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透明日記「夜にマンションが飛ぶ」 2024/08/15

マンションは五階。夜の廊下で一人、しゃがみ、タバコを吸う。すこやかな、寝息のような風が吹く。目の前に、街の風景を遮る腰壁が広がっている。

ぼうっとしていると、腰壁は存在を主張しはじめ、だんだんと見る目にうるさくなり、焦点を独り占めにした。腰壁の向こう側がないように感じられ、街の風景は感覚からも記憶からも遠ざかり、廊下と夜空だけの空間に自分がいるような気がする。腰壁から目が離れない。

ぼんやりとタバコを吸い、目の前の腰壁を眺める。見えないはずの腰壁の厚みが奥行きとなり、奥行きが、どこまでも続いているように感じられる。確固とした大規模な立体の一側面として、腰壁が存在している。

腰壁はさながら、夜空に浮遊する巨大なコンクリートのようだ。その端にマンションがくっつき、廊下のぼくはマンションとともに、どこかへと運ばれている。巨大な腰壁の推進力で、マンションは夜を飛ぶらしい。肌をさらう風が、どこかさびしく感じられた。

しばらくすると、腰壁の奥行きが気になる。どこまでも続くであろう腰壁の奥行きは、どこまで続いているのだろうか。夜空の彼方まで続くような気がする。どんなものかと思うけれど、立ち上がって見るほどでもないような気がするので、浮遊するマンションの廊下で、ただただタバコをふかしていた。暗い夜の闇から、牙を剥くような猫の鳴き声が聞こえる。

猫の鳴き声は、巨大なコンクリートとなった腰壁の、夜が染みてつるつるとした上っ面を、どこまでも滑っていくように思われた。普段は手のひらを広げた程度の厚みしかない腰壁が、雄大な風景を湛えているようだった。

夜空に広がる巨大な平面を一目見たい。どこまでも続く腰壁と夜空と、わずかばかりの廊下の世界。無意識にタバコに火を点けているのか、タバコは吸い終わることがなく、いつまでも立ち上がるきっかけが生まれない。腰壁に牽かれるように浮遊するマンションの廊下で、夜を過ごした。

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