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車輪の唄

わたしはBUMP OF CHICKENの楽曲の中で好きな曲を聞かれたとき、車輪の唄と答えている。

ただ、「好き」よりも「大切」という言葉の方が適しているかもしれないのだが、いつもうまく説明ができない。長くなってしまうからだ。

今日は、車輪の唄がわたしにとって大切な曲になった日と、それにまつわる忘れたくない日々の記憶を、ここに書き残していきたいと思う。

長い、自分語りである。

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2021年2月
大学卒業を目前に控えていたわたしは、卒業展示の後、関東への引越しを終え、田舎の実家へ帰っていた。
わたしの地元は、大学からも引越し後の新居からも、決して近い距離ではなかった。
コロナ禍も終わるのか終わってないのか、またいつ感染拡大するのかも分からない状況の中、卒業後に関東で暮らすようになってしまったら次いつ実家へ帰れるかわからないなと、2月半ばから卒業式までの約1ヶ月をゆっくり実家で過ごすことにした。

特に何をしたわけでもない。
地元で会いたい友達は片手に収まる程度しかおらず、顔を合わすには1~2日で事足りた。
そのためわたしは、この期間ほぼ毎日、実家にいたのだった。

昼夜問わず、2匹の愛猫とゴロゴロして、たまに追いかけっこをして遊んだ。

専業主婦の母とは一緒にテレビを見、夕方には一緒にスーパーへ買い物に行き、週1回の『ママさんバドミントン』にも同行させてもらったりした。

妹は当時高校生だったので、学校から帰ると自室で勉強をしていた。わたしはその隣で本を読んだり、喋りかけて邪魔をしたり、土日は一緒に庭にやってくる鳥を眺めて写真を撮ったりした。

わが家は、父も自宅で仕事をしていた。
というより、父の職場に我々も住んでいた、という方が正しい。
父は自室にこもって、毎日のように書き仕事をしていた。猫たちは、西日が差して暖かいその部屋がお気に入りで、よく父のパソコン前や膝の上に寝転んでいた。

夕刻  父の部屋


この帰省時に父と特段何をしたという記憶はないが、小学生の頃にはこの部屋で、父からパソコンの操作を教わりながら時間割表を作って印刷してみたり、父のようになりたくてキーボードのブラインドタッチや早打ちを練習してみたり、父が趣味で買っていたドラムを見様見真似で叩くことがあったりした。

読書感想文や文集の文章を考える時、入試前の面接練習なんかのときも、わたしはこの部屋に来ていた。父は文章を書くことや説明をすることが仕事だったので、それらの添削を頼むことが多かった。
わたしがこんな風に文章を書くことが好きなのも、そのおかげかもしれない。

上手い例えが出てきた気はしないが、わたしはわりと父の好きなものには興味があったし、父の言うことが正しいと信じていたし、父から教わったことや影響を受けてきたことが比較的多い娘だったように思う。


そんな父に病気が見つかったのは2017年、わたしが大学1年生のとき。夏の少し前のことだった。

間質性肺炎というもので、肺がどんどん繊維状になっていき、最終的には呼吸機能がなくなってしまうという。
完治するには肺の移植を受ける他に方法はなく、父にできることはただ、進行を遅らせるための薬を服用することのみ。
治療法のない、難病であった。
病名を聞いてすぐさま調べると、寿命は長くて5年ほど、と出てくる。しかし、実感はなかった。父はまだ若いし治療に耐える体力もある。きっといつか治る。心のどこかでそう思っていた。

病が発覚してからというもの、父はほぼ毎晩、夕食後にパルスオキシメーターで血中酸素を測り、家族に報告していた。
そして2021年2月、この度の帰省中も変わらず父は薬を飲み、血中酸素濃度を測っていた。
「階段の昇り降りが苦しい」とか「肺をいたわるためになるべく毎日掃除機をかけたいけど、持って歩くのが重くて、しんどいんだ」とか言うようになっていた。
そんな父の血中酸素濃度は、この頃にはもう92とかだった。
調べてもらえたらわかると思うが、この時点で、軽度の呼吸困難であった。

3月上旬、わたしの帰省期間もあとわずかに迫った頃。父は、定期検査のため病院へ行った。

昼過ぎ、薬袋を持った父が帰ってくる。
リビングの窓から見えた父の背中は丸く、心做しか影も濃く見えた。
(あ、結果、良くなかったんだな)と悟った。

3月10日  記録用に書いていたわたしのストーリーズ

在宅酸素(文字通り、酸素ボンベと暮らすこと。365日24時間着用しなくてはならなくなる)を医師から提案されたと父は言う。

家族皆で「やばい、いよいよかも」と覚悟した夜だった。

実は、父の父(わたしの祖父にあたる)も、同じ病で亡くなっていた。つまり父は遺伝性のものだろうと思われる。
祖父は、父より高齢のときにこの病が発覚していたので年齢の影響もあったと思うが、酸素ボンベを持ち歩くようになってから最期までが、あっという間だった。この前まで一緒に外出できてたのにな…というあの呆気にとられた感覚を、今でもよく覚えている。

