OBOG訪問マッチングサービス「Wakatte」をクローズします

 タイトルの通り、弊社にて運営しておりました就活生と若手社員をつなぐOBOG訪問マッチングサービス「Wakatte」を、今月末をもってクローズします。
 取引先や株主の皆様、そして何より利用者の皆様や応援してくださった皆様。ご迷惑をおかけしてしまい大変申し訳ございません。 期待を裏切ってしまい大変申し訳ございません。

 このブログは、私の敗戦振り返りブログということで、なぜ「Wakatte」を立ち上げたのか?立ち上げたあといったい何が起きたのか?これからどうするのか?について、自分自身の心の整理も兼ねて、皆様にご説明させていただければと思います。

なぜ「Wakatte」を立ち上げたのか?

 これは、代表である私自身の原体験に深く由来しています。少し身の上話をさせてください。

 僕は、新幹線の駅で言うところの三島と新富士の間あたりで生まれ育ちました。いい街でしたが、僕が生まれ育った家庭環境は、口が裂けてもいいなんて言えるものではありませんでした。
 父はもともと地元の地銀で働いていましたが思い立って起業しました。金はないがアイデアはある、自信はあると父を唆した友人がいました。ヨーロッパ産のベビーカーの輸入代理店業か何かでした。父は銀行員時代、いつも遅くまで残業していましたから、もしかすると子育てで迷惑をかけた母への負い目みたいなものを解消したかったのかもしれません。あるいは単に、家族に今よりもいい暮らしをさせてやりたいという、彼なりの家族への愛だったのかもしれません。
 結果として、事業は大失敗しました。父はかなりの額を出資していたし、結果としてその出資額のすべてを失いました。銀行はもうやめていましたから、お金はないし、今後もお金が入ってくる見込みはないという薄暗い絶望感が家を満たしました。父は働き口を探しましたが、転職なんてほとんどないこの田舎町では父は変わり者の爪弾き者のように扱われ、家から遠く離れた小さな運送屋の事務所で経理の仕事をようやく見つけましたが、給料は銀行員時代の半分くらいになってしまいました。母も働きに出ました。家の近所の業務用スーパー。それでもそれまでの暮らしを維持することはできず、の家族は新幹線の線路沿いの安アパートに引っ越しました。「のぞみ」がこの街を通り過ぎるたび、薄い窓越しにすごい音がしました。壁がビリビリと微細に震えるような音もしました。それを聞きながら、僕は毎日のように、母が職場の特売で買ってきたパスタに、これまた特売のカルボナーラソースをかけて食べていました。デザートはみかんでした。母の親戚が何箱もくれました。冬は毎日それを食べて、僕の手はずっと真っ黄色でした。クラスで笑われました。

 地元の公立高校から、静岡市内の偏差値50くらいの公立大へ。起業したい、というぼんやりとした思いがありました。もしかすると高校在学中に亡くなった父の弔い合戦のつもりだったのかもしれません。父が亡くなり、さらに困窮した家庭を支えるため毎日のように朝から晩まで働いた母を楽にしてあげたいという思いだったのかもしれません。ただ何より、当時は学生起業みたいなのが流行っていましたし、少し前には元引きこもりの起業家がジャスダック最年少上場、みたいな派手なニュースもありましたし、起業して人生を一発逆転したい、という思いが、高校の頃から、あのアパートの暮らしの中で、ふつふつと沸き起こっていたのかもしれません。

