修復家になるために vol.2
1996年4月、私は東京藝術大学大学院を翌年に受けるため、再度、浪人の身となりました。両親の支援を一切受けないという覚悟で上京したため、最初はアルバイト先を探すことから始めました。
足立区中川のワンルームに居を定めた私は、そこから自転車で20分ほどのところにあった、富士フイルムの現像所で働くことになりました。文化財の修復に際しては、現状記録用の写真の撮影法や現像方法を理解する必要があるため、このバイト先は私にとっては最適な場所だと思えました。
20-26時までのバイトを週5で入れ、それからまもなく、平日の日中には都内の画塾に、また土日には松戸の美術研究所に通うようになりました。前者の画塾では藝大油画科のOBの方たちが一般の人に油彩画の古典の模写を教えていて、ド・マイエルンの手記を卒論の対象とした私としては、その手記に記されている処方箋を参照しながらヴァン・ダイクの油彩画の摸写を行いました。一方、後者の美術研究所は、いわゆる美大芸大を受験する現役生や浪人生のための予備校であり、私は油絵科(油画科)を受験する自分より4歳ほど若い人たちと一緒にデッサンや油彩の実技の指導を受けました。
なぜ美大芸大を受ける人たちと共に、美術研究所で学んだがというと、私は学部の4年間は芸術学のコースに所属したため、対象をじっくりと見て、それを画材を通して表現する経験が乏しく、それが大学院受験失敗の主な理由だったからです。最初は観念的なものの見方しかできませんでしたが、「じっくりと対象を観察し、その本質を描き出すようにしなさい」という先生のアドバイスを意識して制作するようになると、徐々に対象の量感やそれが存在する空間が描けるようになり、秋頃には先生からも及第点をいただけるようになりました。私が制作の苦しさのなかに幾許かの楽しみを感じられるようになったのがちょうどその頃で、気持ちが画面に現れるようになったことが良い方向に向かった要因だったのだと思います。
私にとっての最大の課題がある程度解決されたのを評価してもらったからか、翌年の大学院受験ではなんとか合格することができました。大学院から本格的に油彩画の修復を学ぶことになります。
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