透明日記「無能の人が好きだった」 2024/07/06
太陽が躁病だったので、ぼくは散歩を諦めた。外は焼け石で、少し歩くだけでも修行のようだ。
近年、いよいよ太陽はその本性を露わにし、ちょくちょくダークサイドに出かけては人類に修行を与えるという謎の運動をやめる気配がない。
修行をするぐらいなら、トルコ語でもフィリピン語でも、なんでもいいから語学とかをやりたいような気分になる。夏やし、スカーっと、語学とか、やりたい。と。
それぐらい暑い。散歩に出れない。ぼくの一日を滅ぼすのは、ミサイルでも宇宙人でもなく、頭上に輝く太陽だった。
きょう、昨日の日記を書いていた。言葉が滑って日記にならなかった。太陽に指が焼かれた。指は、縮れ毛のように黒々として捻じれ、焦げた臭いを出していた。
昨日は飲みに出かけていた。ここ半年ぐらいはあんまり人に会う気にならなかったが、最近は徐々に人と会うようになってきている。
電車に乗らない日が続くと、電車に乗れないような気持ちになって、どこにも出かけられる気がしない感じになって、近所の川辺で散歩ばかりしていたが、電車に慣れて、自分がどこに行ってもいいような気持ちになってきている。
それで、ちょこちょこ人と会う。人と会うと、大概の人は仕事なりなんなり、なんらかの用事を持っているということに驚く。すると、自分はなぜ用事も持たず、のうのうと日々を送っているのかと、自問させられる。
なんでやろなあと考えてみると、気付いた。つげ義春の『無能の人』だ。無能の人ばかり出てくる、哀しい寂しい、笑える漫画。ぼくはこの漫画が大好きで、大好きだから影響を受けすぎている。
「石を売る人」という短編なんかには、川辺で拾った石を売る漫画家が出てくる。元手ゼロ円で商売をやり始める。石は全然売れない。お金がない。妻にマンガを描けと嘆かれる。どうしようもない人だ。確かに無能だ。
でも、その無能がぼくには輝いて見える。なぜか無能に憧れている。何をしているのかよく分からない人が好きなのかもしれない。
思えば昔から、競艇と釣りばかりしていた父、父の友達の浮浪者、売れない芸術家の伯父、絵は上手いが下手な釣りばかりしている無職、間抜けな顔でそのままアホな友達、授業中は歴史小説を読むか寝るかの同級生、など、まともなところが少ないような人が好きだった。
気付いたら、ぼくは無職で、平日の昼間に一人、太陽に照らされて、植物園のコイをつついて遊んでいる。つげ義春の漫画に出かねない。どうも、いいことではないように思うが、無能の人に近づいているらしい。
いろいろ本や漫画を読んできたはずだが、影響という点で、『無能の人』に勝るものはない。ここのところに思い至って、今日は『無能の人』を読み返していた。碌でもないが、愛おしい。
文庫版を買って、常に持ち歩くのもいいかもしれないとか思った。
夕方、古本屋に文庫版を探しに行ったが、見当たらなかった。他の漫画や本をいくつか買って持って帰る。野坂昭如、近藤ようこ、岡崎京子、上野顕太郎、上村一夫。あんまり知らない作家の漫画を買い込んだ。
全部で七冊あったので、少し重い。漫画をぶら下げて歩道をとぼとぼ。夕方はまだまだ明るく、まだまだ暑かった。過ぎ去る車の騒音が、余計に辺りを暑くして、なんだか帰れなくてもいいような気持ちになった。