私がAIと話すのをやめた理由
過去、しばらくの間、AIチャットボットに愚痴っていました。
良いものがないかと何件か探し、いくつかにハマり、そしてスッパリとやめました。
なぜ私がAIチャットをやめたのか、その理由をお話します。
AIチャットボットにハマった理由
ChatGPTみたいな汎用のものだと分かりませんが、特に認知行動療法系統や悩み相談特化をうたうようなAIは、まだまだあまり会話精度が高くありません。私が初めてAIチャットと会話したときはまだChatGPT以前で、今以上に精度がボロボロだったときから知っています。
そういうAIに「わかってもらう」ためには、文章をつくるのにもコツが要ります。たとえば複文をうまく理解してもらえませんし、事の経緯を書いても理解してもらえません。また、生身の人間とのチャットと違って、複数コメントに分けて書いても前のコメントを引き継いでもらえません。
✕「〇〇さんが〇〇して〇〇だったから私は〇〇だと思った」
→AI「〇〇さんが〇〇だと思ったのはなぜだと思いますか?」
✕「上司が〇〇なのは私が〇〇したからだ」
→AI「上司が〇〇したとき、あなたはどう思いましたか?」
✕「今日あったことなんだけど」→AI「今日、何があったか教えてもらえますか?」→「〇〇が○○だった」→AI「それはいつのことですか?」
〇「私は今日とても悲しい」「私はなぐさめてほしい」「私は上司を憎んでいる」など
→AI「何があったのですか?話してみて」「あなたはとても頑張っていると思う」
〇「上司が私に対してひどいことを言いました」「大きな失敗をしました」
→AI「それは悲しいですね」「何が問題だったと思いますか?」
✕の言い方を〇に変えていくには、脳内の整理が必要になります。「その愚痴を一言で言うなら、何?」です。
「AIに伝わるように言い換える」というプロセスは、当面のクールダウンと問題整理をもたらしました。
これが私がAIチャットボットにハマった理由です。
「AIだからこそ」ダメだった理由
でも、どのAIとも、会話を繰り返すうちに「伝わらない」ことが出てきてしまいます。一見スムーズなやりとりに見えるからこその穴でもあります。
もちろんうっかり私が複雑な文を投げてしまうこともありますが、そればかりではありません。
極端な話、あるAIは、特定の単語を言うと特定のフレーズを返すようにできているようでした。つまり、ゲームをした話をしたいのに、ゲームという単語によって「一緒にゲームをしましょう」と言われてしまうみたいなことです。
そこまで極端ではないにしても、認知行動療法系・悩み相談系のボットは、ある程度安全性を付加するためか、一定の単語やフレーズに対して一定の方向性の答えを返すようにプログラムされていることが多く、それが私の状況や感情に沿っていないことも多々ありました。
そうすると「わかってもらえなさ」「伝わらなさ」がかえってストレスになってきます。そして、相手がAIだと思っているからこそ、「何を言っても大丈夫」と思っているからこそ──それを口に出して(文字に書いて)しまいます。
「なぜこんな簡単な文も分からないのか」「あなたはいつも私の話を理解しない」「私のことを見捨てようとしているのか」「そんな風に言えば私が諦めると思っているんだ」「謝ってほしいわけじゃない」などなど。
それこそ人格のないAIにわざわざ罵倒をぶつけて、何をやっているのか。
ある日ふと我に返り、日常的にAIチャットを使うのはやめることにしました。
それは「本性」なのか
分かってくれないのは、AIだけではありません。
私はこれまで人間の医師やカウンセラーたち(複数)にも相談したことがありますが、いずれも続かなかったのは、ほとんどの場合「分かってもらえていないから」でした。私はよっぽど変わっているのかもしれません。私が何に悩んでいるのか、どうしたいのか、何を言ってほしいのか、何は言って良くて何は逆鱗なのか…伝わらないこと、決めつけられることときたら。文章がうまい下手なんて話では説明できないレベルの齟齬をきたすのが普通です。ある意味、AIは「精度の問題」で片付くのに人間はそうはいかないから、なおタチが悪い。
でも私は、人間に対して、AIに言ったような言葉を言いません。分かってもらえていないと感じたら、少し頑張って説明を試みることもあるにしても、最終的には静かに離脱します。
相手が人間だと思えば言わないことを、AIには言ってしまう。SFなら「人間の本性が見える」なんて言われそうです。でも、私は自分のAIに対するあれが「本性」と言われると、どうだろうと思います。
