スウ・ドン剣法免許皆伝58心を回す剣道?
剣道の世界では無心という言葉がよく使われる。深い意味があるのだが、今日はその事はさておいて、一体、心は何処にあるのだろう。昔から人は心は胸にあると思ってきた。だから、胸の内を明かす、胸中お察しいたします、胸が痛むとか使う。心臓がドキドキ、バクバク仕出すから、心は胸にあると思ったのだ。でも現代人は知っている。心は頭の中にあるのだと。だから、「頭にきた」と怒っている。でも、頭の中は見えない。心は見えない。心は何処に現れるのだろう。🐶の心はしっぽと口に現れる。ご主人さまが家に帰ると、しっぽを振ってワンワンと吠えて、素直に喜びの気持ちをストレートに表現する。人の心はどちらかというと、口より手に現れる。ガッツポーズ、ピースサイン、拍手、握手、締めの手打ちなどなど。だから剣道する時にも、相手の手元を観察していればいい。相手の「打とうの心」は必ず手元に現れる。昔の人はそこの所を「谷を見る」と表現して修行した。実は、そこを意識して稽古すると何だか凄く、いい気分で稽古が流れていく。みんなは谷を見ないで相手の面部を見ていると言うか面を意識している、面を打とうとしている、だからうまくいかなかったりするのだ。今頃になってこんなことに気付くなんて、時すでに遅しの感もあるが、仕方ない。剣道始めてからは、とにかく打ち練打ち練の繰り返しだったから。それが剣道の修行だったから。相手の竹刀は意識しても手元なんて特に。でも、今、心は、それこそ犬🐶のしっぽのように喜びで振れ振れだ。谷見れることは凄い。チャレンジあれ。
さて、心変わりという言葉があるが、マイナスイメージで考えられることの方が多い。でも、心変わるのが心の正体だ。心の正しいあり方と言える。若者には死語かも知れないが、昔から言うではないか「恋の病」と。一人の異性のことしか考えられなくなった状態のことを言う。心がその人にだけ取り付かれて、ほかの何も見えなくなってしまった状態だ。病なのだ。正常ではないのだ。心はその名の通り、ころころと転がって移り変わって行く球体のような物なのだ。心は回らなければ仕事をしない。世の中の回転系の物には必ず心棒がある。角があると回らない。八段受審の方々は多分ほとんど心を回していない。初太刀の面一本にとにかくこだわっている。恋の病ならぬ「初太刀面一本の病」とも言える。それは現代の剣道の気分、剣道界の流れ、審査員の心、剣道はこうあるべきという一つの囚われ、拘りでもある。それを全否定はしない。私自身もそれを求めて稽古しているから。でも、ふと思うのだ。刀の世界で言うと、全然相手に打たれない人、全部躱しきる事の出来る人は、実は強い人なのではないか。相手は斬らないが、自分も斬られない、それは現代の八段に匹敵する位強いのではないか。でも今の審査に置き換えると、その人は合格しない。とにかく一本打たないと合格しない。剣豪のような剣道を見て、合格させる勇気ある審査員はおそらく一人もいない。それは仕方ない事でもある。一本を競うのが現代剣道だから、一本取れない人を合格させる訳にはいかない。剣豪は取れないのではなく、命を取らないだけなのだけど。まあ昔は段なんて無かったから、段は全剣連の収入源だから、仕方ない、協力しよう。
さて最後に、無念無想(無我の境地)と言えば、大変ムツカシイ境地のように思われがちだが、実は簡単な事だ。我の無い境地とは、相手のある境地、相手の事を素直に観察している状態。昆虫に、草花に、虹に、雪景色に、雨に、風に、幼子は観察し(ただ自然に目に入る)て、感動している。無我夢中、無念無想はただ観察、そこに採集や収集が入った途端に無念無想でなくなる。剣道に当てはめて考えてみよう。動かない虫も突っつくと動く事がある。観察していて、コウシタラドウナルドウスルとやってみることがある。コウシテコウスル、コウシテコウウツは我が心の出現、採集の次元だ。面が一本欲しい。まさか採集だ。コウシタラドウスルは観察の次元。観察していて、コウシタラあなたはドウスルを考えて、動いてみること、あるいはジット観察してみることが、無念無想無我の境地の剣道稽古のやり方だ。ムツカシソウでしょう。ムツカシクナイんですよ。観察忘れて収集を追い求めているからです。観察は楽しいぞお!?????まさに心は次から次へところころ回っていっている。一つ所に囚われているようで、見えない心は次から次へところころ回転して、移り変わっているのだ。