コーチングを始めたきっかけ
私は、10年ほど前からコーチングに興味を持っていたのですが、しっくりくるタイミングが来てはいませんでした。
しかし、もう迷うことはない、と思う出来事がありました。それは父の死でした。
ここからは、当時書いたブログをご紹介します。
2023年2月25日深夜、父が亡くなった。
葬式を終えて1週間後、いとこ(父の弟の娘)の具合が悪かったため、叔母がいとこを連れてお祓いの方に観てもらったそうだ。すると、その方は、「(私の)父がいとこに憑いて来ている。」と言うそうだ。
「えっ、なぜ??」
聞いてみると、どうやら私にメッセージを伝えたいらしい。
そうして、そのメッセージを聞いてみると、どうやら、私の母(父の前妻)に「ありがとう。」と伝えてくれ、と言っているとのこと。
− ある日の仕事中に、突然、叔母から電話があったのでかけ直してみるとこの話。私は、車が走り、人が通る道でその話を聞いた時、一瞬、世界が止まった。周りは日常どおり動いているのに、私だけが止まっているような、まるで映画のような感覚があった。
このなんとも言えない感情を味わいながら、体の底から沸き立つ悦びのような感覚で全身に鳥肌が立つのを感じた。畏怖のような感覚も伴った気がしている。そしてこの瞬間から、見えない世界を100%信じるようになったのだ。
父と母は25年ほど前に離別して以来、一度も会っていない。
私はそのきっかけとなった場面を、今でも新鮮さをもって思い出す。
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ある夜中の3時ごろ、大学生の私は、普段は家に帰りたくなくて友達の家に泊まり込んでいたが、その日はなぜか夜中に帰ってきた。いつもなら鍵は閉まっているはずなので、ベランダからよじ登る。(マンションの1Fだから庭から入れるのだ)
すると、家の中の様子がおかしい。数人の人が家の中にいる。そして、むせび泣く声が聞こえる。
「え?お母さんの声?!」
声の聞こえる母の寝室に行くと、母の友達の女性が2人、母を介抱しているようだ。母は、布団に横たわっている泣いている。
母は、私の様子に気づくと、突然に冷静を保ったように、「あ、あっこ、帰ってきたの?」と言う。
私は訳がわからず、「どうしたの、お母さん?何があったの?」と聞く。
すると、母の友達のひとりが、「お酒を飲みすぎて倒れたのよ。だいぶ飲んでたみたいで。」と。普段からキッチンドリンカーなことは気づいていた。いつもワインを片手に料理を作ってくれていた。
「お母さん、大丈夫?」と聞くと、母は「大丈夫よ。大したことないから、もう遅いから寝なさい。」と気遣ってくれる、いつも通りの気丈で優しい母。
私は不安と混乱で、「なぜ?何が起きたの?お母さんに何が起きたの!?」という疑問で頭の中が埋め尽くされていた。
すると、タイミング悪く(これほどタイミングが悪いと思ったことは人生でないかもしれないほどに)、父が帰ってきた。
父は、「なんだお前は?どうしたんだ?!泣いてるのか?」と大きな声でまくし立てた。
いや、夜中に人が家の中にいるのだから当然の反応と言えば当然なんだけど、そんなに大きな声を立てなくても、、、と思いながらも、父も混乱している様子が手に取るようにわかった。
「⚪︎⚪︎さん達の前でなんだ恥づかしい!どうしたっていうんだ!」と母を責める父。
母は、「うるさい!!」と言って、そこにあったグラスの水を父に掛けた。父はびっくりして怒った。
「なんだ、お前は!?頭がおかしくなったのか?!」と母を罵倒した。
母が父にそんな対応をするのは初めてだった。これまで抑えてきた感情が一気に噴出しているようだった。私はびっくりして動けなかった。
母の友達達もどうすればいいかわからないようだったが、父をなだめていた。
それからもう記憶がない...。
