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【中編小説】金色の猫 序・第1話(全33話)#創作大賞2024
読了目安時間:約7分(約3,300字)
■あらすじ
二〇二一年の暮れ、ネットカフェ生活を送る元ホストの渋沢桂一は、炊出しで猫と老人に出会う。老人はかつて須東零四風という無名の小説家だった。侘しい日日がにわかに活気づくも、ある夜を境に老人は桂一の前へ現れなくなる。さらに猫までも雪に凍えて弱ってしまい、絶望に襲われる桂一を助けてくれたのは神田琴乃だった。やがて彼女と暮らしはじめた桂一だが、このままでいいのか漠然とした不安が付き纏う。少しずつ変わろうとしていた矢先、老人と琴乃の思わぬ過去が明らかになる。炊出しボランティアの女子大生、風変りな古書店で働く人たち……様様な出会いや別れに揺れながら、たしかに生きていく男と、それをしずかに導いていく猫の物語。
■序(プロローグ)
いぷぷんじいいいぷhhっほおyぎせwすぇtげうぇっwwwわいうむうtyhへえg……
空白の文書の前を飼い猫が通り過ぎて行った。
これがもし執筆の途中なら悲惨だったろうと考えて安堵していると、振り返った猫が満足げにみゃあと鳴く。黒いぶちのある尻の下には古びた本が一冊。背表紙に『吾輩は猫である』とあった。ノートパソコンの画面へ視線を移すと、猫がはじめて紡いだ一節に自然と頬が緩む。なるほどおまえの言うとおり、この手記の冒頭にはこれがもっともふさわしい。俺はゆっくりとEnterキーを押した。
猫の額を二本の指で撫でながら、そのやわらかなぬくもりを知った三年前の冬をおもう。あの冬から俺はたしかに生きはじめた。二〇二一年春、世界中へ蔓延る感染症が夜の街へ連れてきたマンボウは、俺の暮らしをにわかに変えたが、きっかけはたぶんきっとそれだけじゃない。そしらぬ顔をした黒ぶちの猫が、路頭に迷っていた俺を見つけてくれたのだ。
ふいに猫が指の間をすり抜け、絨毯へ軽やかに着地した。いつの間にか書斎へ忍び込んだ夕陽が、その真っ白な毛を朱く染める。彼の勇ましい尻尾が扉の向こうへ消えていくのを、俺は満ち足りたおもいで見守った。
■第1話
「なんだ、おまえか」
生温かくて湿った何かがふくらはぎを撫ぜた気がして見ると、小さな白い猫が弱弱しく鳴いていた。街灯に照らされた黒いぶちのある腹には骨が浮き、黄ばんだ毛は艶がなくぼそぼそしている。
「そうか、おまえも腹減ってるんだな」
俺は今しがた炊出しでもらったばかりの焼魚を割箸で半分に切り、ベンチの下へ投げてやった。猫はおそるおそる匂いを嗅ぎ、少しずつ食べはじめた。鼻の下にある口髭のようなぶちが可愛い。
同じく炊出しに来たであろう垢まみれの爺さんが、恨めしげにこちらを見ながら通り過ぎて行く。せっかくもらったものを猫にあげるなんてもったいないとでも思ったのだろうか。
「しょうがないだろ」
つぶやいたつもりが喉の奥から掠れた低い音が漏れただけだった。紙コップに口をつけ豚汁を啜る。さっきまであたたかな湯気を上げていたそれは、冬の外気ですっかり冷たくなっていた。それでもひさしぶりに味わう野菜と肉の甘い味。
「うまいな」
そう言ってベンチの下を覗き込むと、半分の焼魚と共に猫は姿を消していた。「なんだよ。礼くらいしろよな」小さく舌打ちをしながら上体を起こし、残った焼魚に箸をつけた。ぱりぱりに焦げた皮目がこうばしく、以前なら残していたところまで綺麗に食べた。
米も一粒残らず完食すると、寒空へ向かって大きく白い息を吐いた。無意識にダウンコートのポケットを探ってしまい、煙草のないことに気づいてまた舌打ちをする。よく考えてみたら、この公園も数年前から禁煙化されたのだった。愛煙家にとっては肩身の狭い世の中になってしまったなどと、歳にそぐわないじじくさい台詞が浮かぶ。
一か月程前、ホストをやっていたころに客からもらった煙草のストックが切れた。しかしネットカフェと飲食代を払うのに精一杯で未だに買えていない。最近ではネットカフェに滞在し続けるのも厳しく、街をふらふらと歩き回ったりファストフード店に追い出されるまで居座ったりしている。金もないし禁煙するチャンスかもしれない。
✴︎
「ふうか」
突然目の前に白い箱が現れ、驚いて横を見ると、いつの間にか先刻の爺さんが隣に座っていた。白髪交じりの無精髭に脂ぎった黒いコートという薄汚れた見た目の爺さんだが、よく見ると有名ブランドの青いヴィンテージキャップをかぶっている。現行品にないデザインのため、知らない人は偽物と見まがうかもしれない。しかしこれはかなりレアなはず。今この爺さんの頭に乗っかっているのが奇跡だ。
爺さんはふたたび「ふうか」と言いながら、マールボロの箱を差し出す。歯がほとんどないのでわからなかったが、どうやら「吸うか」と言っていたらしい。脳裏に浮かんだ〈禁煙〉の二文字がゆらゆらと溶けていく……誘われるままに手を伸ばし、箱から金色の棒を摘まみ出した。はて、金色の棒とは。
右手の親指と人差し指の間にあるそれを、街灯に翳して丁寧に観察した。光を浴びて黄金色のかがやきを放つその棒は、俺にどこか懐かしい記憶を思い起こさせた。
「これ、ばあちゃんちにあったわ」
それは、金紙に包まれた棒状のチョコレート菓子だった。「煙草じゃないんかい」軽くツッコんだら、爺さんは赤黒い歯茎を見せて満足そうに笑った。そして自分もマールボロの箱を軽く振り、ピンク色の棒を垢まみれの掌へ落とした。
