MOROHA論②
新宿に向かう丸ノ内線の中で、僕はどう変わっただろうか?とふと考えた。どう変わったというのは、2022年2月のMOROHAのライブから今日のMOROHAのライブまでの一年半ほどの間に、僕がどう変わったかということだった。
あの頃の僕は、少し前からツイッターで短編小説を書き始め、書くたび拡散されていた。最初はコロナ自粛の暇つぶしのためにやっていたが、そのあまりの反響の大きさに「これは本になるな」と内心卑しい期待を持っていた。事実、その翌月末には「卒業式で早稲田卒の先生がみっともない過去を生徒に滔々と語る」という筋の短編がかつてないほどにバズり、そのタイミングで集英社の稲葉くんから「ぜひ本にしましょう」と連絡を受けることになった。そこから半年で新たに書いたり、過去に書いたものを調整したりして、僕は無事に「作家先生」になることができた。今も文芸誌で連載を持たせてもらって、印税や原稿料のおかげで以前よりもいい暮らしができるようになった。
「…はい、大変に充実した一年半だったと思います。成果が出て、成長もありました。私生活のほうは、婚約破棄をしてダメになってしまいましたが(一同爆笑)、今後も謙虚に着実に、支えてくれる読者の皆さんや担当編集の皆さんの助けを借りながら、あまり目先の数字や評価に右往左往させられることなく、細く長く作家業をしていけたらいいなと思います」
もし今、ボイスレコーダーを机に置いた新聞や雑誌のインタビュアーに取材を受けたとしたら、きっと僕はそんなふうに答えるだろう。インターネット出身の覆面作家。趣味は文フリ界隈の有名人(単著は永遠に出ない)の作家先生気取りムーブの観察という僕は、この業界における正しい振る舞いをすっかり習得するに至っていた。批判に対して11万人のフォロワー数で殴り返すのはダサい。すべての創作物は尊い。文フリ界隈の有名人(単著は永遠に出ない)からの批判も「ありがとうございます、参考にします」とありがたく頂いておくのが見栄えがいい。ちょっとした成功よりも、ちょっとした成功が生んだそんな変化こそが、僕がMOROHAの武道館ライブから今日に至るまでの間に生まれた変化の中で最大のものかもしれない。
ところで、「鼓舞してくれる音楽」だとMOROHAを評する人が多いと、UKさんがインタビューでも言っていた。
でも僕にとってMOROHAはそうではない。何かこう、彼らの音楽は聴く人に語り掛けてくるようで、そうではないような不思議な感覚がずっとあったのだ。今回の新宿Zeppでのライブ「日程未定、開催確定 TOUR」では、それが間違っていなかったことを確認することができた。
武道館ライブというアーティストとしてのひとつの到達点を通過したというのに、最新アルバム「MOROHA V」には相変わらず緩んだような、多幸感に満ちた甘ったるさがなかった。もちろん「ネクター」や「六文銭」のような愛や希望の存在を感じさせる曲もあったが、そこにもギリリと引っ張られた切実さが頸椎のように突き刺さっていて、それはそのまま僕たちに突き刺さってくる。前回の武道館に行った時も「MOROHAを聴くのは疲れる」と感じたが、今回のアルバムも、そしてライブも同じだった。ステージの上には驚くほど物がなく、「ワンアコースティックギター、ワンマイクロフォン」がそのまま体現されているようだった。多少の楽しいMCを除けば、MOROHAの二人はまるで苦行に挑む求道者のようにギターを鳴らし、声を絞り出していた。武道館の時よりもずっと近くで見ることができたから、僕はその様子を以前よりもずっと鮮明に捉えることができた。それで気付いた。二人は僕たちに向けて演奏しているわけではないんじゃないか?もちろん物理的にはそうなんだろうが、これは概念的な話だ。近くにいるはずなのに、僕たちの心はある意味で通じ合っていない。ステージとその外との間に、まるで求道が妨げられることのないよう結界が張られているような感覚ー
MOROHAは歌詞の中で、友人や恋人、そして家族たちについて歌う。もちろん、人は一人では生きられないから当然のことだ。暮らしについて歌えば、それは結果として自らを取り囲む人々について歌うことになるに違いない。しかし究極的に、人の人生はその人だけのものだ。僕は誰かになれないし、誰かも僕になれない。誰も僕の人生を負担し、代行してやくれない。作家が編集者からアドバイスを受け取ることはできても、最終的に書くのは作家ひとりであるように。
生きることはエゴイズムの実践行為だ。僕たちはまったく純粋な意味で誰かのために生きることはできない。それは友人や恋人、そして家族たちに対してもそうだし、彼らからしてもそうだ。必死に生きることは、最終的に誰もいない場所を一人で走ることを意味するんじゃないかと僕は最近思っていて、最近の連載でも「自分らしく生きるために誰かを置いて走り去ること」が重要なテーマのひとつに自然となった。
友達とワイワイお酒を飲んで、トイレで手を洗っているときなんかにふと「僕は何をしているんだろう」と思うことが増えた。連載の第三話は、本当は5月末が締め切りだったが一度落としてしまった。まったくもって実力不足の自分のせいなのに、それなのに僕はどうしてのうのうと、お酒を飲んでワイワイ騒いでいられるのか?この時間に、書き進まないにしてもせめて手を動かすとか、連作短編集を読んで勉強するとか、やるべきことがあるんじゃないか?僕は本気で、自分の人生をやっているのか?そんな罪悪感が、いきなりムクムクと湧き上がってきて、僕はどういうわけか、そういう日の深夜の帰りのタクシーなんかでMOROHAを聴くようになった。