 狭い大学ですから、mixiの名大コミュニティで募集したりすると、僕と同じように起業したいという友達がすぐ見つかりました。コードを書けるという友達もすぐ見つかりました。三人で学食で何度も話して、僕はたくさん下調べをして、たくさん提案して、でも結局サービスは何もまとまりませんでした。僕は二人とも主体性に欠けるというか、必死さが足りないと思いました。聞くと、二人とも市内のいい家の出でした。愛と、そしてお金をかけて育てられました。満たされた人間たちの淀んだ目。その目で僕は見下されているように感じました。
 二人は二人で、僕のことを能力がないのに熱意だけ先走る面倒な人間と見ているようでした。打ち合わせ中も、必死にいろんなことを語る僕を冷たくニヤニヤと笑うような場面がたくさんありました。二人から「悪いが今回は縁がなかったということで」と言われて起業の話はなくなって、僕はまた一人になりました。そして二人は共同起業しました。僕抜きの二人で。サービスは当時流行りのキュレーションメディアでした。すぐに伸びました。起業資金は彼らの親が無利子で貸し付けてくれたようでした。数千万円規模の調達もしました。当時では珍しい地方発のスタートアップということでずいぶん話題になりました。自宅からニ時間近くかけて電車通学して、大学の正門あたりまで歩いてくる頃にはもうヘトヘトで、そこでお揃いのTシャツを着た二人が腕を組んでインタビュー記事の写真を撮っているのに出くわしました。気まずくて、気付かれないよう顔を伏せて、下を見ながら歩きました。「いいですよ〜もっと成功者みたいに堂々と!」カメラマンの冗談と、二人の大げさな笑い声。高校から履いているボロボロの靴だけが見えました。

 起業は諦めました。何もやっていないのに、僕には才能が、価値がないのだと言われたような気がしました。すごく惨めな気持ちになりました。また同じ気持ちになったら、次は心が折れると思いました。
 三年生になったら就活が始まりました。せめていい会社に就職しようと思いました。東京の大きな会社ばかり見ていました。インターネットではFラン大と呼ばれているような大学でした。説明会は全然席が取れませんでした。大学には「いい会社」のOBOGなんていませんでした。勇気を出していろんな会社の新卒採用担当に「誰か紹介してくれないか」とお願いしてみても、何かと理由をつけて断られました。そりゃそうです。これまで採ったこともない名も知らぬ地方の大学の、何てことのないただの大学生。よくしてやる理由が僕にありませんでした。インターンすらロクに通りませんでした。

「ウチらしくない人を採りたいんですよ」
 そう言われたとき、ここだ、と思ったんです。とあるメガバンクの説明会でした。新卒一年目で新卒採用担当になったらしい、ややヒョロっとした早口のその男性は、人事という仕事にひどく誇りを持っているようでした。変わったことをして、定量的な成果を上げる同期を差をつけたいと、もしかしたらそう思っているようでした。
「君は弊行で何を成し遂げたいの?」説明会が終わって、その人のところに駆け寄って、自己紹介にと大学名と名前を言ったところで、彼はそう言って遮りました。僕は何を成し遂げたいんだろう?想定外の質問に脳が一時フリーズして、その気まずい沈黙を打破しようと、僕は絞り出すように言いました。「起業して母を楽にしたいです」

 春。僕のメガバンク勤務の日々が始まりました。
 僕の大学からこの銀行に、そもそもメガバンクに受かったのは僕が初めてでした。大学の進路支援課の人もビックリしていました。
「銀行業とはつまりこの世のあらゆる顧客とのパートナーシップであり、僕はそこで経験を積んで、ゆくゆくはぜひ起業したいと考えている」面接が進めば進むほど偉い人が出てきて、例の新卒採用担当が僕に仕込んだその志望動機を聞くたび苦笑いしました。でも通りました。彼が裏でひどく推薦してくれたおかげのようでした。

 入行後すぐの研修はとても辛かったです。府中あたりの研修所に泊まり込んで、講義を受けたりグループワークをやったりしました。周りは僕よりもいい有名大の人たちばかりでした。学歴だけでなく、それに相応しい頭のいい人ばかりでした。「君は地頭がいいから大丈夫」学歴はなくても通用する、そう励ましてくれた例の新卒採用担当は既に人事から異動していて、どこか地方の支店にいるようでした。助けてくれる人はいませんでした。

 最悪なことに、僕と銀行の相性は最悪でした。蒲田の支店で法人営業をやることになりました。熱い想いやキャリアの展望なんてものは1円の売り上げも生みませんでした。大きな顧客先で大きなミスをしました。相手先の、でっぷりと太った四十代くらいの社長から「お前どこ大だ」と聞かれて、正直に答えたときの馬鹿にしたような笑みと、「うちにそんな使えない新人あてるなんて馬鹿にしてるんですか」と上司に食いかかられたときの、死にたくなるような申し訳なさ。