翌日起きると、母がいなかった。忽然といなかった。
それから、父と姉と私の三人の暮らしが始まった。姉は精神的な病を抱えているので、色々大変なのである。
その生活が一気に父に訪れたのだ。
これまで、全てのことを母に押し付け、姉がおかしくなったことも母のせいにし、自分は仕事が忙しいからと、夜中までクライアントと飲み歩き帰ってこない。週末に、母が相談したいと言っても、昼間から野球中継を見ながら、ひとりでラーメンと買ってきたお寿司を食う。おかげさまで私は高校野球やプロ野球中継の音が流れてくると、トラウマのような複雑な感情が湧き立つ。
父はぎこちなく、それらを受け入れざるを得ない生活が始まった。姉と向き合わざるを得ない。私と向き合わざるを得ない。でも私は大学生で、まだ思春期も続いてて、大人に、そして社会に中指立てて生きていたので、ろくに家に帰らなかった。二人がどんな生活を始めたのかはわからない。そんなことに向き合いたくもなかった。でも父は一生懸命、勉強を始めたのだろう。どんな本を読めばいいのか、どんな先生に相談すれば良いのかなど、時々相談を受けた。三人でご飯に行くこともあった。
しばらく時間が経つうちに、母はいわゆる、"蒸発"をしたのだ、とわかった。
そうこうするうちに半年が流れ、ある日の昼前に電話が鳴った。たまたま私が出ると、母だった。私は一気に質問をした。
「どこにいるの?」「大丈夫なの?」「何か必要なものはない?」と。
すると母は、「大丈夫。今ひとりで⚪︎⚪︎のアパートに暮らし始めたの。それまではシェルターにいたの。」と。
何を話したか覚えてないが、私は居場所を突き止めると、すぐに車にトースターや椅子や、必要そうだと思えるものを詰め込んで、彼女のアパートに向かった。母は、私の大好きなパンケーキを作ってくれて、二人で幸せな時間を過ごした。その時も母は、何があったのか、自分の中の気持ちはあまり話さなかったと思う。でもどのように過ごしてきたか、DVなどを受けた女性達をかくまるシェルターというところがあって、そこでみんなでサークルを組んで色々な話をするということを教えてくれた。私は小さな頃からこういう女性達のサークルに母に連れられて参加してきた。女性達がどのような悲しみと怒りを持っているのか、子供ながらに感じ取っていて、サークルがどれほど助けになるかも感覚としてわかっていたので、その話を聞いて安心した。
そして母は、「色々と持ってきてくれてありがとう。重かったのに大変だったでしょう。でもね、お父さんに何も知られたくないから申し訳ないけど全部持って帰って。私は大丈夫だから。」と頑なに受け取らないので、私はまた全てを車に詰め込み、夜中にそーっと家に戻り、全て元通りに戻した。私がやれることはそれくらいのことだったのだけど、母の気持ちは痛いくらいわかったので、「私にできることはやっぱりないんだな。」という少しばかり残念な気持ちを感じていたことを思い出す。父は寝ていたが、きっと気づいていたと思う。でもその後も何も私に聞いてこなかった。
それから1年後、父が音を上げた。「もうやりきれない。もう姉の面倒を見ることはできない。理解できなさすぎて、会社のこともあって、もう俺には無理だ。だから戻ってきてくれ!」と、私を通じて母に訴えた。
母は、「いいわよ。じゃあ、私が戻るから、代わりに出ていって。」の一言。
父はやり直したいと何度も訴えたが、母は頑なに応じることはなかった。
父は二つの選択肢を迫られた。苦渋の選択だっただろうが、父は会社をとった。社員50人ほどを抱える社長として、社員の面倒、仕事の面倒、社会への体裁、家族の面倒、男性性的な方へ責任を取るために、別離を決めた。離婚状はその後、互いに20年も交わさなかったと思うが、この頃以降、二人は一度も会うことなく、父はあの世に逝ったのだ。