僕にとってMOROHAはきっと「人生を本気でやっている人たち」なのだろう。だからこそ彼らの音楽は、都会的な洗練からは程遠い。むしろ汗臭くて泥臭い。昨日のライブでAFROさんは何度も、ペラペラのタオルで汗にまみれた坊主頭をゴシゴシと拭き、最後に白いTシャツから伸びる剥き出しの太い腕で口元の汗をグイと拭いていた。あの姿。あの姿が、僕がたまらなくMOROHAを好きな理由だ、と確信した。彼らはどんなステージにいても、きっと自分の音楽を自分のためにやりきることで精一杯なのかもしれない。それはキャパの話ではなく、行き切った切実さの輝かしくも苛烈な最終到達点がそれだという話なのだろう。
以前、素晴らしい対談を読んだ。「武道館公演を終えたMOROHAへ送る1通の手紙」と題されたそれは、武道館という舞台に「届いてしまった」にもかかわらず、「昔よりも顔を歪めては、激しく悔しがり、ときに虚空を睨んですらいた」ことへの違和感を素直に表明した旧知の友人が、AFROさんに手紙を送るところから始まる。
その問いに対するAFROさんの回答はこうだ。
願い。彼ら二人は未だ願い続けている。なりたい自分がはるか先にいて、そこに手を伸ばしながら延々と走り、足掻き続けている。彼らの目はいつだって前を向いている。だから後ろにいる僕たちのことは見ていない。でも音は聞こえてくる。彼らの喉から、彼らの手から、恐ろしいほどに心を震わす音が聞こえてくる。僕たちはそれを聞いている。それを聞いて、明日をどう過ごすか考えることを強要される。当たり前だ。あんな姿を見せられて、明日をのうのうと過ごすことなんてできない。僕たちのためにやっていない音楽に僕たちがこうも「鼓舞される」のは、きっとそういうわけなのだろう。
本が出たばかりの頃、とある文フリ界隈の有名人が、おそらくは酔っ払ってDMを送ってきたことがある。だいぶ曖昧な記憶だが、確か「悪いですけど単著になるレベルじゃないと思いますよ」といった感じで、無視していたら(当時こんなDMは無数に届いていた)翌朝になって「昨晩の件は取り消します」と追加でDMが来たかと思うと、すぐにブロックされてしまった。あくまでも謝罪はしないんだな、と思って、彼の名誉のためにDMは削除しておいた。
最近になって、そういえば彼は元気にしているだろうか、と彼が小説を書いている「はてなブログ」を見に行ったら、もう半年くらい更新が止まっていた。それまでは毎週のようにエッセイみたいなものを書いていたのに。調べてみたが別名義や別媒体でやっているということもないようで、つまり彼はもう執筆をやめたようだった。当時は「本にしてくれる出版社があったら連絡ください!」だなんてツイートして、文フリにも出続けていたのに。
一方で、僕のデビュー作はそれなりに売れたものの、賞の類には一切引っかからなかった。今やっている連載も、おそらくは年末か年明けくらいには本になるだろうがそっちもどうなるか分からない。本が出たら終わりではなく、それは新たなレースの始まりに過ぎなかった。もしかしたら、そっちも文学的価値を評価されないどころか、タワマン文学ブームが過ぎてビックリするくらいに売れないかもしれない。少なくとも、他の人たちとは違って僕はデビュー作で華麗に「作家先生」になるだけの飛翔力がなかった。そうである以上、僕はどんなふうに作家業を継続してゆけばいいのだろう?とたまに不安になる。今やっている連載が終わったあと、誰からも仕事の依頼が来なかったら?noteあたりでシコシコ書き続けたとして、それが誰からも読まれなくなったら?死なないために、僕はどうすれば?
実は、答えはもう出ている。走り続けること。みっともなくとも走り続けること。とある文フリ界隈の有名人がそうなったように、走り続けているうちに一人また一人と脱落してゆく。走り続けること。走るのをやめないこと。連載がなくなっても自分で勝手に書き続けること。公募賞に出し続けること。落ち続けても書き続けること。死なないこと。足を止めないこと。みっともない走法でも、立ち止まるよりは遠くに行ける。競争相手は勝手に減ってゆく。僕が勝つには、負けないように走り続けるしかないのだから。
それと同時に、死ぬほど結果にこだわりたい。かっこつけて、「売れなくても価値があるもの書けたらそれでいいッス」とかインタビューで言わない。売れたいし褒められたい。少しでも多く売りたい。少しでも多くの人を、僕が書いたものを通じて嫌な気持ちにさせたい。賞だっていっぱい獲りたい。陰でゴチャゴチャ言ってる連中を結果で黙らせたい。インターネットの嫌われ者でいい。自分の人生の価値は、最後に自分で決めればいい。自分で自分を好きになってあげられるだけの圧倒的成果を出したい。だから仕事をください。何でもやるので。
それでも、もう走れないと思ってしまったとき、僕はきっとMOROHAを聴くだろう。少なくとも僕が走っている間は、彼らもまた走り続けてくれているに違いないから。
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