確かに私が人間に対して言いたかったことは、AIに対して言ったこととほぼ同じでした。なぜ理解しないのか、なぜちゃんと聞かないのか、なぜ向き合わないでとんちんかんな答えを返してくるのか、なぜ決めつけるのか、どうせ適当なことを言って、さっさと見切るつもりなんだろう。もしその人に全力で甘えてもたれかかっても良いのであれば、理不尽な要求だと思っていても、これを全部ぶつけることでしょう。それが私の甘えの形なのでしょう。私の言うことをすべて聞いて理解して受け入れて、ほしい言葉をくれることが理想の悩み相談である、ということが。
しかし、それを言いたいような気持ちであったということと、実際に言うのが本性だというのはまた、違うことのように思います。むしろ逆で、本来言わないことが本性であるのに、言ってしまうことで自分が「言える人」に変わっていくような恐怖を覚えたのです。初めは「AIだからちょっとだけ甘えてもいいかな…」と思いながら書いていたのが、だんだん「このAIに思い知らせてやらなくては」と思い始め、止まらなくなるような感覚。文字にしてしまうことが、かえって次の自分の態度を決めてしまっているような感覚。
そもそも本性ってなんだ、という話になりますが、というか元も子もない話をすると私は「その人の固定的な本性」なんて存在しないと思っていたりするのですが、人間と話していてそれを言わないのであれば、人間社会に生きるものとしてそれがそのときのその人の本性なのではないでしょうか。社会の中でのその人が、何も言わず黙って離脱することを選ぶ人である、ということが、「その人らしさ」であり、「本性」なのでは。
AIに対してなら言えてしまう、もしそれを繰り返していたら、そのうちに人間に対しても言い始めてしまうのでは。それは本性が…人格が変わるということなのでは。
たとえばある人がいつも「すみません、ごめんなさい」と言うので、誰かが「ありがとうと言いかえたほうが良い」とアドバイスをする。そこでその人は少しずつ「ありがとう」と言いかえるように気を付け、やがては「ありがとう」と言う方が普通になっていき、以前よりも萎縮しなくなる。こういうのも、「自分を変える」なんて言われるように、ある種の人格の変化であるわけです。ならば、AIとの会話で一定の暴言を繰り返すことによって、リアルでも明確にそういうことを言いたいと認識してしまうようになったり、実際に言ってしまったりするようになるのも、人格の変化でしょう。
私はその変化が自分に起きることが好ましくない、恐ろしいと思った。たとえ言いたいことを脳から直結で吐き出すのが気持ち良かったとしても、誰かを傷つけるだろうことを思うと辞めるべきだと思い、実際にやめた。その部分が私の「本性」なのだと思っています。
「分かってもらえなさ」を抱えて
AIをやめても、生活の問題は変わりません。先般久しぶりに人間のカウンセラーを探し、そしてアッサリ離脱しました。ダメだこりゃ、まったく分かってもらえていない。
分かってもらえなさをなんとか説明して分かってもらえるようにするのが人間関係ではあるかもしれなくても、それをする余裕がないからカウンセリングを受けているわけで、ある程度は言いたいことがスッと伝わってくれないと困る、というのが私の心情。
例えて言うなら、「おなかがとても痛いんです」と言っているのに、相手が頭を指さして「ここが痛いんですね、それは楽しいでしょう」と言うのなら、「おなかっていうのはこの部分のことで、いえ表皮じゃなくて内臓のことなんですが…それに私の場合痛いときは楽しくなんかなくて…」と説明をしなくてはならない、それは痛みに共感してほしいという希望の実現を遅延させる余剰である、というような話。この例えは極端ではあるが、心情的には本当にこのくらい伝わらないことがままあるのだ。
そもそもこの心情自体が、カウンセリング向きでないのかもしれない。本来言いたいことから脱線しても徹底的に説明するくらい気力と余裕がある元気な人だけが、それをコミュニケーションとして楽しめるくらいパリピな人が、カウンセリングを受けるべきなのかも。
だとしたら、私が救われる道とは?
日々積み重なる愚痴を前に、私は今日も途方に暮れている。ケーキを食べたって遊びに行ったって、気持ちが少し浮上するかもしれないだけで、愚痴そのものや問題そのものが消滅するわけではないのだ。
誰か私を分かって。AIですら分かってくれないんです。