鉄道を生涯愛せるか?~「最長片道切符の旅2015夏」の記録~番外:鉄路

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鉄路と路盤は、走る列車を支えるものです。

しかしこのしばらく、日本国内では列車が来ない鉄路が増えてきています。

自然災害。東日本大震災が21世紀に入ってからまず思い浮かぶものなるんですけど(あと10年くらいすると10代の人たちはコロナショックのほうがインパクトを持つのかもしれないけれど)、それ以外にも大雨や大雪、台風といった天候不順も非常に多い。

そういうなかで路盤崩壊などで列車を走らせることができない鉄路が至るところにあります。一部では、真偽のほどを確かめてはいませんがこの10年間、運休路線がゼロだったことはないとこのほどそんな情報を耳にしました。

それは最長片道切符のルートにも影響を及ぼします。代行バスすら走っていない場合は、運休区間として切符は発売されないからです。

2015年当時、山田線の宮古~釜石がこの区間に該当していました。路線バスは並行して走らせているものの、代行バスとは名乗っていませんでした。ですのでこの区間を含むJRの切符は発売されなかったのです。

2015年8月2日、最長片道切符での旅を一旦中断し、本来運休していなければ最長ルートになるはずだった区間を青春18きっぷと並行して走る路線バスを乗り継いで旅しました。


この日は朝、北上の居心地最悪(は言い過ぎか)のカプセルホテルを出まして、北上駅から一旦東北線を盛岡駅へ戻ります。まあカプセルホテルの居心地がお察しのレベルでまあ眠れなかったので、もうこの時点で軽くウトウトしかけてしまいましたけれども。

ルートは盛岡から北上に至るルートです。本来なら、盛岡から山田線で宮古・釜石と経由して花巻まで釜石線に乗ってそれから東北線に戻って北上に出ることになっていました。このうち先ほども書いた宮古→釜石が寸断されてしまっていたのです。

青春18きっぷにスタンプを押してもらい乗車。地味に長いなあと思いつつ、なんとかついたら、山田線へこの旅行で初めての太平洋側を目指します。海側の宮古へ直通する列車って日に何本かしかなくて路線バスのほうがいいらしいと聞きます。でも、鉄道旅行。あくまでも鉄道で移動できるところはそのまま移動します。

盛岡からは午前10時過ぎに出発する快速リアス号に乗って峠を越えます。途中、野生動物と接触するハプニングがありましたが、無事に切り抜けてほぼ予定通りに宮古に到着。

本来だと宮古から釜石へJRの鉄路でそのまま降りていくことができます。しかし、東日本大震災での被災で運休。代行バスがなく並行する路線バスでの移動になります。このため、最長ルートとして通過することはできなくなりました。

この時点でお昼になっていました。駅そばで昼食を済ませ(わりとスープがいい感じでした)、午後出発の路線バスに乗りました。

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最初は町中を。わりと雰囲気は穏やか。ただ町中を出ると変わってきます。

当時は震災の傷跡はまだまだ点在していました。

被災した建物が残っているケースもありました。これが一番目立つパターンなのですが、バスは通過していくだけですが生々しいものがあります。

ただ、そういったケースはこの時点で震災から4年。さすがに一般化してはいけません。そこまでは見かけなかったということです。

仮設住宅が見えてきます。このパータンはちょくちょく見られました。様々な理由で元の住居には戻れないのです。仮設住宅というのを目撃する機会、このときがほとんど初めてだったように記憶しています。

鉄路が見えることもありましたが、列車が走る様子はありません。

逆に仮設住宅以外にも視界に入った光景があります。

答えは「更地」です。つまり建物もかれきもなく土だけがある状態。それがかなりの規模で広がっている光景です。

古い家屋を取り壊せば更地が出てきます。でも、古い家屋をまとめて処分するというのは大型の開発計画でもない限りなかなかないはずのお話です。ましてや延々と向こうまで更地というのはそういった事情ではないでしょう。

道路には、ところどころ見慣れない標識がありました。それは「津波はここまで来た」とか標高とかを示すそれらです。つまりそれより標高が低いエリアは浸水の被害が起こったエリアということになります。そのエリアで更地が広がっているとなると答えはひとつしかないわけです。

津波はそれほどの破壊力を持っていたということです。


路線バスは、宮古と釜石を直通しているわけではありません。途中「道の駅やまだ」が宮古からのバスの終点になり、今度は釜石行きのバスに拾ってもらうのです。一旦バスから降りて道の駅の中へ。

地元の品も売っていましたが、ここであれこれ買っても次に札幌に戻るのが後なのでここでは何もできません。フードエリアでコロッケを食べて再び乗り込みました。

さらにバスでの旅が続いて釜石に着いたらもう夕方です。

釜石の駅前は整備が進んでいました。

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鎮魂の鐘があります。隣には花束が見えます。簡単に記憶が記憶となり、過去のものにはならないことが垣間見えます。

