得意の文章でしたためる
以前は書くことが好きだったのになあ、というはなし。
もともと社交性が低い子供だったわたしは、今日の出来事を親に話す代わりにブログに書いていた。
学校のこと、好きな音楽の感想、心の内のこと。
書くのは好きだったけど読まれるのは恥ずかしくって、アカウントをリアルの友達には教えず、ネットのなかで知り合った数人とだけ関わっていた。
中学生~高校生の頃はそうやってネットの世界で楽しく生活していた。
ネットなら文字ベースだからテンポ無視して絡みにいったり、エアリプ的な交流をしたり、社交性が低くても居場所があった。
コメントが来なくてもいつも読んでくれる人がいて、あんしんしていた。
ツイッターが日本に入ってきて、徐々にみんなブログからそっちに移行した。
短文が流れる世界も最初は同じネットの空気が漂っていた。
趣味が同じってだけで相互フォローになってたまにリプを送ると必ず返ってくるし、私にもリプがくる。
ふぁぼはあくまでお気に入りで、個人的なもので、気に入られたら嬉しいけど媚びるものではなかった。
知名度のない私たちにはつかないことが普通だった。
シャイな人の集だったのかもしれない。挨拶をすれば挨拶が返ってくるけど、ながなが話をしたりはしない。
ゆるい環境は羞恥心を溶かして、本当に素直なことばが書けた。
わたしは今も変わっていない。
起きたこと、思ったこと、別に面白くなくても綴りたい。
読まれるためじゃなくて、書くために書かれる言葉を読んでいたい。
なのに気づいたらSNSと呼ばれて、発信のツールになってしまった。
読まれたい文章のなかで、読まれないことを書くのは恥ずかしい。
いいねも殆ど付かず、リプライもほぼ来ないし送らない。そんな昔と変わるないアカウントは、リアルのわたしを彷彿させる。
おしゃべりが、苦手なんだ。
寡黙だけどストレスはたまる。
それを吐き出す場所としてのネットの世界が、正しいことを言う場になってしまったのは何故だろう。
どうせ私の言葉なんか見ていないんだけど、燃えることも燃やされないこともなんだか疎外感を感じて居心地が悪い。
わたしがいるべき場所ではない気がする。
わたしのほうがむかしからいたのにね。
こうしてツイート数が減りました。
インスタは、誰も見てないからたまに書くけど、
見られてないことがそのまま関心を持たれてないことに繋がって、なんとなく寂しくなります。
大勢に見られたいわけでもないけど。
書くことがつまらなくなっちゃった。
書くのをやめたら余計に文章が下手になった。
簡潔に何かを伝えるのがとっても難しい。
似た言葉の中から適切なものを探そうとするんだけど、良い木を選んでも森全体でみると統一感がない、そんな感じになってしまって、本質が伝わらない。
挙げ句、得意の文章にしてみれば?などとあおられる始末。
悪意があったのかはわからないけどね。
得意の文章に~というワードにひどく傷ついてしまったので、それについて書いたのが今回というわけです。ほら、長いのに言いたいことがまるで分からない。