 結局、銀行は2年ほど耐えて、3年目で辞めてしまいました。成績もダメだったし、少し心の調子も悪くなったようで、でもそれを素直に打ち明けるのも悔しくて、長年温めていた事業のアイデアがまとまったので起業のために退社します、と伝えました。
「何やるんだ?」真っ当な質問です。なぜ僕が起業からドロップし、そして逃げ込んだ先の銀行からもドロップしたのはなぜだろうと考えて、行き着いた先は、
「…学生と、若手社員をマッチングするサービスです」
地方のFラン大学生の相手をしなかった人とか、目立ちたい、変わったことをしたいという利己心から合いもしない会社に僕をねじ込んだ人とか、そういう人に対する恨み言のような他責思考でそう決めたわけではありません。僕みたいな目に遭う学生を、ひとりでも減らしたい。そんな純粋な思いだと、自分に何度も言い聞かせました。

 これが原体験か、こんなものかと拍子抜けする皆さんの気持ちは分かります。でも僕にとって、ここに至るすべてが原体験なのです。何かひとつでも変わっていれば、こうならなかったのです。良くも悪くも。


「Wakatte」を立ち上げたあといったい何が起きたのか?

 「Wakatteが実現したいのは、学生と若手社員をなめらかにつなぐ社会。互いにわかりあい、思いつながる社会」
 当時住んでいた六郷土手の狭小1Kで登記して始めた株式会社Wakatteは、幸いなことに創業まもなく参加したピッチイベントでビジョンに共感する複数のVCを見つけることができ、シードラウンドで総計2,000万円の資金調達に成功。優秀な学生エンジニアと学生デザイナーを安く確保することもでき、早々にサービスをローンチ。直後に就活生たちの間でバズり、利用者も利用企業も順調に推移しました。有料プランもすぐに追加し、少ないながらもキャッシュが入るようになりました。

 エンジニアの採用のためにもう少しお金がいるので、次の資金調達のためにいくつかのVCと会いました。その中に、大学時代に僕を除け者にして起業した彼がいたのです!エンジニアではないほうの彼でした。
 彼はキュレーションメディア業界全体が炎上する直前、出版社に会社を売却していました。最高のタイミングでした。彼の次なる挑戦の場は、元いた場所が焼け野原になったこともあってか、VCになりました。「イグジット経験も、その後のエンジェル投資家としての経験も」「起業家目線で起業家に並走」彼の所属するVCのホームページにはそんな景気のいい言葉と、白黒写真の中で腕を組んで静かに、しかし自信を滲ませながらカメラにほほえみかける彼の写真が載っていました。

「君を誘わなかったのは間違いだった」まず彼はそう謝りました。そして淡々と、僕の会社がひどく魅力的な投資先であること、有名VC含め業界の誰もが注目していること、そして彼のVCが僕の会社にお金以外にもたくさんのものを提供できることを、私情をまったく感じさせない冷静な語り口で説明しました。少し前に商社から採用したCFOは出資に賛成でした。既存株主も同じ意見でした。トップクラスではないが知名度と勢いのあるVCで、ここの出資を取れれば、今後の調達にも弾みがつくだろうという話でした。
 悩んだ末に、僕は出資受け入れの判断をしました。いま振り返ると、これが一番の誤りだった気がします。

 いや、違います。もっと大きな誤りがこのあと起きました。
 会社も無事に三期目に入りました。営業に不安のあった有料プランも予想以上に導入していただくことができ、経営状態が多少は手堅くなってきたこともありデットでの調達も増えていました。
 そんなタイミングで、もっとも恐れてきたことが起こりました。調達のたびに指摘され、そして僕自身がもっともよく認識していた事業リスクは、言葉を濁さず言うとユーザー間の性暴力でした。具体的には、例えば地方の女子学生がいたとします。彼女が通うのは有名な大学ではなく、しかし向上心の強い彼女は、商社の総合職を目指しています。もちろん大学には商社に行った先輩なんていません。しかしWakatteで検索すれば、ピカピカの有名大を出てピカピカの一流総合商社に勤める、ピカピカの若手社員がたくさん出てきます。不思議なことに、いや僕たちも理由はよく承知していましたが、Wakatteに登録して就活生と会ってくれる若手社会人は、男性ばかりでした。僕の原体験やホームページに書かれた崇高な理念とは裏腹に、僕のサービスは結局のところ、女子大生と出会いたい若手社会人男性と、そういう下心を承知のうえで、それでもOB訪問がしたい必死な女子就活生のマッチングサービスの様相を呈していました。しかし、だからこそサービスは伸びていたのです。僕も、会社のみんなも、そして投資家たちもその不都合な事実を見ないふりをしていたのです。そしてその事実が、最悪の形で世の中に露呈したのです。