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鐘には、90度ごとに言葉が刻まれています。

そのうちのひとつに「希望」とあります。どのような気持ちが込められたものだったのでしょうか。もちろん、「希望」は人それぞれ違いはあるでしょうけれども。しかし、多くの命が失われ家屋などの今まで築いたものが流された絶望があるからこそ、その希望の意味は単なる願望を越えたものであることは想像に難くないはずです。

釜石では、残念ながら天気が荒れて雷雨になりました。しばらくすると列車がやってきまして、花巻方面へと今度は内陸へ向かいます。この時点で午後6時前。本当は遠野物語のふるさとだったりと話題のある路線ですが、出発まもなくすると日没になり何も見ることはできませんでした。


北上に戻ると夜8時を過ぎていました。これで最長片道切符のルートになるはずだった区間を一応たどったことになります。この時、不通が続いているという意味をやはり思い知ることになりました。これからあと5年あるいは10年かけてもう一度街を作っていこう、ようやくそのスタートラインにたどり着きつつある、それくらい元々のダメージは大きいものだった、言葉で書くのは簡単ですが、理解するのはぼくには簡単ではなかったようです。その感覚を想像するというのは、写真だけではぼくには無理だったようです。

不通には不通になる理由があったということだと思うんです(もちろん資金資材のその他事情も絡んでいるとは思われますが)。この頃から「復興が進んでいるのだからそういう側面を持ち出すのはどうか?」という論調がネットを中心に高まってきていました。確かに新しい建物が建ち始めたのも現実です。しかし、いまだ更地や仮設の建物が存在するのもまた事実でしょう。今置かれている状況はその地域や人々によって様々であることを忘れてはいけないと思います。


大変勉強にはなりましたが、「あ、きれいだ!」というような話ではないので疲れはたまります。必然です。夕飯は、疲れた体を引きずって前日の食堂に再びお邪魔しました。

前日は日替わり定食が何とか丼定食だったんですが、今日のメニューを主人にたずねると「餡掛け焼きそば!」と返ってきまして、そのままそれを注文。

夜はふけていきました。二晩続けてなので話はむしろ深く長くなります。

「大学で東京へ出たけれども戻ってここで店を開いた」

「でも、東京へいって戻ってきているので、東京までいっておいてなんでこの店なのか?って散々に言われた」

どちらかというと平和に過ごしているよう思われたのだが、そうではなかったらしい。地方から首都へ出て、また戻ってくる。いまではUターンとしてあり得る話かもしれないが(それでも少ないと思われるが)、少なくともこの主人にとっては違ったようです。東京に行って立派に出世するんじゃなかったのか?なのに出世せずにこれか?というような逆に蔑まれる対象だったのではないかぼくにはそのように思えました。

「そりゃこのビールなんてどこでも飲めるし、飯だって」

プロだろ!という突っ込みが聴こえてきそうでした。主人はベテランです。さすがにそんなことは言わないだろうなんて思ったわけです。言ったらプロの看板を下ろすことにつながりかねない。そんなことをそのまま認めてしまうと店を開く意義がどこにあるというのだろうか。

意外な場面で意外なことを言うので、咄嗟に返す言葉がありませんでした。


「誰にとっても居心地のいい場所でありたい」

それが答えでした。「礼儀が…だから」あるいは「お客様がえらいから」とか「常識」とかそういった言葉で説明されることではありますが。確かに人間、外では仕事や学業や家事や育児や介護…やりがいもあるかもしれませんが、様々な場面でストレスをためるあるいは逆境の中を走り続けることを余儀なくされることは誰にでも起こることです。嫌なことだっていっぱいあります。むしろ下手をすれば嫌なことのほうが多いのかもしれない。

しかし走り続ける(にしても逃げるにしても)には、エネルギーや土台が必要です。列車に例えれば動力源とレール(つまり鉄路)が必要です。

主人のメッセージは単に「居心地の良さ」以上の深いものがあると、月日を経るにつれて強く思うようになりました。

確かに「生産性」というワードを当てはめれば数値にのぼってこないことなんていくらでもあります。むしろ居場所を提供するだけではそんなこともあるかもしれない。でも、訪ねてきた人にとって拠り所として機能するのであれば、その人は翌日きっと昨日より踏ん張れるかもしれません。立ち止まっていた人は、もう一度歩き出せるかもしれません。

そういう「土台」でありたいというのであれば、それは隠された重要な存在意義だと思うのです。自分の直接的な成果は後回しあるいは犠牲になるかもしれません。特に目立たたないままでしょう。しかし、ほかの人に希望を与えられるーある意味では無限、あるいは無限に近い可能性があるんじゃないかーそんなことを振り返って思いました。



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