まだライ麦畑にいんの?
今更、ライ麦畑でつかまえて を読んだ。
気になったのは二二歳くらいの時で、きっかけは攻殻機動隊と好きだった人。
その少しあとにライ麦畑の反逆児も公開された。
当時は高騰していたのに、ふと見たら数百円になっていたので。
読みながら、終始イライラしていた。誇張と懐旧と言い訳を含みながら厭世をまくしたてる主人公ホールデンの口調に。
幼い。もうこんな所にわたしはいない。恥ずかしい。
黒歴史を掘り起こされたような気分。
しかし、どうもこの語りは脳にしっくりと馴染む。
それが気持ち悪て、読むのが遅くなった。
読み途中のある日、仕事帰り。
このところ気持ちが沈んでおり、イヤホンで音楽を聴くことすらするきにならず、ぼんやり考え事をしながらだらだら歩いていた。
どうしてみんなこう難がある人たちなのか、難があるといってもあの知り合いみたいな人だったら気持ちが良いのに、あのときだってあんなにたのしかった、でもここの人たちはとてもそうはならないと分かるくらい嫌だな…
…ん?この感じもしかして。
ホールデンの語りと同じ性質なのでは?
ホールデンは16歳。
子供の純粋さを、失いつつ求め、インチキを嫌いながらそれに染まっていく。純粋な正義を理解してもらえない孤独を感じている青年。
わたしは26歳。
小さい頃から周りと馴染めず、理解してもらえない孤独を未だに感じている成人。
どおりで、むず痒くも馴染みがあるわけだ。
ホールデンは、学校を飛び出してから沢山の人に会う。
ずっと、話を聞いてもらいたいのに、説教されたり、自分からふいにしたり、相手にされなかったりする。カウンセリング相手を探しているようにも思える行動は、妹にたどり着いて落ち着き、最終的にはサナトリウム。
読み終えたとき、「君」に向けて語っているホールデンが「治って」いなくてほっとした。
あのときはどうかしていたと語りながらも、生き生きと大人を批判する姿に、安心した。
どうか、このままでいてほしいとすら思った。
しかし、ホールデンが26歳になったときはどうだろう。
サリンジャーが小屋で近隣の学生と仲良くしていたように、ライ麦畑のキャッチャーになれたのではないだろうか。
16歳で夢を見つけて、進む指標(頭の形を知ること)もあるのだから、10年あれば叶うと思う。
わたしはというと、
ライ麦畑にいる。
崖のそばに立っている。
しかしそれはキャッチャーとしてではなく、まさに、つかまえてほしいから。
そこに崖があるのは知っているし、落ちるほどの勢いも勇気もない。ただ崖を見下ろして、この場所からだれか助けてくれるのを待っている。いや、助けてくれないことに悲しんでいる。
情けない。
これがわたしなのだ、と胸を張って歩くことは、この世の中では厳しい。
とても威張れることではないし、どちらかというと肩を落としてたまに立ち止まるのが、どうやらわたしらしいので。
わたしもサナトリウム、行きたい。