そしてわたしはこの日から、大きな不安に飲み込まれた。

もうすぐこの地を離れてしまうこと。
家族の傍から、父の傍から、離れてしまうこと。
関東へ向かうこと。
仕事を始めること。
大学を卒業することまでも。
すべてが、不安になってしまったのだ。

次いつ、ここへ来れるかもわからない。

あと何度父に会えるか、わからない。

なのにわたし、数日後にはここを離れなくちゃいけないのか……。

脳内でこれらが言葉になった時、心臓が小さく震えた。

しかし時間は止まらない。
3月13日、卒業式のためわたしは実家を出た。

空港へ送ってくれるのはいつも母だった。

別れ際、保安検査場の前で母が「写真、撮っとこうか」と言う。旅行時なんかにはひたすら写真を撮って残したがる母だったが、たった1度の別れ際にそんなことを言われたのは初めてだった。

実際の写真  母の不慣れな自撮り

この日のわたしの不安を、母も感じとっていたのかもしれない。いや、もしかしたら、母も不安だったのかもしれない。
この日以来、母とわたしはバイバイする度にツーショットを撮るようになった。

搭乗口をまたぎ、予約してあった席について窓の外を眺めながら、鼻の奥がツンとして痛いことに気づく。
涙が、出てこようとしていた。

落ち着こう、気を紛らわせよう、好きなものを見よう、と、慌ててNetflixを立ち上げる。

【続きを見る】の欄に、『BUMP OF CHICKEN TOUR 2019 aurora ark TOKYO DOME』がある。

再生する。

このとき耳の中に広がったのが、車輪の唄だった。

我慢していたはずの涙は、もう止まらなかった。


さっきまで明るく、「僕」の自転車の後ろではしゃいでいた「君」との、別れの朝の歌。

この曲の中にいる「君」は、紛れもなくわたしだった。

おととい買った 大きな鞄
改札に引っ掛けて通れずに 君は僕を見た

目は合わせないで 頷いて
頑なに引っ掛かる 鞄の紐を 僕の手が外した

響くベルが最後を告げる 君だけのドアが開く
何万歩より距離のある一歩 踏み出して君は言う

「約束だよ 必ず いつの日かまた会おう」
応えられず 俯いたまま 僕は手を振ったよ

間違いじゃない あの時 君は…

https://www.uta-net.com/song/20232/

わたしが鞄いっぱいに詰めた不安も、ついさっきまで改札にひっかかっていた。ここにいたい、まだ行きたくないと。
そしてその不安を自ら取り除くことが、外すことが、できなかった。

卒業式が手招きするので、母は、わたしの改札にひっかかったまま鞄を外し、笑ってわたしを送り出した。わたしは不安という名の大きな鞄を持ったまま、飛行機へ乗った。

家族と離れる。
この土地から離れる。
『大学』というひとつの居場所を失いに行く。
もう今後、二度と会えないかもしれない友人たちに会いに行く。
これが終われば、自分ひとりで、新たな場所での生活を始めなければならない。
自分で稼いだ金で、ひとりの力で生きていかなくてはならない。

こんなに怖いことはなかった。

ただ羽田空港へ向かうだけのこの飛行機が、わたしが想像するよりももっと、もっと、遥か遠くまで連れてってしまうんじゃないかと思えてならなかった。
ここにある全部の宝物とわたしとを引き離すためのフライトのようにも思えて、どこか憎く、悔しくもあった。

母は、今頃わたしが飛行機の中でこんなことになってるなんて、想像しただろうか。思ってもみないだろうな。
別れ際、わたしが泣きそうだったの、バレてたかな、だとしたら本当にこの曲の『僕』は母になるな、なんて思いながら、ハンカチを手に、人目もはばからず目を押さえズビズビと鼻をすすっていた。まだ離陸前のことだった。

この時の胸の痛みと悔しさを、わたしは未だ、車輪の唄を聞く度に思い出す。
それこそが、この曲がわたしにとって"大切"で"特別"な理由だった。

この日のことを思い出したいわけじゃない。
ただ、ずっと忘れたくはない。

この日のわたしの気持ちは、車輪の唄のそばにいる。この曲の中の「僕」と「君」が、あの日のわたしに寄り添ってくれる。藤くんのあたたかい声も。4人から生まれる優しい音も。
この曲が生きている限り、わたしはこの日の思いを忘れないでいられる。だから、ずっと、大切なのだ。



「約束だよ 必ず いつの日かまた会おう」

わたしは飛行機に揺られながら、心の中で何度も大切に反芻した。

元気な父にまた会えますように、この言葉通りになりますように、と祈りながら。

この祈りは、どうやら無事に届いた。

わたしは父に、もう一度会えた。


ただ、もう一度だけ、だった。

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2021年夏
社会人になって数ヶ月、やっと仕事に慣れてきた頃。
こんな半人前が4~5連休を申請するには勇気がなく、なによりまだ感染が広がりつつあったコロナウイルスを万が一実家に持って帰ってしまったらと思うと怖くなり、帰省を諦めた。
父は、わたしが卒業式を終えた頃、3月の末から、酸素ボンベと生活していた。

