鉄道を生涯愛せるか?~「最長片道切符の旅2015夏」の記録~スタートラインへ

「あなたは鉄道を生涯好きでいられるか?」

まるでその恋人と一生添い遂げられるかみたいな問いかけです。普通、問いかけられることなんてないと思うんです。いま鉄道が好きなことは当たり前なのですから。わざわざ考えないと思うんです。でも、将来どうでしょうか?

もちろん、将来のことだから100%というものはなかなかないでしょう。時代はこの数十年で固定電話はスマホに、手紙はメールやSNSに、投稿はWEBなら好きに無料で放り込めます。何が事実か、どうやってそれを確かめるか、証拠がいくらでも残りそうなのにそれがかえって難しくなって…そうすると考え方もやり方もどんどん変化・枝分かれしていき、生まれては消えていくことでしょう。鉄道が好きであるかという問いが今後絶対に変わらないということを証明するのは非常に難しいと思います。そもそも鉄道ファンというジャンルが後世維持されるのかどうか?(いまのところはまだ大丈夫かなあと思ってますが根拠はありません)

それでも、好きという意志が強固であれば強固であるほど、外的な要因がどんどん変わっていったとしても揺らぎづらいということだけは言えると思います。どうしても優先したいことは優先する人が多いですから。将来のことは断言できませんが、好きなまま年を取りそのまま生涯を全うする可能性があるかどうかというのは「その意志が強いかどうか」である程度の推論が立つはずではないか…?


2015年7月、いまからすると5年前になりますがぼくは究極の鉄道旅行に挑みました。

以前にTwitterで記録はあげていますが、やはりきちんとそのとき思ったことを文章にできるところでまとめておきたいとしばらく前から考えておりました。いまから振り返れば、やはりこの旅行とこの前後の経験がいまのぼくの原点になるからです(四半世紀は生きてますからその前にも生きているうえでの結節点はもちろんありましたけれども)。今回、初出の資料・画像もあるかと思いますので、前読んだ人も是非目を通していただければ幸いです。

序:最長片道切符の旅は思い付きだった

思いつき

もちろん5年前は「生涯にわたって鉄道と向き合えるか?」なんてこと考えて旅行してはいませんでした。当たり前のことです。単純に、今できる間になるべく遠くまで鉄道旅行をしておきたいそれがやってみようと思った発端です。

最初は、青春18きっぷを複数枚入手してそれでまわることを考えていました。しかしそのときにふとブログで(当時はTwitterもYouTubeもありましたがそこまで使っていなかったしアカウント持ってなかったんです)最長片道切符を一部改変したルートではありましたが、九州の枕崎をゴールとする以外はほとんど同じ経路をたどって旅行していた記録をみかけました。

そのブログを読んだときぼくの記憶は幼少期にさかのぼりました。俳優の関口氏が最長片道切符の旅に挑みそれをNHKが放映していました。それを見た時「遠くまで行けるなんてすごい」とあこがれたものです。日本国内で、鉄道を用いた最も距離が長い旅行、それにあわせた片道乗車券を用意してめぐる旅、テレビの番組紹介で「究極の鉄道旅行」なんていっていたように思いますが、大げさでも誇張でもなくそれが事実でした。

正直、何をテーマにするかもいまいち定まらなかったぼくは「これならテーマもはっきりして収まりがいいし、何も考えなくてもほとんどの都道府県をめぐることができる」と即決しました。

ブログで、あったいろいろな出来事が「こういう体験できるんだあ」といいイメージを持ったことも確かです。温泉はいってみたり、現地で地元の人と話をしてみたりと。でも、収まりがいいという思いつきは大きかったです。でも、その根底には確かに幼少期からの長く眠っていた願いがあったと思います。その前の年に一度鉄道旅行をしていましたが、それまで鉄道好きでありながら鉄道旅行をまともにする機会をずっと得られないまま20歳を超えてしまっていました。

「鉄道でとにかく長い旅をやってみたい」


決まれば簡単だったと思ったのだけれども…

この機を逃したら、簡単にはできないだろうという予感は当たっていました。後にも先にも1ヶ月以上も通しで時間を確保できたのはいまのところ後にも先にもその時だけでした。