ということで、この別れ以降も、父はずっと母と寄りを戻したく、私にいつもキューピッドを頼んでいたが、母は一才耳を貸すことはなかった。彼女にとって父は恐れの対象だったのだ。「お父さん」という言葉を私の口から聞くだけで震え出すほどに恐ろしい存在だったのだ。
なので私はどちらにも気を使いつつ、伝えるべきことは伝え、伝えないほうが良いと判断したものは伝えないで生きてきたが、父から母への「ありがとう」という感謝の言葉は一度も聞いたことがなかった。だから、叔母からこの電話を受け取った時、一瞬、返す言葉を失うほどの歓喜で震えた。普通に聞いたら、「そんな話、本当なの?」と疑うかもしれないけれど、私は、この話は嘘ではないと確信をした。私の中で確実なものとして受け取った。
そして、この話を母に伝えたいと思うと同時に、少しばかりの不安 - 母はまた、「父の話なんて聞きたくない!」と声を荒げるかな、という思いも沸き立ったが、これは絶対に伝えるべきだという使命感を持って母に電話をした。
「お父さんが、『ありがとう。』とお母さんに伝えて欲しいと、⚪︎⚪︎ちゃん(従兄弟の名前)を通じて伝えてくれたよ。」と伝えると、思いもよらない言葉が返ってきた。
「ありがとう!」と。
私はこの時、全身に鳥肌が立ったのを覚えている。
「終わった。」と思った。ようやく私の役目が終わった、と。
心の底から安堵の思いが溢れた。
「本当は悩んだんだけどね。でも結局、お葬式も行けず、これまで拒み続けてきて、後悔の念や悔やみの気持ちに押し倒れそうで。だからその言葉をもらえて私は安心しました。ようやく私の中で何かが終わった気がする。」と、母は伝えてくれた。
私は、「そうなんだね。それはほんとに良かった。私も嬉しいよ!」と言って電話を切った。
こんな壮大な、家族全員そして親戚にまで及ぶ物語が、今のこの一瞬でめくるめいた。感動が一気に体の中を通って宇宙と一体になったようなぞよめきを感じた。
ふと気づくと、道路で電話を片手に超ハッピーな笑顔でいる私。そういえばさっきの電話中に知り合いと会ったな〜と思いながら、満面の笑みでスキップをして、平静を装い、オフィスへ戻った。
このことをしばらく、時間と共に消化している間に起こった感情がある。それは喜びとは別で、ショックな気持ちでもあった。
父は、いとこに“憑いて"までその言葉を伝えたかったのに、それほどまでに強い意志がありながら、この世に生きている間に、自分の意識があるうちに伝えられなかったのか!?と。
ずっと伝えられずにいたその苦しさを思うと、いてもたってもいられなくなるほどに苦しくなって、丹田の奥から沸き立つもので吐きそうな感覚になった。
それほどにプライドでガチガチに自分を縛っていた父の様子が手にとるようにわかってしまったから。
それほどに弱みを曝け出すことができなかった生き方を思う...。
あくまで私の見解だが、父の在り方からすると、自分で作り上げた何層もの鎧をそう簡単に外すことはできなかったのかと思う。
父の遺影に映し出される目の奥には、悲しみが満ちているように見えて、慈愛に満ちているようにも見えた。
生きている時は、九州の男ならではの亭主関白、一度座ると「箸を持ってこい!味噌汁を持ってこい!」と、ぶっきらぼうで不器用で横柄だった。正直、嫌いだった。昭和のおっさん代表、資本主義の権化だと思っていた。父に似たような男性と出会うと、生理的な嫌悪感を抱き、大概が会社の社長だったりするので、権威を着た弱みを曝け出せない弱い人間だ、と大概、喧嘩をして辞めるということを続けていた。それくらい父のような男性に対しての嫌悪感が強かった。
しかし、何かこれは自分の中だけで起きている怒りだけではない気がする、と感じていた。世代を超えて女たちが苦しんできた叫びのような重圧を自分の背中に感じていた。
