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安楽死制度の議論から弾かれる者の嘆き

下記の記事の前編から読んでいて以前から思っていた事が明快になってきた。

精神疾患は蔑ろにされている

※記事引用
たとえば、がんの疑いがあると言われて、そこから確定診断がつくまでの数週間ってとてつもない不安に襲われるわけですよ。で、がんと診断されて、そこから先どれくらいで立ち直れるかは人それぞれですけど、そういったときに、『死にたい』という気持ちが襲ってくるんですよね。もし、その時に安楽死という選択肢があったらけっこう簡単に選んでしまうんじゃないかなと思うんですよ。ここから、治療も大変、お金もかかる、迷惑かけてしまう……。そういう時に『安楽死できますよ』という制度になっていると、それを選ぶ人はたくさんいると思いますし、僕自身もやってしまっていたと思います。でも、そこから先に進み、立ち直って、受容する時期になると、生きやすくはなってくる。

精神疾患を患うとこの「死にたい」「迷惑をかけたくないから」などが主な思考回路となる。だったら治せばいいじゃないかと思われる方もいるかも知れないがそんな簡単な話ではない。精神疾患は先天的と後天的がありそもそも治る治らないの次元ではないものさえある。さらに治療には膨大な時間がかかる。極めつけの身体的疾患との差は「疾患自体が社会的タブー化されており治療期間=社会的死」なのである。精神疾患への差別や軽視や蔑視はまだまだ根が深い。記事内写真の一文にある「人によって崩れた心は人によってでしか治療できない」とあるがそれはただの体験談で個人の感想だ。大切な人との繋がりや温かみ?対話や交流?そんな事が出来たりそれで改善されるというのは奇跡的幸運なだけである。自殺者や独居老人や孤独死の数がどれくらいあると思っているのだろうか。死を考えるのなら現状ある死の形と数を踏まえなければならないだろう。

患者の意思=患者の「本当の意志」とは限らない

患者を守るため、患者の意思を外部(家族含め)から守るために安楽死制度を、と謳っているが、では「患者の意思」と思われているソレは本当に患者本人の人格が選び抜いた意思なのだろうか?そこに触れていない。そしてそれにより意義が破綻している。

精神疾患になると正常な思考ができない。普段なら選ばない事や選択や決定を「これが正解だ」と選び後になって後悔する事が多い。気をつけていても気づいたときには後の祭り状態である。一番分かりやすい例で言えば自殺だ。本来人は生存本能があり催眠深度がどれだけ深かろうと自殺だけは決定させることができないとされている。それを超えてしまうのが精神疾患である。

患者の意思を守るため、安易で悲惨な自殺を選ばせないために安楽死制度を作るというのならば相当な慎重さが必要になってくるのがお分かりいただけるだろうか?例えば、癌になりそのショックで精神疾患に陥り「安楽死を希望する」という状況下になった時、果たしてそれは本当に本人の意思なのであろうか?そのジャッジはどのようにどうやって行われるのだろうか?そもそも可能なのか?

どれほどの慎重さを必要とするか分かるだろうか?

安楽死と嘱託殺人の違いは?

結局の所ここに着地してしまう。自ら死を選びそれを依頼して安らかに殺してもらうのが安楽死である。であれば嘱託殺人と何が違うのだろうか。そしてそんなことを医療従事者に強いるのは患者のエゴが過ぎるのではないだろうか?酷過ぎるのではないか?

精神疾患で毎秒死を願う者として「安らかに殺してくれるなんて狡いな」と率直に思う。

まとめ

①精神疾患のタブー感と軽視
②患者の意思が患者本人の本当の意思と断定できない
③患者の意思を守るための安楽死制度という前提が破綻してしまう
④医療従事者に嘱託殺人を強いるのは患者のエゴが過ぎる

こんなところだろうか。心の病は緩和ケアがない。というか現状畑が違うのだろうと感じる。本来はもっと密接にならなければいけないと思うのだが。もちろん緩和ケア内では日々心の問題に苦心され取り組まれていることは分かっている。だが精神科・心療内科はどうだろうか?カウンセラーすらいない病院が多くクリニックが多くをしめ診察と薬の処方のみで日々の治療が進む現状の精神科・心療内科は「緩和ケア」がされているだろうか?結論としてはココなのであると私は思う。最終的には心の問題になるはずなのにスタートが心の問題の者はその議論の場に組み込まれていないように感じる。安楽死制度を組み上げる際にはおそらく零れ落ちているであろう我々のような者は、日々地獄を歩いて生きていき、限界がきたら自ら孤独で悲痛で尊厳もなく汚く迷惑もかける死を選ぶのだろう。慈悲もない。声は届かない。

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