最長片道切符に照準を絞ったのが2015年5~6月上旬だったと記憶しています。早速現在のルートをチェックすべく調べました。

さすが21世紀、ネットで調べるとその手のベテランさんがWEBページ作ってまとめてあるんですよね。早速それを読みました。路線ができたり、なくなったりするとその都度ルート変更が生じること、東日本大震災による不通区間が存在し事実上ルートが削減済みであること、2015/05/30から東北のルートが全部入れ替わること。

リサーチをかけて早速必要な情報や一覧を抜き取り、2015年7月終わり~8月の実施に向けてルートの一覧表づくりに着手しました。抜き出すことはすぐにできますが、誤って重複して抜き出していないかはもちろん、印刷して路線図と照らし合わせて規則上矛盾が生じないかどうか、距離数の計算は合っているか…もうね、この辺でミスしていないかは紙に穴が開くくらい見直すしかないんです。JTB時刻表を横において何回もめくりなおしました。

結局ルートは矛盾がありませんでしたが、距離の計算はWEBサイトが間違っていましたのでそれを直して一覧表を仕上げました。

いまは某有名YoutuberがJRといわて銀河鉄道を組み合わせたルートを提唱していますので、(いまはまた落ち着いてきたとはいえ)2017~2018年あたりはその組み合わせによる最長片道切符が多くネットで上がりました。しかし、2015年当時はJRのみで作るというのがお約束になっていました。

これが結構骨が折れました。

それでも6月23日、ついに札幌駅に経路表を持ち込み「これで片道乗車券作ってもらえませんか?」と申し込みました。

資料:実際に札幌駅に提出したルート一覧(初出)

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なぜか合計距離の計算に誤りがあるものの、ルートはあってます。

このときは、東日本大震災で代行バスが走っていなかった区間がありまして、その区間を不通承知で発売してくれるかどうかJRの会社によって議論がわかれているという指摘がありました。そのため、JR北海道ではどのように取り扱うのかが知りたいというのもありました。

ですから、あえて不通区間を含めた経路を「第一希望」として、もしそれが発売できないときのみ、それを外した区間を「第二希望」として申請を行いました。

大変申し訳ないのですが、申請を受け取ったJRの方は「なんとか冷静でいようとしている」感がありありの表情でした。当時、最長片道切符は申請から受け取りまで1ヶ月かかる覚悟が必要というのが常識でした。これは無理なのか…と不安にもなりました。なので、用意でき次第でいいですという感じで提出したのですが…

「あ、受け取る日にいつにしますか?それにあわせて作りますんで」

いや、そんな受け取る日にあわせて作るなんてできるんですか?って感じでしたが、よくわからなかったのでとりあえず7月5日を指定しました。申請したこの日から12日後になります。「あ、わかりました」みたいな感じで終わったので内心は「え?それでいいの?」という思いが消えませんでした。


切符を手にした日

2015年7月5日。いまでも忘れない受取日。現金を下ろして(当時の自分で得た収入と貯金で賄いましたが、貯金もこの旅を終えた時本当に少なくなっていました)、みどりの窓口に再度赴きました。札幌駅の東口の窓口で申し込んだのでそちらへ行ったら「西の窓口で用意できてる」と告げられ、西改札前の窓口へ移動しての受け取りになりました。

西の窓口に受け取りに来た旨を告げると、ベテランのJRの方が奥から出てきました。確かに、普通の切符の形状とは違う紙が握られていました。

「あれ?79200円?あれ?計算間違えたかな?」73990円って書いてあったんですが、そのベテランの方が確認しに1回奥へ引き上げるなどまあまあバタバタとした受け取りになりました。ちなみにぼく75000円くらいしかおろしてなかったので思わず「それでしたら、引き出しに行きますが」と言ってしまいましたが。

ドタバタした結果やはり73990円で間違いないらしくそのまま受け取りました。Twitter初めてからフォロワーさんと運賃の話をしましたが、73990円は正しい数字でした。

