしまって、
私だけが覚えていても。
私は学んだ。
最終決定は自分でしなければならない。
私の人生は私しか責任はとれないのだから。
生きるのがつらかったと思った時、
私には私を満たす好きなことが足りなかった。
でも、いつのまにか自分に目隠しをしていた私は、そのことに気づかなかった。
そもそも、そんな考えすら浮かばなかった。
毎日を少しでも平穏に過ごせるようにしか考えてなかった。
漫画や本は好きだけど、実は私は自分から何か楽しみをつくりたい人間だったんだ。
受けてるだけじゃ満足できなくて、
能動的に自発的に生きていきたい人間なんだと。
今もまだ、目隠しの全てがとれているかわからないけれど、誰かのためだけの自分になるために、本来の自分に目隠しするのだけはやめよう。
目隠しをして、自分を見失って、思考を停止させて…。自分が嫌なやつとわかりながら、それを止められないなんて、繰り返すのはもう嫌だ。
それに今、私は漸く生きることに楽しみを感じつつ、大嫌いで黒歴史としか思えなかった自分を少しずつ、嫌いじゃなくなってきてるのだから。
もしかしたら、私と似たような人もいるんではないかな〜と思います。
気づいたら、自分ではなく、‘自分の名前をもった誰かの望む自分’でいないといけないと強く感じて、ずっと自分に目隠しをしてる人もいるかもしれない。それが辛くないなら、そのままで大丈夫だと思いますが、そうじゃないなら。
焦らず、まず、自分の苦しくないことをちょっとでも、ホッとするものを探してみて欲しいです。
そうやって、少しずつ、少しずつ、自分が覆っていた目隠しをとっていけたらいいなと思います😊
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※小さい頃を思い出しながら、その時私視点で感じていたことをメインに書きました。
なので、あの人視点はまた違ったものになると思います。
今は少し、辛かった頃に対して、悪い思いだけではないです。何故そうなってしまったかもなんとなくわかるようになりました。
今は、過去のようなことはなく、普通に過ごしてます😎