「ホストか」口内でチョコレート菓子を溶かしながら爺さんが言う。
「え、あ、はい。元……すけど」
「猫も女といっしょか」
「はい?」
聞き取れなかったものと勘違いしたのか、爺さんはもう一度繰り返した。
「んん、まあ、猫みたいな女もいるす、かね」
「連絡してもスルーするくせに、ある日突然店来たり……?」と続けたが、爺さんは興味なさそうに虚ろな目をしている。なんとなく癇に障ったので話すのを止め、チョコレート菓子を齧った。甘いものはあまり好きではなかったが、栄養が足りていないせいか美味く感じた。
「あいつはおれに寄りつかなかった」
しばらく考えて、爺さんの言う〈あいつ〉が例の黒いぶちの猫だとわかった。そして同時に、あの恨めしげな表情の意味もわかった。懸命に猫との交流を試みる爺さんを想像して、俺は思わず噴き出してしまった。
「おかしいか」
「ああ、いや、ごめんなさい。いやでもたぶんあれ、俺が飯食ってたからじゃないすかね」
「おれも飯を食っていた。おまえといっしょのやつ」
今度は声を出して笑ってしまった。謝りながら下を向いて肩を震わせていると、爺さんも「はひっ、ふ」ともらい笑いをしている。それがまた可笑しくて、俺は前屈みになったまましばらく顔が上げられなかった。
「なんか……ひさしぶりに、笑った」
こわばった表情筋を揉みほぐす。指先が冷たくかじかんでいたため、背筋をひゅうっと悪寒が駆け抜ける。「さむ」口に出したら、爺さんが小さく「うん」と頷いた。
「あいつまた見かけたら、教えて。いつもここらへんにいるからよ」
おもむろに立ち上がり、ポケットから俺に白い箱を放ってよこした。それは未開封のセブンスターだった。「おれはもう長いこと吸ってない。コンビニのトイレに忘れてあったから拝借しただけだ」爺さんはにかっと笑う。俺は白い箱を少し持ち上げて、「あざす」頭を下げた。
「あの、そのキャップどうしたんすか」
「んん、ああ、これか。かっこいいだろ」自慢げにキャップを持ち上げると、禿げ上がった額が覗いた。
「だいぶいかついっす。つかそれたぶんめっちゃレアすよ。売ったら高い……かも」
逆光だったので定かではないが、にわかに爺さんの表情が曇ったように感じた。煙草の礼に親切心で教えたつもりだったが、余計なお世話だったかもしれない。
「これは、売れねえよ」
「え、売れますよ。欲しいってやつ、いっぱいいますから」意気込めば、爺さんはキャップを深くかぶり直して小さく笑った。
「おまえ、女にはモテねえな」
「へ……?」
突然小さな羽虫が瞼に衝突し、思わず悲鳴を上げる。それを手で払いのけているうちに、爺さんはもう大通りのほうへ歩き出していた。その丸まった背を目で追いながら、「昔はモテたのにな」と伸ばしっ放しの髭を撫でた。
・第2話:https://note.com/61shizen/n/n4c17060988cb
・第3話:https://note.com/61shizen/n/n06a54c0cad10
・第4話:https://note.com/61shizen/n/n77612bae2135
・第5話:https://note.com/61shizen/n/nef7ebc8b9a05
・第6話:https://note.com/61shizen/n/n872449db2244
・第7話:https://note.com/61shizen/n/n6a0bf0b10eea
・第8話:https://note.com/61shizen/n/n8b94ea3390f0
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・第10話:https://note.com/61shizen/n/n1cd3755abe1e
・第11話:https://note.com/61shizen/n/n295c1620ce6b
・第12話:https://note.com/61shizen/n/n0064632b9cce
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・第15話:https://note.com/61shizen/n/nc6f55f8c10ad
・第16話:https://note.com/61shizen/n/n40e4ab5c7bb8
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・第20話:https://note.com/61shizen/n/nc7d347022280
・第21話:https://note.com/61shizen/n/n67a363ce9935
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・第23話:https://note.com/61shizen/n/na9e7618a9a97
・第24話:https://note.com/61shizen/n/nfa7fbbcd478b
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・第28話:https://note.com/61shizen/n/n1e3214a9f258
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