そういう心境に至った自分自身のパーソナルな体験としては、父と母との関係や家族の間で刻んだ辛く悲しい思い出が大きく起因していた。
私はいつも押し入れの中で膝を抱えて両親の喧嘩から逃げるように怯えて過ごした。父は、姉が学校でいじめられて不登校になったり、精神的に病んだりしたことも全て母のせいにした。母が勤しんでいた天然酵母パンづくりやマクロビ、畑づくり、女達のコミュニティづくりや、自然環境を守る活動 - 原発反対、公害問題や政治問題に対して声を挙げ書物を書き出版 - など先進的で平和的な活動に対して、「お前は宗教に犯されている!」と罵倒し、朝2時間半かけて出勤する際に駅まで車で送ってくれなくなった、天然酵母パンの世話に夢中な母に辛く当たっていた。
パンの焼ける香りで目が覚め、とっておきの焼き立てパンにかぶりつく私の隣で、父はわざとらしくコンビニのメロンパンにパクつく。そんな姿を見る度に、「なぜこんなにも美味しいものを食べずにそんな毒だらけのものを、あえてお母さんの目の前で食べるんだろう?」と、母がやっていることの根源的な価値を理解しようとしない父に不甲斐なさとやるせなさを覚えていた感覚が、身体感覚として今も蘇る。
もちろん、私が人生の底打ちをしている時、父は言葉少なに一生懸命寄り添って、不器用ながらに最大限のサポートをしてくれたことも多々あった。そういった記憶は今でこそポツポツと蘇る。
父はいつも不在で、家にいてもろくに話すことがなかったため、母と過ごすことが圧倒的に多かった私は母の目線からしか父を見ることができなかったこともあるだろう。
そして今、棺桶に入っている父の顔を見て、とても愛おしく思えた。こんな感情は人生で初めて味わったのではないか?と驚いた。
観音様のように穏やかで美しかった。「本来の優しいお父さんの表情にようやく戻れたんだね。」と思った。
血の繋がった父を好きと言えない自分にずっと嫌気がさしていたけど、父に対して肉親としての愛情があったんだと認識できて、少し安心もした。
父が亡くなってから、初めて父の話を父の弟達(叔父達)に聞く機会があった。
父は実の父(僧侶)をビルマ戦争で亡くし、福岡の寺の長男だから寺を継ぐはずが、親戚の別府の寺の養子に出された。
なぜかというと、実父が亡くなり、実母が再婚させられたのは実父の弟(義父)だった。父の義父は、自分の実の息子、つまり私の父の義弟に寺を継がせたかったからだ。
養子縁組で、養子先の娘さんと結婚をすることが既に決まっていたが、その別府の寺に住み始めると、新たな義父となる僧侶がアルコール中毒で父に暴力を振るっていたという。そのため、父は毎晩のように公園で夜を過ごしたそうだ。
その後1年を経て、養子先の家を出ることになる。
京都へ出向き、西本願寺で働いていた。
そこで、私の母と出会うことになる。
母は、福井の実家から、これまた家出をして京都にたどり着いたそう。
母は、よく宝塚に誘われるほど人目を引く顔立ちだったため、京都駅に着くとすぐに男性に声をかけれらて、家と仕事先を一気に紹介してもらえたそうだ。(純粋無垢だったから彼を信じたのだろう。でも彼はいい人だったので万事OKだった。)
しばらくは元芸妓さんの休憩所?のような部屋に住まわせてもらいながら、向かいの喫茶店で働いていたそうだ。
ある時、そろばんができるということで、西本願寺の経理として雇われた際に、父と出会うことになる。
二人は惹かれあい恋に落ち、話し合った結果、父は僧侶の道を諦め、大阪にてサラリーマンとして社会に出直すことにしたそうだ。その後、自分で会社を起こしたが、共同設立者の友人にお金を持って逃げられ、借金を抱えながらも、二人の娘を育て上げた、という。
元僧侶が戦争という自分のコントロールをゆうに超える事象によって誇りを持っていた寺を継げず、新たに会社を興すという一大決心をして、3支社を作り、家族を持つ社員たちを抱えて生きる大変さ。
