なぜ撮り鉄は同じ構図で撮りたがるのか
noteの最初の記事で書いたように私は一応撮り鉄である。世間の目が痛いが故に鉄道写真家とでも名乗りたいところではあるが、お金を払ってまで見ていただくような写真など皆無に等しく、独りよがりな趣味として続けている以上「撮り鉄」の域から脱することはできないであろう。
さて、数々の迷惑行為で世間を賑わせているこの界隈であるが、ネットで記事を漁ってもその原因の真髄を突いたような記事が見つからないため、ここに書き記しておこうと思う。
撮り鉄の迷惑行為の動機は紛れもなく「いい写真を撮りたい」に尽きる。では「いい写真」とは何なのか。
ここから先、鉄道写真を全く知らない人に解説するには「編成写真」と「風景写真」の2つの違いについて知っておいてもらわなければならない。なぜならこの2つの写真は全くの別物で、同じ鉄道の撮影でも野球とクリケットレベルで異なるジャンルだからだ。
編成写真とは車両を主題とし、車両をいかに美しく撮影するかを目的とした写真であるのに対し、風景写真とはある鉄道が走っている風景を収める写真である。
今回は編成写真に特化して解説する。というのも、同じ構図で撮影しようとする思考は編成写真の方が大きく働くからである。
恐らく鉄道に興味のない方々にとっては「車両を美しく撮影する」という行為が理解できないであろう。そこで私は編成写真を昆虫採集に例えることにする。こうすることで撮り鉄が何を求めて行動しているのかが分かりやすくなると思う。
例えば昆虫の標本を作るとき、もしその昆虫の羽や触覚が取れて無くなっていたらその標本の価値は大きく下がるだろう、というか標本として見てもらえない可能性がある。他にも、保存状態が悪く変色してしまった、背景の紙が変な柄入りのものでどこに標本があるのかわかりにくい、などでは標本の価値は下がるであろう。
編成写真も同じである。車両が走っている姿を標本のように写し止めるには様々な条件を満たす必要がある。車両の後ろの方が写ってなかったり、ブレていたり、ピントが合っていなかったりしていては編成写真として失格である。
これは編成写真を撮影する際に撮り鉄が気にする要素である。要素というよりは作法に近いかもしれない。これらを全て満たさないといけないわけではないが、このうちの8割は満たしていないと編成写真としての評価は厳しくなる。先程の編成写真の一例もこの要素をほぼ満たしているものを選んだ。
もうお分かりであろう。編成写真とは独創性や芸術性を求めた写真ではないのだ。ある意味ではここまでの作法を守って撮影するところに芸術性があると言える。茶道や生花もそうであるように、まずは作法を忠実に守ることが大切なのである。「みんな同じ構図で創意工夫が見られない」といった指摘はお門違いである。
また、撮り鉄が草刈りをして編成写真を撮ることに対して「草木も自然なんだからそれも風景として取り込んだ方がいい写真だ」と言い出す人がいるが、草刈りの是非は置いておくとしてこの指摘も的外れである。車両の記録をする上で別に周りの風景は車両がスッキリと見えれば何でも良いのだ。撮影する上で邪魔なものは徹底的に排除して撮影に臨むのが極論ではあるが理想である。
断っておくが、私は撮り鉄の迷惑行為ないし犯罪を擁護するつもりはない。ただ、そういった行為を働く人がこのような考えを持っていることは事実である。
ここまで撮り鉄が同じ構図で撮りたがる理由について解説したが、ご理解できたであろうか。私を含め撮り鉄はこのような思考のもと、一箇所に固まって編成写真を撮影しているわけである。ここまで執着するとやはり迷惑行為を働く連中も出てくるのだ。
撮り鉄の思考の真髄が少しでも理解していただけたのであれば幸いである。