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【中編小説】金色の猫 第29話(全33話)#創作大賞2024

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読了目安時間:約5分(約2,300字)

六花りっかさん!」
 駅の構内で会ったあの日より髪が伸びていたものの、黒縁眼鏡の奥にある三日月型の目ですぐに彼女とわかった。鮮やかな青いコートを片手に持ち、白いニットワンピースを緩やかに纏っている。ざらついた掌へひとひらの雪が舞い落ち、泡立っていた血がしんと静まっていった。
「桂一さん、見違えたのね。気がつかずに通りすぎてしまうところでした」
「ああ……いやあ、まあ、汚かったっすよね、俺」首へ手をやり、照れ笑いをする。
「え! あ! ちが……そういう意味ではなくて……ごめんなさい、わたしったら」
 慌てたようすで手を振る六花に、俺は真冬の白鼬しろいたちをおもう。
「そういやあんとき、ブランケットありがとうございます。あの……畳むと猫に……」
 今は飼い猫のお気に入りになっていると伝えたら、六花はしとやかにマスクの口元へ指先をやり、小さく「まあ」と漏らした。
「ああ……もう、俺の猫じゃねえか」
 調子よく話してから琴乃の家を出たのに気づき、俺は棚のほうへ目を逸らした。凍てつく指先を滑るざらりとした愛しい感触をおもいながら、俺は手にした本を棚へ戻す。茶色く焼けた背表紙には『吾輩は猫である』とあった。
「あの……お昼って……もう、食べました?」
 六花に尋ねられ、俺は首を横に振る。一日二食しか食べない生活が染みついているので、そもそも昼を食べるつもりがなかった。
「よかった、わたしもまだで。もしおいやでなければ、いかがですか。ここで話しているのも、なんですし……」
 六花は入口のほうへ目を遣る。パンツスーツに身を包んだ壮年の女が、店前の棚を眺めていた。
「でも俺……金ないっすよ」
「それが断る理由なら決まりです。行きましょう」
 いつになく歯切れのいい口調で言い、六花は俺をそこに待たせて帳場へ急いだ。帳場から俺たちが顔見知りなのに驚く椿山つばやまの声と、六花の鈴を転がすような笑い声が聞こえる。俺はふたたび『吾輩は猫である』を手に取り、裏表紙へ貼られた六千円のラベルに目玉が零れ落ちそうになった。

✴︎

 もちもちの麦ごはんへ明太子かがやくふっくらとしたとろろをのせ、六花はそれを小さな口いっぱいに頬張る。幸せそうに咀嚼する彼女を見つめていたら、食べているはずなのに腹が鳴った。
 俺たちは幻音堂げんおんどうから歩いて五分ほどの、古い商店を改築したカフェにいた。店内の狭くて急な階段を上ったところにある屋根裏の個室は、座っていても天井に手が届きそうだ。
「桂一さんには狭かったかしら、ごめんなさい」腰を折って座敷の奥へ進む俺を見て、六花は笑った。
 考えてみれば六花の口元をみるのは初めてだった。明太子に負けない艶やかな唇に、慎ましやかな鼻、小さな顔の半分を占めている黒縁眼鏡を外したら、それこそ人気の女優と見紛うのではと思った。
「わあ、いい香り……」六花はふきのとうの菜の花のおひたしを口へ運び、うっとりと目を細める。そして軽やかな音を立てて春巻きを齧ったかと思えば、「ん! んん! そら豆が入ってる!」と晴れやかに面を上げた。俺の視線に気づき、彼女は不思議そうに俺を見つめる。
「ん……? なんかわたし、おかしいですか?」
「いや、なんか……かわいいなあって、おもって」つい声の端端へ笑いの余音が滲んだ。
「ああ! そういうの、よくありませんよ。わたし、わかるんですから、桂一さんに、好きな人がいるの」
 六花は澄ました顔で味噌汁の入ったお椀へ口をつける。「え?」にわかに俺は取り乱し、箸から味噌汁へ蕪を落とした。
「ほらね、当たりでしょう」清楚な装いに合わず、六花はいたずらな笑みを浮かべる。
「何かあったなら聞きますよ」
「いや……いいっすよ……」
「あったんだ」
「あっ……」
 窓のない四畳半で円卓を囲み、しばし六花と見つめ合った。星がちりばめられた磨硝子の照明から漏れる光が、砂壁をきらきら揺蕩う。すだれ睫毛の下へ覗く瞳は黒豆のように艶やかで、俺の舌をまろやかに溶かした。
 琴乃に助けられた雪の日から金之助と三人で共に暮らした日日、そして爺さんと琴乃、それから晨太朗しんたろうとの繋がりに至るまで、俺はところどころつかえながら時間をかけて話した。折折、六花は箸を置いて考える素振りを見せながら、俺の下手くそな表現から真意を丁寧に汲みとってくれた。取り立てて驚いたり騒いだりせず、淡淡と耳を傾けてくれたのがなにより有り難かった。
 ひと通り話し終えたころで、俺たちの前へ黄粉のかかったよもぎのアイスが並ぶ。甘いものは苦手だからと六花へ器を差し出したら、「よもぎだからそこまで甘くありませんよ。食べてみたら?」と返された。ためしにひと匙掬って口へ運べば、こうばしい黄粉のあとに青青とした香りが鼻へ抜けた。
 甘いものといったら、子どものころ父親が母親の機嫌をとるために買ってくる油っぽい洋菓子の印象が強い。俺にクリームたっぷりのそれを得意げに見せては、「え! 桂一はきらいなのか!」とあたかもはじめて聞いたかのように驚き、俺のぶんまで平らげる。「もったいないなあ、うまいのになあ」そうだらしない笑みを浮かべながら、こちらを窺う父親の視線がおぞましくて大嫌いだった。
「なんなんだろう」冷たい塊がとろりと食道を流れていく。六花が器から顔を上げた。「ん?」六花の喉から漏れた音が求肥のように俺をそっと包み込む。
「金星」ふと砂壁に指を這わせ、俺はつぶやく。白い手の甲へ透けた静脈の上を透きとおった光が流れた。
「きっとこうやって光って見えただけなんだ。琴乃や、爺さんが見ていたのは俺じゃなくて、晨太朗ってやつの光なんだよ」
 柔らかな光を握り潰そうとしたら、指の隙間からとろとろ逃げていく。「だとしたら俺はなんなんだろうな」自嘲の笑いを漏らし、熱い緑茶で喉を焼いた。

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