【中編小説】金色の猫 第30話(全33話)#創作大賞2024
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六花は溶けたアイスを木製のスプーンでかき混ぜながら、虚ろな目で何か考えているようだった。やがて俯いたまま、「わたしのお祖父ちゃん、近所ではちょっとした名物おじさんだったんです」とおもむろに話しはじめた。
「靴下で作ったお人形をこう……両手へはめて」六花は両手を上げ、指先を口に見立ててぱくぱく動かす。「公園のベンチに座ってずっとお人形とお喋りしてた。たまにわたしを探して学校の校庭へ入ってしまう日もあって、先生たちが警察を呼ぼうとしたところを、わたしがお祖父ちゃんですって。恥ずかしかったな」六花はわずかに頬をほころばせ、溶けたアイスを口へ運んだ。
「そういうお祖父ちゃんだったけれど、わたしは大好きだったの。お父さんやお母さんよりも、お祖父ちゃんのほうがたくさん遊んでくれた。靴下のお人形と、おままごとしたりして、たのしかった」
彼女がどうしていきなりお祖父さんの話をはじめたのか判然としなかったが、俺はしずかに続きを待った。
「小学校四年生ころ、お父さんの転勤が決まって……わたしたちはお祖父ちゃんを名古屋へ置いて、東京へ引っ越した。お父さんはわたしがお祖父ちゃんと仲良くするのをよくおもってなかったみたい。さよならも言わせてもらえなかった」
ふと階段の軋む音がして、振り向けば女の店員がふっくらほほ笑む。器を下げながら追加の注文を尋ねられたので、俺たちはそれぞれあたたかい飲み物を頼んだ。
「それから……名古屋には?」
俺の問いに六花は首を横に振る。「わたしも中学受験で忙しくなってしまって……それきり」「中学受験……すげえ、頭いいんだな」にわかに張り詰めた空気が解け、彼女が小さく笑った。ほどなくしてホットジンジャーと柚茶の爽やかな香りが屋根裏を満たした。
「会えないまま、中三の夏にお祖父ちゃんは亡くなったわ。お葬式へ行ったけれど、顔は見られなかった。ひどく……腐敗が進んでいたそうで」
手にしたカップをしずかにソーサーへ戻し、顔を上げる。六花は可憐な唇へ崩れ落ちそうな微笑を湛え、下瞼のきわを薄っすらと光らせていた。見つめていたら彼女は儚く散ってしまいそうで、俺は思わず目を逸らす。
「ああ、いきなりこんな話して、ごめんなさい。桂一さんにそんな顔させるつもりでは、なかったの」
ふいに手の甲へ冷たい指先が触れ、心臓が小さく跳ねるのがわかった。円卓の真ん中で俺たちは手を取り合う。
「わたし、ああしてボランティアしているでしょう。ふとね、疑わしくなるの。お祖父ちゃんを助けたかったのにできなかったやりきれなさを、彼らで埋めてるんじゃないかって」
彼女は幼子のように俺の中指を握り、躊躇いがちにそっと話した。
「でも、関わるうちに気づいたの。彼らはお祖父ちゃんと全然ちがうって。お祖父ちゃんは手先が器用だったけれど、タケさんはコンビニのおむすびもじょうずに剥けないの。ハチさんはもちもちした弾力のあるおうどんが好きだけれど、お祖父ちゃんは柔らかく茹でたおうどんが好き。ヨシさんは……少しお祖父ちゃんと似ているけれど、ヨシさんのほうがお祖父ちゃんよりおしゃれね」
爺さんがおしゃれというのがいまいち解せず、俺は少し笑った。
「ちがうけれど、わたしは彼らが好き。彼らが好きだからこそ、そこへお祖父ちゃんを見てしまう。わたしの中へ降り積もった愛を掬えば、そこにお祖父ちゃんが光ってるから」六花は眼鏡を外し、目尻を指で拭った。やわらかな光が彼女の頬を淡く照らす。「桂一さんはどう? たとえば琴乃さんを愛しくおもうとき、こころへ灯る人はいない?」潤んだ裸の目が俺に問いかける。透きとおった六花の声が記憶のふちをそっと掠め、俺の胸へ凛とたしかに響き渡った。
「そう頭ではわかっていても、好きな人はひとりじめしたいわよね」
ぱっと俺の手を離し、無邪気にほほ笑む。「ひとりじめって、そういうわけじゃ」うろたえる俺を後目に、「ううん、わたしの話よ」と六花は澄まし顔で器へ口をつける。
無垢な柑橘がほのかに香ったかとおもったら、たちまちどこかへ見失ってしまった。「少し話しすぎてしまいましたね。桂一さんのお話を聞くつもりが、わたしったら」申し訳なさそうに笑い、六花は円卓へ置いてあった眼鏡をかける。もとの控え目な六花に戻り、どこか安心している俺がいた。
✴︎
格子戸を出たら、そこへ暮れそむる街があった。犇めき合うビルの間から漏れる仄日の光が、薄紫に沈む路地裏へ穏やかに振りそそいでいる。革のがま口財布をしまう六花へ礼を言うと、彼女は顔を上げてにこやかに頷く。「またお食事しましょうね」白い頬が夕空に紅く染まっていた。
六花は腕を返し、「わ、もう五時」と小さく声を漏らす。彼女の細い腕には華奢な銀の腕時計がかがやいていた。ふと服へ忍び込んだ冷気に身震いし、俺はすぐさま分厚いコートを羽織る。「さみいだろ、着れば」六花の手からショルダーバッグを取れば、彼女は滑らかにコートへ袖を通した。
「もう、帰りますか」六花が早足になりながら俺を仰ぎ見る。
「いや、ちょっと、公園に寄ろうかな」歩く速度を落とし、俺は公園のある方角を指す。
「わたしは駅へ向かいます」
黒縁眼鏡の奥で瞳が心細げに揺らめいた気がして、「駅まで送ろうか」腰を屈めて彼女の顔を覗き込む。すると六花は屹度した表情で俺を見上げ、「けっこうです」と低く断った。
「そういえばスマホは買われましたか」
「あ、いや……まだ、持ってない」
「そうですか」
沈んだ声に忍びなくなり、「月浜亭。検索したらすぐ出てくるとおもう。そこで働いてるから」そう伝えた。彼女は早速スマートフォンでSNSを開き、検索ボックスへ「月浜亭」と入力する。「猫ちゃんがいらっしゃるんですね。すてき」青白い光に浮かぶ彼女の整った横顔の上に、薄っすらきのこ頭の影が重なった。ふと、六花はきっと阿村の好みに違いないという考えが過り、俺は軽はずみに彼女へ店を教えたのをにわかに後悔する。
大学で哲学を学んでいるという六花は、月浜亭にある呪文めいた題の戯曲に興味津津だった。
有栖川という教授は授業のはじめに生徒を数人指名し、自作の戯曲を朗読させるから、学生たちはいつもびくびくしているらしい。彼女がたまごサンドに異様な拘りを持つ池田という教授の話をしはじめたところで、俺たちは幻音堂の前へ通りがかった。
あたたかな灯りの漏れる店前へ何気なく目を向けたら、そこへすらりと背の高い女の姿があった。赤橙のタイトなワンピースに黒いロングコートを羽織ったその人は、俺のよく見知った人だった。「琴乃……?」