――就職活動をしていた20代の女子大学生に酒を飲ませ泥酔させた上で性的暴行を加えたとして、警視庁は4日、xxx株式会社に勤務するxx xx容疑者(24)を逮捕したと発表しました。学生と社会人を、いわゆるOBOG訪問を目的としてマッチングさせるサービスを利用して知り合ったと見られます。xx容疑者は、警察の調べに対し「合意があった」と答えており…

 寝耳に水でした。社員も投資家も報道で知りました。でも、遂にこの日が来たか、と冷静に思う自分がいました。いつかこうなると、たぶん分かっていたのです。

 終わりの始まり。投資家や金融機関を回り、直近の対応や今後のサービス設計について説明しました。みんな激怒していました。当然です。調達のたび意気揚々とプレスリリースを出していましたから、出資元の名前はすぐに割れました。ネットで散々に叩かれていました。今すぐ資金を引き上げたい、という人もたくさんいました。今すぐ会社を辞めたい、という人もたくさんいました。あれだけ優しくしてくれた業界の先輩からは一切連絡が来なくなりました。こちらから電話しても出てくれませんでした。火消しに追われて深夜に帰宅して、好きでもないお酒を無理やり飲んでは吐いていました。喉に残る変な苦さと酸っぱさ。そうして自分を罰することで、少しでも赦しを得たいという気持ちだったのかもしれません。昼前に目覚めて、携帯には何十本もの不在着信。二日酔いどころかまだアルコールが残っている体を引きずってオフィスへ。人はまばらで、床にはなぜか空になってベコベコに凹んだコンビニの紙パック飲料が、ひとつ転がっていました。みんなそれを見て見ぬふりをして、誰もそれを片付けようとしない。今の僕みたいだな、と思いました。

 一番強硬に資金の引き上げを図ったのは、大学同期の彼でした。安全対策の徹底やサービス設計の大幅な変更、それと変更したピボットや新規事業の検討など、誠意ある対応をほとんどの投資家は評価してくれて、資金引き上げは回避できそうでした。しかし彼のVCだけは違いました。会社が払えないなら代表のお前が誠意を見せろ、と会議室で机をドンドン叩きながら迫りました。しかし彼の要望を受け入れたら、資金ショートの可能性すらありました。裏を返せば、彼はもう僕の会社に、僕に見切りをつけたということでした。
「やっぱりあのとき、お前を誘わなかったのは間違いじゃなかったよ」長い打ち合わせという名の、僕の心を折るための会の終わりに、彼は僕だけに聞こえるよう、ぼそりとそう呟きました。

 もう限界でした。


これからどうするのか?

 正直、まだ何も決まっていません。

 当たり前だろ。
 ふざけやがってよ。

 何も考えたくない。何も見たくない。何もしたくない。あれから何ヶ月経ったろう。事業を失った会社を閉じる仕事をやりきる力はもう僕にはなく、無責任だと後ろ指をさされながら、僕は港南の運河沿いの狭い家で、今日もただ天井を見つめています。金曜の14時。冬。早くも西日になりかけた光が部屋に差し込む。照らし出される僕の無能。いいですよ〜もっと成功者みたいに堂々と!写真映りをよくしたいと、事件の前日にホワイトニングをした僕の歯。今朝の吐瀉物に含まれていた酸やらアルカリやらが貼り付いて、変にザラザラとしたまま歯磨きすらしていない僕の歯。来る日も来る日もデロデロに茹で上がった安パスタのカルボナーラを噛んだ歯。古くなってダメになりかけの妙に甘いみかんを噛んだ歯。笑えば明るくなるよ、と言ったお母さんのその言葉をふと思い出して、ニッと歯を見せて笑ってみました。口内でニチャリと粘つく音がして、僕のほかに誰もいない散らかった部屋で、僕はまだ明るかったあの頃の家族写真の中の僕のように、寝転がったままひとり笑ってみせた。窓の向こうで、東海道新幹線が走り抜ける音がした。

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