秋から冬に向けて寒さが増していくと同時に、父の体は悪化が進み、気づけば階段を昇り降りすることも、まともな食事を摂ることもできなくなっていった。
そしてこの頃、母からは頻繁に電話が入るようになり、その日父ができたこと、できなかったことを毎晩のように知らせてくれた。時々電話の向こうで涙ながらに不安を吐露する母を必死に慰めた日もあった。そんな日は電話を切ったのち、母から吸い取った不安を吐き出すように、わたしもボロボロと泣いた。

わたしの妹はこの年の冬に大学受験を控えていた。
「父親がこんな状態なのに、あの子は受験に専念できるだろうか」「こんな大事な局面の2人を、わたしひとりで支えられるだろうか」と母が嘆くのも無理はなかった。
わたしはついに「こんなところにいちゃいけない、帰らなきゃ…!」と思い立ち、翌年1月から休職し実家に帰ることを決めた。上司にも事情を説明し快諾を得て、必要書類などの準備を進めていた。11月半ばのことだった。

2021年12月
父は入院をした。
肺移植をするための前準備として他に不調な臓器がないかを検査をするため、という理由での入院だったが、この諸々の検査の最中に父は急性増悪を起こし、本格的に動けなくなってしまった。

その知らせとともに母から「あんたたちの顔見たら少しは元気出るだろうから、帰ってきて父さんのこと励ましてあげてくれん?」と提案され、わたしはその日のうちに休暇を申請した。
会社は事情を知っていたこともあり、迅速に4連休を与えてくれた。
その4連休の2日目にあたる12月7日、わたしは父と面会の予約を取った。(コロナ禍だったため面会には予約必須、1回2時間のみで、陰性証明書の提示が求められていた。)
久々に会う父がどんな姿なのか想像すると怖く、正直上手く話せる自信もなかったので、その日は妹も同席してくれることになった。14時からの予定だった。


そして迎えた12月7日。

約束通り、父と会うことが叶った。

しかしそれは面会予定だった14時より、何時間も早かった。

早朝、何時だったか覚えていない。
まだ空が暗い時間に、電話の子機を握ったままの兄に叩き起こされる。

病院へ着くと、陰性証明書を受付へ差し出す間もなく看護師に駆け足で誘導され病室へ、家族全員が招き入れられた。

ベッドに横たわる父の顔の前で大きく手を振りながら「父さん、ひかりだよ!わかるー?」と聞くと、父はゆっくり2度、頷いた。
その目はもう、ほとんど開いていなかった。
何か言いたげに口が動いていたけど、声も、聞こえなかった。

わたしはそれから、自分が何を話したか覚えていない。おそらく、ほとんど何も話していない。
父が頷いてくれたことがただただ嬉しくて、言いたかったはずのことはすべて心の内側に流れ落ちていた。

正直、この病室に入るまで、もう父に会えないかもしれないと思っていた。
怖かった。
あのとき飛行機で思ったこの土地を離れることへの悔しさが、この先 一生続く後悔になってしまうかもしれない、と思っていた。

でもこの瞬間、あのとき歌われた約束を、わたしは果たすことができたのだ。


空が明るんだ頃、父とわたしたちはお別れをした。


父を囲み、家族皆涙を流しながら、誰かは嗚咽しながら、口々にありがとう、と言った。

わたしは涙が出なかった。

この日、父に会えたこと、
言葉はなかったけど、会話ができたこと、
なにより、家族みんなで看取れたこと。

これ以上の最期はない、という思いがわたしの中をひたすらめぐっていた。
不思議と後悔はなく、"ちゃんとお別れできた"ということへの安堵が大きかった。

兄もわたしもそれぞれ違う土地で生活していたのに、この時だけは父と面会するべく、家族全員が揃っていた。
もしわたしが関東にいて、突然早朝に呼び出されたとしても、きっとこの瞬間には間に合わなかった。
だから「今でよかった、父ももう何も苦しくないんだ、よかった、ありがとう」と、素直に思えていた。

よく晴れた日だった。


葬儀の日の朝
父の亡骸が寝ていた布団に居座る猫
彼女は父のことが大好きで、よく父の部屋にいた


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2024年12月7日

あれから3年が経つ。

街がクリスマスの支度を始める頃になると、3年前に感じていた"父を失うかもしれない"という不安が思い起こされ、何度も心臓を掠める。これはきっと何年経とうが変わることはない。

1年前のこの日は、父の好きだったラーメンを恋人と食べに行った。

今年のわたしはというと、どうやら東京ドームにいる。

BUMP OF CHICKENに会いに行くのだ。

いつも、"みんな"ではなく、"わたし"に向けて音楽を届けてくれる彼らが、この日、どんな曲を届けてくれるのか。どんな時間を贈ってくれるのか。
今から楽しみで仕方ない。

もしも車輪の唄が歌われたなら、"あの日のわたし" もきっと、わたしのそばまでやって来るだろう。

今年も、忘れたくない12月7日に、なりますように。

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