資料:未使用の最長片道切符(JR版2015/05/30ルート)

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なんと予定よりもかなり早く受け取ることができました。当時ネットで見てたら「3週間たっても…」なんて見かけていたんですけれども…

ちなみに、発売にあたって申し込みから受け取りまでJR北海道からの問い合わせは一度もありませんでした。

ただし、やはり「第一希望」は通りませんでした。「第二希望」が通って発売されました。とはいえ、一発合格の喜びはやはり大きいものでした。

稚内の出発日は7月25日。そのために前日稚内入りする日程を組みました。そのあと、ひとまず時刻表をひたすら確認しながらだいたいの見通しを立てました。

まず、最初の3日間で札幌へ到達します。もっとゆっくりする手もあるかもしれませんが、北海道はすでに旅行していますから本州以南にリソース割くべきだろうと考えました。1日のブレイクを入れて7月29日夕方に札幌から小樽経由で長万部へ出て本州へ入り、そのままのペースでいけば8月27~29日頃に九州は佐賀県の肥前山口でゴールできるのではないか。

もちろん中断や余裕時分は入れました。途中下車を楽しむのも旅行ですし、そうでなくてもアクシデントはつきものですから。起こる前提で組んだのです。

装備もどうすればいいかという問題はあります。でも、1ヶ月続けるならリュックサックひとつにまとめないと忘れ物や荷物が重すぎて思わぬ苦痛になる可能性もあります。ここは多分変わらないだろうと思いました。

ただ、上着を何枚入れて、現金はいくら引き出して、何をどこまで装備しておくかは判断が難しい…どれくらい暑くなるか寒くなるか、読みづらいところもありました。まず、北海道を回っている間に感覚をつかみ、札幌で1日休む間に最終的な装備を決める。無理に結論は出さないで出発することになりました。


スタートラインへ 0日目2015/07/24/曇り一時晴れ

ここ20年以上は稚内がスタート地点です。最終的に07/25の朝一番に稚内を出発し、この旅行を始めることに決めました。

ぼくは、2015/07/24朝一番の札幌発旭川行きのキハ40系という国鉄車両があてられる普通列車で住んでいる札幌を出発しました。


1本目 札幌6:00→普通925D→旭川8:55

2本目 旭川11:11→快速なよろ1号3221D→名寄12:31

3本目 名寄12:35→普通4329D→稚内16:57

曇りの中でも時々晴れ間がのぞき、日が差したときは緑が鮮やかに輝く、そんな一日でした。稚内はこのときが2回目だったのですが、前回2013年夏に赴いたときは札幌が夏日だったのに対して、13度前後とめちゃくちゃ寒く風邪をひくのではないかというくらい派手にやられて帰ってきておりまして、「今度はその失敗だけはしない」と固く誓っていたのでした。

ところが、稚内でもこのとき20度前後ありまして、そんなに固い誓いを立てる必要性全くありませんでした。

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写真:今は亡き「白坊主」

札幌を出発した普通列車は予定通り旭川駅へ。その直後に特急オホーツクが現れました。このときは一眼持ってませんでしたのでポケットサイズのコンデジしか持っておりませんでした。写真はキハ183系の先頭車でも「白坊主」と呼ばれる有名なものでしたが、後にも先にも公開できるのはこの時のカットだけになってしまいました。

今思えば、もう少し早くカメラは手にしておくべきでしたね。自分はへたくそに違いないという考えで持たなかったのですが、後で手にしてみると下手くそなりの「発見」というものがありまして。下手でも勉強すれば少しは変わる可能性があるのですから。

やはり、こういう場面では、別にプロになるわけでもないのですから、「できるか/できないか」ではなく、「試してみたいか/試してみたいとも思わないか」が肝心だと思うのです。ぼくにとっては当たり前のことを再認識できただけでも「学びの機会」でした。

