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命の誕生を「おめでとう」と祝えなかった元助産師、世界が変わった。
妊娠したことを知ると、人はみな、「おめでとう」と言う。
出産したことを知ると、人はみな、「おめでとう」と言う。
命が誕生したその瞬間、その場には「おめでとう」という言葉が飛び交う。
その後も、何度も何度も、命の誕生に対し「おめでとう」という言葉がかけられる。
「おめでとう」と言わない人間が、とても薄情で非常識に思われるのが普通になるくらいに、命の誕生は、おめでたいお祝い事となっている。
私はそれが、ずっとずっとよくわからなかった。
普通の高校生だったときも、
看護学生になり医療や看護について学んでいるときも、
助産学生になり命の誕生について学んでいるときも、実際に現場に立ち会わせていただいているときも、
助産師になり命の誕生の現場で働かせてもらっているときも、
なぜ、命が生まれることが、赤ちゃんが生まれてくることが、「おめでとう」なのか、わからなかった。
毎日当たり前に、周りの助産学生や助産師、産科医たちが「おめでとう」と祝福することに、誰も疑問を抱かないことが、不思議だった。
みんな、何がおめでたいと思って、言っているのだろうか。
今生まれたこの赤ちゃんが、今ここに生まれてきたことが、なぜおめでたいことなのか。
本当に幸せになるかどうかわからないのに、生まれてきたことを祝うのは、なぜなのか。
もしかしたらこの子が大きくなったとき、生まれてきたくなかったと思うかもしれないのに。
この子がこれから本当に、無条件に愛され、無償の愛を知り、幸せを感じて生きていくことができる保証なんて、どこにもないのに。
こんな、苦しみしかない世界に生まれてきて、これからあと100年生きなければならないなんて。
いつも、そんなことを考えていた。
最近、世の中の感覚と自分の感覚にズレが生じている理由を、見つけた気がする。
世界の捉え方が違う、ということ。
“生きる”ことに対する前提が違う、ということ。
何も考えずに「おめでとう」と言える人は、そもそも世の中に対する不信感が、ないのだと思う。
生きることがとてつもなく苦しいことである、という認識で生きていないのだ。
世界は無条件に自分の存在を受け入れてくれる、
自分は生きていていい存在だと、それが当たり前だと、
人はみな必ず愛される、と、
自分の存在意義を確認しなくても、自分が生きている必要性を疑わなくても、普通に生きていける、世の中とはそういうものだ、
という前提の中を生きているから、
生まれてくることに対して、純粋に「おめでとう」と言えるのだと、
命の誕生をお祝いすることに対して、疑問を感じないのだと、
新しい命のこれからについて心配や不安を抱かないのだと、
気付いた。
生きること、死なないこと、
生きようとすること、死なないようにすること、
子孫を残すこと、
これらは生き物の本能で、
生きたいと願い、新しい命に喜びを感じるのは、そもそもプログラミングされている本能だ。
生まれてきたくなかった
生きるのが苦しい辛い
死にたい
生きててごめんなさい
生まれてきてごめんなさい
死ねなくてごめんなさい
そう思いながら生きるのが当たり前になっている私が、命の誕生に対して「おめでとう」と思えないことは、ある意味当たり前の感覚かもしれない。
なぜ祝うのか疑問を感じるのも、新しい命のこれからについて心配になってしまうのも、ある意味当たり前なのだろう。
なんとなく、頭ではわかっていた。
理屈は理解していたけれど、腑に落ちていなかった。
それが、最近ふと、自分の中で腑に落ちて、感覚的に、納得できたタイミングがあった。
ずっと、「おめでとう」と思えない自分が、苦しかった。
申し訳なかった。
そんな自分が、命の誕生の現場にいることが、申し訳なくて心苦しくて、許せなかった。
助産師失格だと思っていた。
人間失格だとも思っていた。
けれど、感覚的に納得できた今、
そんな自分を許せるし、受け入れられる気がする。
おめでとうと祝えないからといって、助産師失格ではない。
大事なのはそこじゃない。
今の私はそう思う。
おめでとうと祝えないからといって、人間失格でもない。
人間だからこそ、
人間としての心を持っているからこそ、
おめでとうが言えなかった。
今の私は、そう思う。
そして、“いつか命の誕生に対して、「おめでとう」と心から思える日がくるかもしれない”という希望を、持っている。
生きることが苦しいと思う人を減らしたいし、
苦しみしかない世の中だと思う人を減らしたい。
生まれてきた子の未来に不安しか抱かないくらいに、人生が過酷だと思う人を減らしたい。
産んでくれてありがとう、とか
生まれてきてよかった、とか
そこまで思えなくてもいいとは思うけれど、
生まれてきたくなかった、
生まれてきてごめんなさい、
死ねなくてごめんなさい、
そう思いながら生きなきゃいけない人を、減らしたい。
減ってほしいと思うし、
減らさなきゃいけないと思うし、
いなくなるべきだと思う。
だって苦しいもんね。
本人も、その人のことを見ている人も。