服に恋をした話
私は、服のケアとかしたくないし私そういうのできないガサツな女だからと化繊のものばかり買っていた。
そもそも化繊を好き好んで買っていることにも気づかないくらい素材に興味がなかった。
何となく好きだから、別に恋愛もしたいし、友達とも遊んでたいし適当に生きていようと思う反面、そういう目の前の現実を忘れる何かを一瞬くれるのがギャルソンとイッセイだったが、理由がわからないので、服を買った時の高揚感もすぐに忘れた。
11月、ギャルソンがorlandに衣装提供した記事、20awオムとギャルソンのテーマがorlandであったこと、それらは偶然のことだったと素直に語る川久保の言葉を読み、その素直さに私は恋のような、心が揺れ動く感覚に陥った。
服が好きなのではなく、デザイナーの哲学、服が作られる背景に価値を感じるようになった。
彼女の哲学に触れてから、仕事とか、恋愛とか、友達とか、目の前の現実に時間が裂けないくらい本屋に通い、何となく何かを感じたことのあるブランドのデザイナーの本を読み漁った。
まだ浅い、まだ学びきれていないけれど、
彼女、彼等の哲学に触れた今の私が思うのは、
服を買うってのはつまり、自分の哲学を構築することなのだと思う。
自分をより強固なものにするために、私が誰であるかを自分で理解し、他人に示すために服がある。
ヨウジの言葉に、
“服を選ぶことは生活を選ぶことだ"
って言葉がある。
本当に、その通りなのだった。
服を見ればその人がわかる、それはずっと自分の中にあって、だから私は自分が偽物であることにも何となく気づいていて、そういう自分が嫌いだったのだ。
自分が好きになる男はいつも、人と違うファッションをしてる人で、そういう人を好きになるってことは、それはつまり本物に見えたのだ。彼等は知っていけば行くほど本物じゃないと気づくのに、一瞬本物に見えるのはやっぱり私が偽物だったからなのだと思った。見透かす力を持ち合わせていなかったのだ。
だからこそ、これからの自分は、好きだと思えるものを、何かを感じられるものを、信じる哲学に触れられるものを一つ一つ選択していこうと決めた。
そうはいっても信じられるものがない世界で生きていると、答えがわからなくなるものだ。
私は今また、人生の分かれ道にいて、人生の答えはわかっているのに、どちらが正しいのかは決められない。まだまだ、私の哲学は構築しきれていないのだと自分の甘さを再確認した。
"enjoy your self"
自由を手にするために苦しみの中にいるべきなのか、自由にいれる道を選ぶべきなのか、私にはわからない。結局答えは自由に生きる。これに尽きる。どんな形の自由になるのか、いつか自由を経験してみたいものだ。
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