それなのに妻に十分なサポートをしてもらえない悲しみ。
母はどんどん歪んでいく世界の平和のために活動せざるを得ない。
父は、「家族のためだ。」と言いながら、恐らく自分のプライドや自分の人生を切りひらきたい、やるしかないという執念があったのだろう。金とコネと名誉という、資本主義の定説に絡め取られていく父。
そんな二人がどんどん分離していき、家では喧嘩が絶えず、姉はおかしくなり、妹(私)は非行少女になる。
娘の私から見えていた父はこんな姿だった。
大企業のお偉いさんと銀座のママのところを飲み歩き、家に帰るのはいつも夜中。
家庭を顧みず、家事や子育ては全て妻の責任、と言い放ち、家庭で起こったことは一切の責任を取ろうとしない態度。
娘が精神を病んでも、妻が精神を病んでも、見たくないから相変わらず帰宅は夜中。
娘が自分で決めて自分で望んだ進路も全て否定される。芸大もヒーリングの道も全て反対。
四年生大学を出て大企業か公務員として就職する意外にお前の将来安定の道はない、と言い切り、首根っこを掴んで企業に連れて行かれた。
しかし、叔父たちから父の話を聞いて、父の死後に初めて知った父の知られざる過去。
きっと誰にも言えずに独り抱え込んで生きてきた居場所のない人生を思った。
父も歴史の犠牲者だったんだ、と同情と共感の念が湧く。
しかし疑問は残る。果たしてその生き方しか選択肢はなかったのか?
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父は悲しみを押し殺して、自分の生きる道を決めた。
戦争という自分の範疇を大いに超えた領域で実父が殺された結果、自分は家を継ぐことができず、
さらに僧侶の道を諦め、自ら会社を起こした。素晴らしい功績だ。
だが、自分が負った悲しみを心の奥に押し殺しているため、妻や娘たちの悲しみを認めることができない。
向き合うことができない。怖いからだ。
ある時覚悟を決めて向き合わない限り、一生そこから逃げ続けることになる。
マスクを被ったまま棺桶に入ってしまう。そうしてメッセージのみが残される。
そのメッセージのおかげで私も母も救われる気分になったし、父のことは愛している。
しかし生きている間にもっと楽に、もっと笑顔で分かり合える時を持つ道もあったのではないか?と。
もちろん、今となればどちらでも良かったのではないか、それが父の生き方だったのだと思えるが、もし自分だとしたら、少なくとも別れた妻からの返事も受け取ってあの世に行きたい、と思うし、いとこ に憑くという、哀愁じみたやり方をしてまで悔いを残していかなくても...と思う。
選択肢はあったし、それを選ばなかったんだなと思ってしまう。
私の人生も母の人生も姉の人生も、父のせいにはできないし、そうではない。
そして父も、歴史のせいにも、親のせいにもできない。
歴史や環境や誰かのせいにして、「犠牲者」としての人生を選ぶのか、自らが「創造者」としての人生を選ぶのか。
何かのせいにしている限り、人生はずっと犠牲者だ。自分が思い込んだ檻に自分を収めているのも自分だ。
犠牲者としての悲しみは繰り返す。先祖から子孫へ。そのまた子孫へ。
自分が施錠した鍵は自分でひらかないと、自分自身が癒えないどころか、世代を超えて繰り返されていく。
生まれて初めてだったかもしれない、あれほど穏やかな父に出会えたのは。
でもそれは父が棺桶に入ってからだった...。
その時、私は心に決めた。
心の鍵をひらくと、自らが救われる。自らが救われれば、大切な人も救われる。
大切な人が救われれば、子孫もその後の子孫も救われる。
まずは自分のこころの鍵を開こう。
自分の代でカルマを解こう。
私は、ほんの一瞬でも、同じように悲しみを奥底に秘めた人の人生の止まり木になりたい。
それが大きな何かにつながるという、一寸の光を胸に。