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【あとがきという名の随筆】金色の猫|わが家には猫がいない

読了目安時間:約6分(約3,000字)

 「あとがき」はたいてい物語を読んでくださった読者にあてたものだが、ことnoteにおいては、ここではじめてお目にかかる方もいらっしゃるのではないか。
 そう考え、できるだけ具体的な内容に触れるのは避けつつ、私が物語へ寄せるおもいを書かせていただいた。それが、この「まえがき」とも「あとがき」ともつかぬ、とりとめのない文章である。
 『自己紹介が苦手という自己紹介と、代わりの詩』で「自身について話すのが大の苦手」としたわりに、よくもまあべらべらと話したと思う。なんなら本編を載せるより緊張するが、大目に見てもらえたらうれしい。

■イマジナリーキャットと私

 猫のいる日日を思い描いて〈ペット可〉の部屋へ越したのが二〇二二年。西暦がにゃんにゃんにゃんなのは偶然だが、もしかしたら猫神様のお導きかもしれない。
 そのせいか住まいの周辺でしばしば猫を見かける。窓を開ければ眼下の縁側へ満ち満ちた猫、住宅街を歩けばそこかしこに猫、そして近ごろカッフェと見紛うお洒落な動物病院ができた。一面ガラス張りの受付で順番を待つ彼らが、どことなく得意げに見えるのは気のせいか。
 しかしわが家にはまだ、猫がいない。わずらわず健やかに生きてもらうため、あまねく思いを巡らせていたら、いつの間にか二年が経過していた。猫を求めるあまりにとうとうイマジナリーキャットを迎え入れ、彼が壁に映る陽光を追うのを眺めている。そしてお迎えに慎重な猫飼いの友人から、窮極の「猫飼いな」を引き出した。
 それでもいまだ、猫を迎え入れる覚悟は決まっていない。私には生きとし生けるものを育む能力が、著しく欠如しているのではないか。めきめきと張り巡らされた疑念が、生きものへの恋慕を奥底へ押し込めている。
 十年近く前に恋人と夜店で掬った金魚を七日間で死なせてしまった。夜の公園で金魚を弔い、振り仰いだ月がやけに冷たかったのを覚えている。
「君のせいじゃない」
 悲嘆に暮れる私を恋人は慰めてくれたが、それに甘んじてはいけないと思った。
 日日を遣り過すのもやっとな私が、どうして命を守ることができようか。死にたがりだったくせに生きものへ焦がれた愚かさを恥じ、その日からわが家に動植物はいない。
「え? 考えすぎだよ」
 軽く言い放って笑う人もいるが、私はそうは思わない。かけがえのない命をさしでがましくもこの手で連れ帰ったのだから、彼らにはぞんぶんに生きてもらわなければならない。
 いただいた切花が朽ちていくのを見ても、なんだかいたたまれず、しばらく亡骸を見つめてしまう。生きとし生けるものを愛しているからこそ、足りない私がそれを育むつとめを担うのがひどくおそろしい。
 そうして〈ペット可〉が虚しく漂う部屋で、イマジナリーキャットと暮らしていたら、ふと猫の物語を書いていた。