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画像:宗谷本線の車窓 民家が遠くまで見渡さないとない。


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画像:音威子府の駅そば 今は簡単に食べられなくなった。

さて、宗谷本線ではのどかな時間が流れます。2016年3月の減便ダイヤになる前でしたので、なおのどかでした。途中の音威子府では普通列車がこのとき20分弱停車し、その間に有名な駅そばを食べる時間がありました。いまは、停車中に食べることはできないダイヤになってしまっています。また営業時間が短縮になったという話も聞こえてきます。

ここで少し腹ごしらえをして、稚内まであと一息(といっても音威子府発が投じ13:55なので3時間くらいあるんですけど)頑張るといった感じでした。もう一度食べに行きたいんですよね。


宗谷岬

スタート前夜、宗谷岬へ。誰もいませんでした。稚内についてからでしたから、闇に沈んでいく北に広がる海をぼんやりと眺めていました。やがて、野生動物が出没しまして、さすがだなあと思いました。もうそういうの出るのわかってましたからそれ以上の感慨は特にありませんでしたが。

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画像:宗谷岬 コンデジはNikon製。色のバランスがやっぱりNikonか?

今Nikonの一眼レフ使ってますが、サブ機以前メイン機材にしていたCannonの一眼レフとは色合いが違うんですよね。そのさらに前にNikonのコンデジ使ってました。なんとなーく色のバランスが似ているような気もします。

南稚内に戻り、投宿しました。まあ軽く書きましたけどバスで30~40分かかるんですよね。地味に遠い。そこで、25日に稚内駅からスタートするために2.5キロほど歩くことを宿の人にお伝えしたのですが、

「南稚内から乗ればいいだろ。なんで稚内までわざわざいくのだ?」と返され、お答えするも全くご理解いただけませんでした。

うん、最長片道切符だから稚内駅からやらないとなんの意味もないんですよ。でも、それは鉄道ファンにしかわからないことなのでしょうか?いやなんか趣味(職人としての仕事もそうかもしれませんが)にのめりこんでいる方々ならわかってくださると思いたいのですけれど。

音楽とかでも、途中から演奏しないでしょう普通。最初から演奏することでひとつの曲として示されます。夏の風物詩の花火だって手順通り最初からやらなければ打ちあがるはずがないのですから。

翌朝は6:04スタート。時計はもう夜9時をまわっていました。6時前に稚内駅に着くには、5時半には出発。つまり5時前後には起きなければいけません。初日から睡眠不足気味なりそうだなあと思いつつ眠りました。まあ、本州に入ってからは本当に寝不足との戦いになったんですけれども。


霧の中

翌朝ぼくは、時間通りにホテルを後にしましたが、外に出た瞬間から霧がかかっていまして、通りの向こうがいまいちはっきりと見えませんでした。まあ、夏の北海道なんで日の出は早いですから明るいんですけれどね。

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まあこのお写真の通り、歩くんですよ、とにかくひたすらもっぱら。30分弱で到着です。人通りはご覧の通りなんですけれど。

ともかくスタートラインには立てました。もちろん、見送りはありません。最後まで走り切れるのか?予算もそうですが、体力やアクシデントの有無そういった不安はつきません。起きたら自分で判断できないと大変なことになります。その不安を聞いてくれる相手もいません。話すこともできません。

なんといっても、当時はSNSのアカウントをほぼ持っていませんでした。ほんとうに最初から最後まで自力で歩くしかなかったんです。

自分で計画しておきながら、やっぱり直前になると怖くなります。1ヶ月は丸々かかるわけですから。自分にとっては未踏の域に踏み出すわけですから。それまでの最長は10日ちょっと。10日かけても全体の3分の1終わらないわけです。


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画像:稚内駅の改札前 6:04のスタート時刻が近づいている

確かに怖いと思った瞬間はありましたが、稚内駅の改札口へ踏み出す一歩には躊躇はありませんでした。むしろ当時のリアルの状況からすれば、ここで一歩を踏み出したかったのかもしれません(詳細は割愛しますが前年までに大きな挫折を抱えていました)。

写真で振り返ると、午前5時40分には駅についていたみたいですね。

ここから10995キロの長い旅が始まりました。 (つづく)

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