旅に生きる2019/09/11 ~地名から読み取る~ ④通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃の鳥谷崎神社は好きですか?
※皆さまの投げ銭で旅をする記事です。
前回はこちら③
前回はまるっと宮沢賢治に使ってしまい神社の名前も書かなかった。
『胡四王神社』でございます。
そして今回は『鳥谷崎神社』
花巻城にあった三か所の神社を合祀した城の守り神、地元の人はここに初詣に来るそうだ。
城ではあるが高低差は緩く、目の前まで車でも行けるので年齢問わず気軽に訪れることができる『愛され系』だ。
地方ではどうしても『厳格』な立地になりがちな神社だが、やはりみんなが集まる鎮守の森は『平地』がいい。
雨が激しかったのですぐ近くの駐車場に止める。
すでに濡れているレインパーカーをもう一度羽織る。だがどうしても気になるので降りることにする。
本来はここで周りを歩きたかったのだ。
ダイナミックではないが路面は斜面とうねりで運転していてもわかりやすい。
それを見たかったし街中の、移動の時に通り抜けた街も歩いてみたかったのだが。
さて『花巻』という地名はそれこそ『改名』である。
その前は『鳥谷ケ崎』であった。
『鳥谷ケ崎』の由来はわからない。北上川と豊沢川に向かって大きく突出する地形だから・・・・というのを唯一見つけた。
たしかに『崎』は突出、そして傾斜地につけられる漢字ではある。
花巻に改名したのは南部氏の土地になってからである。
花巻の由来は諸説ある。もちろん地形が元ネタであろう説はある。
だが旧名の鳥谷ケ崎のほうがより純粋に地形を表しているのは一目瞭然であるのは間違いない。
神社も土地名を今に残す。
市町村合併で消えてしまったその土地の記録がそこにある。何も文献や遺跡に言い伝えばかりが歴史ではない。
さてところでみなさんは
「日本人は英語が苦手すぎる。国際化に乗り遅れている」
なんてデキそうなビジネスマンやカタカナ肩書でよくわからない仕事をしていそうな意識高い系が日本人をDISるのは一度は目にしたことがあると思う。
もちろん多言語を喋れる人は素晴らしい。それを活かせる仕事や活動に従事していただけるのはありがたいし尊敬に値する。
だが待ってほしい。
海外の人は
「日本語は難しい」という。
また国境がないほうがいいなどと本気で思っている方々には
「日本語は欠陥言語である」などと極論を言うひともいる。
だが本当にそうか?
『日本語しか操れない』のは本当に『ダメ』なのか?
普通に喋っていると気にはしないだろうが、この記事を読んでいる人は世界でもかなり高等な事をやってのけているとわたしが太鼓判を押す。
英語はアルファベットとアラビア数字しか使わない。
これを『表音文字』と言う。言葉=音でそれ以上でも以下でもない。
逆に漢字を使う言語は『表意文字』である。文字だけですでに意味を持つため効率は悪い。
『私は今日300円のキャベツを買いました』
『I bought a 300 yen cabbage today』
比べてみてどうだろう?
まず英語は間を開ける。そうしないと大変読みにくい。
ところが日本語は句読点はもちろんあるが使わなくてもある程度の長さはすぐ把握できる。
これは表音文字と表意文字が同時に出てくるからである。
『私 今日 円 買』という漢字、『は の を いました』というひらがな。
さらに『キャベツ』というカタカナ、『300』というアラビア数字。
これがあるため文章内での区切りや前後の繋がりが把握しやすい。
複雑だが意味を直接伝える事に特化しているわけだ。
たとえば
「花巻市」は「Hanamaki city」だが
英語だと「はなまき」以上でも以下でもない。
ところが日本語だと「花」と「巻」それぞれの意味、そして「花巻」とセットになった意味、「花の牧」という地名の由来になった言葉の響きの意味、そして自治体名としての意味とてんこ盛りなのにたった3文字に全てが込められている。
これを高度と言わずしてなんと言おう。
つまり『日本語を喋れる海外人、また日本人だけど日本以外で生まれた人』からすると文字が書けない非常に高いハードルがある。
日本語を覚える人が大変だと感じることを日本人は産まれてからずっと使って身につける。大人になっても間違えてしまったり、意味がわからない言葉が出てきたりとにかく難しい。
逆に『他の言語を覚える暇がない』ともいえる。一生モノの言語が母国語になってしまった『不幸な民』なのになんとかみなさん会話をし、読み書きをしているのだ。これは凄いことだ。
さらに回りくどい言い回しは英語圏だとジョークになるが、日本語だと文学的となる。
三島由紀夫は『無駄を排除した』鴎外の文章を褒めたたえているが、
『日本語の特質はものごとを指し示すよりも、ものごとの漂わす情緒や、事物のまわりに漂う雰囲気をとり出して見せるのに秀でている』
と解説している。
これは日本語の特徴というより、複雑なのでいくらでも膨らませることができるわけだ。
テクニックがあればとんでもなく長い描写に全ての色と香りと光の暖かさ、そしてそれに対して登場人物が抱いた想いをすべて絡めて書き上げることができる。
①『人が来た』
②『小太りで50代の人が走って逃げるのを見ました』
③『夜に人を見ました。50歳くらい?少し太っていて暗い路地から走っていくところでした』