■道しるべとしての猫

「何を考えているかわからない」
 生れ落ちて数十年で、幾度これを耳にしただろう。幼稚園へ入園したてのころ、ひとりで絵を描いていたらあまりにも大人が心配するので、人と話してみたらひどく喜ばれた。そういうものなのかと思い、友人といるようにしたが、常に薄っすらとした膜を感じていた。
 しかし猫にはそれがない。生にひたむきな彼らにとって私が何を考えているかなど取るに足りず、自らを脅かさないかどうかのほうが重要なのだ。私のふるまいがどれほど不器用であろうと、それをいぶかることなく、気まぐれに腹を見せてくれる。
 これはあくまでも種の違いによる無関心から生まれた安らぎで、もし私が猫だったら「あいつはいけ好かん」となっていたかもしれない。それでもヒトの群れからはぐれた先で、私はネコのしなやかなぬくもりに救われている。
 だから迷い猫が人に守られる話ではなく、迷い人が猫に導かれる話にしたかった。生きているとふいに、日日へ大きく作用する思いもかけない出会い、ないし別れがある。人人のまにまを漂えば、おのれを奪われたり落としたり、おぼつかない日もあるだろう。
 うつろにさすらう道すがら、一匹の猫だけがたしかな足どりで前を行く。ひたすらに生と楽を見つめ、気の赴くままに進む小さな背には妙な説得力がないか。金星さながら迷い人を引き連れ、然るべき方角へ導いてくれるのではと、つい期待をしてしまう。そういう思いから、『金色の猫』は生まれた。

■《生》と《死》を描く

 この物語で生きる人人はそれぞれ過ちや思い残し、あるいは〈ずれ〉のようなものを抱えている。世の理から考えて、それらに大きい小さいはあるものの、私は彼らが少しでも救われていてほしかった。
 彼らはことごとく濁っているのではなく、わずかなよどみがありふれた日日の底へ沈んでいる。だから澱ばかりに終始するのではなく、上澄みのひとときも掬うようつとめた。常に泥濘を掻き分けるように生きているのではなく、ほとんどがゆるやかで取るに足りない日だ。
 にわかに浮かんだわずかな澱を掬い、それがすべてのように描いてしまったら、彼らはきっと救われない。美味しいものを食べ、たわいないやりとりに笑い、そうやって日日くだらないを注ぎ足して、澱と共に生きていけたらいい。彼らにとって平凡こそが、生きる糧なのだ。
 そうして《生》を饒舌に語る一方、人(生きもの)が死ぬ物語を書くのは避けてきた。私の至らなさゆえ、《死》を物語へ効果をもたらす〈設定〉にしてしまうのがおそろしい。だから然るべきときにしか描かないと決めている。そして、できればそれは大往生であってほしい。
 二〇二二年の夏、幼いころからひとつ屋根の下で暮らしていた祖父が亡くなった。当年の物語へ生きる人として、真っ先に〈爺さん〉を思いついたのは、おそらく私のこころへ祖父が灯っていたからだと思う。気がつけば、物語にいくつかの《死》を描いていた。しかしそれらが単なる〈設定〉になっていないかという不安は、いまだに消えない。
 生きとし生けるものすべてにとこしえの別れがおとずれ、のこされた人は在りし日の灯を抱いて生きていかなければならない。ありあまる月日を経ても、たしかに私の中へいて、時折ふと、いなくなってしまった人の話をしたくなる。これを私は生きている人のつとめのように思う。そしてそれをつとめとして、生きながらえるとも。
 それをだれかに伝えたいわけではない。ただ、私がそう思いたくて、物語へそれが滲んでいる、それだけだ。九つまでは文学で世界が変えられるといじらしく思っていたが、とうに成人を過ぎた今ではたった一人ですら及ばない気がする。
 だから、おぞましくも愛しい世の中で、私が生きていくために物語を紡ぐ。その上で、私の物語に「皮膚片くらいの細胞」を見つけ、安心して眠れる人がいたら救われる。

「真っ当じゃないとされてきた私にとって、本は救い。本を読んでいるとね、たまに皮膚片くらいの、私を形作っている要素が見つかる。そしたら安心するの。どこかに私と似た細胞を持つ人がいるって。そうやって一晩やり過ごしたら、また本を探す。ここで」

南瓜豆米大『金色の猫』第二十二話

■『金色の猫』を読んでくださったあなたへ

 たいした実績のない、取るに足りない者の小説——しかも、ざっと七万字はある! ——を開いていただき、幸甚の至りです。物語を愛しく紡いできた日日が、あなたがくださった貴いひとときにそっと報われます。こころの底から、お礼申し上げます。

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