④『その男はやや太っており、年のころは五十になろうか。仄暗い路地をじんわりと照らす小さな街灯ですら避けるように、周りを気にしてそそくさその場を走り去る様をわたしは見た。男の怪しさはあと数時間で迎えるであろう夜明けに浮かび上がる稜線よりも確かであった』
(文章はわたしが適当に書いたもんだぞ)
日本語としてそぎ落とされた①
実用的かつシンプルな②
実際に人に説明するならばだいたいこうなりそうな③
実に回りくどく描写しているが言っていることは①~③と変わらず、だがただの報告や事実だけではない④
英語だと冗語の色々な手法がある・・・・がだいたいは
「わたしは見た。人が走り去るのを見た。走り去った人は男だった。男は小太りであった。」
みたいなくどさやトートロジーから飛距離を感じない(個人的な感想です。なぜならわたしは言語にはまったく詳しくないから)表現が多い気がする。
そして三島由紀夫が言う「ものごとの漂わす情緒や、事物のまわりに漂う雰囲気」がもっとも発揮されている日本の古典のように表現すると
文字数が多くなる。日本語のようにさらりとはいかない。書いても読んでも長くなる。
言語に優劣があるのではない。だいたい先進国で使われている言語は
「表音文字」だけである。日本語のようにやたらめったらたくさん単語があるわけではない。
さらに『青』『蒼』『藍』のような同系統の違う色の微妙な違いを同じ発音で現わしたり(これは漢字圏の話でもある)
『京都人の嫌味』で有名な
「お宅の娘さんピアノ上手ですなぁ(てめーんとこのガキのピアノうるせーんだよ)」
「福島から?はるばる遠くからおこしやす(福島?クソ田舎から都に来たんか)」
のような裏。
もちろん『1本2本・・・』という数え方で
「いっぽん にほん さんぼん」
「なんでぽん!ほん!ぼん!なんだボケカスぅー!」という不条理さもあるが(これは声に出した時のリズム感なのではないかね)
こんな複雑で曖昧な事でもなんとなく伝えることができる言語を操るのだから
「日本語しか話せなくても仕方なし」なのだ。
つまり「この地名の由来は〇〇から」という説明に対して日本語は
「響き」「漢字の意味」「漢字の美しさ」「ひらがなにしても成り立ち漢字にするとまた別な意味にも取れる幅広さ」「ひらがなの柔らかさ」
などが含まれる。
英語はじめ各国の主要言語は『由来だけ』である。
呪文やアニメなどで出る意味深なモノも
『文字と図形』の組み合わせで初めて成り立つ。
ところが日本語は一文字漢字をぽんと置いても『意味』が生じ「どこに配置したか」で複数のそして複雑な法則を生み出す。
五芒星だルーン文字だとは必要ない。
筆で半紙に文字を書けばそれだけで意味をなし、それをどこに置くかなどだけでも効果が発生する。
さらに指を噛み切り血で書き記した文字はそれがありがたい経典であっても『協力な呪い』へと発動が可能となる。
「なろう言語」だ(;´Д`)
世界で一番長い駅名は
『ランヴァイル・プルグウィンギル・ゴゲリフウィルンドロブル・ランティシリオゴゴゴホ』
ウェールズ語で「赤い洞窟の聖ティシリオ教会のそばの激しい渦巻きの近くの白いハシバミの森の泉のほとりにある聖マリア教会」jの意味だが
文字にすると『Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogoch』
困るね。日本語で言えば
「げんちじかんここのかのよるにはんせいふぶそうげりらがちゅうとうおまーんなんぶどふぁーるちほうでばくだんてろをじっこうしました」
とひらがなで書かれたようなもの。
英語に変換しても『St. Mary's Church in the hollow of white hazel near a rapid whirlpool and the Church of St. Tysilio near the red cave』
ところが日本なら『赤い洞窟』と最初の部分だけでも
漢字とひらがなが混じっているが「洞窟の色の説明」「洞窟があること」「理由はわからずとも洞窟が赤いと形用されていること」
が4文字で表現されている。
もちろん三島由紀夫の言ったとおり
「赤いは見た人全員」なのか「赤く感じる人がいるのか」はボヤかしてしまうことも可能。
ここに『音』を混ぜることによって複雑さを増す。
日本語はあまりに技巧的すぎるのだ。
だから『日本語しか使えない事』を恥じることはない。むしろ『ネイティヴが一生かかっても正確に使いこなせないほど複雑巧緻な言語』であるので
「他の言語なんか使ってる暇ねーよ( ;゚皿゚)ノシΣバンバン!!」でいいと思う。
それで他言語を扱える人はそれで生きていければいいし、色々な活躍の場を与えられるべきである。
ただ必要以上に卑屈になることもない。逆に英語圏の人間は世界中どこに行っても『英語を使おうとする』わけでゴリ押し甚だしい。
「喋れないから」と黙る日本人は国際社会では異端でもその奥ゆかしさを理解してくれる人は確実に間違いなく増えているのだから。
そうなると『地名の改変』は気軽には行えない。
もし改変した場合は『後世どんな影響』を及ぼすかまで考えるべきである。
「縁起がいいから」
という過去の改名の気持ちはわかる。
だが旧地名がすぐ知れる環境や地名が指し示す『地名が伝える災害の歴史』を消し去るのはあまりに愚かなのである。
4.5に続く